天皇皇后ご夫妻の英国訪問によって、ロンドンの街並みがテレビに映し出された。1999年から10年間を現地に暮らした私には、慣れ親しんだ懐かしい景色である。そして、久々にこの人の描いたロンドンの絵画シリーズを思い出した。
アンドレ・ドラン(1880~1954)――。生涯に何度か作風を変えたが、若い頃にはフォービズム(野獣派)の旗手として、美術界に激烈な新風を巻き起こした。
パリの有力画商のアンブロワーズ・ヴォラールは、都市のシリーズ画を企画し、気鋭のフォービズム画家のドランをロンドンに送り込んだ。
ヴォラールの目論見には、モネの描いたロンドンが人気を博したことから、2匹目のどじょうを狙う下心があったことは間違いない。20世紀を牽引する活気に満ちた世界一の大都市に、革命児のドランをぶつけることで、斬新な果実が生まれることを期したのかと思われる。
プロデューサーとしてのヴォラールの狙いは、見事に的中した。1906年3月から4月にかけてドランはロンドンを訪れ、30点の風景画を描きあげた。結果、これまでどの画家が描いた風景とも違う、独自のロンドン絵画が誕生した。
ひと言で言うなら、それは色彩の横溢、爆発である。ロンドンの、堂々として古色に満ち、重厚な都市の顔を、ドランは、カーニヴァルさながらのド派手な色模様で塗りたくってしまったのだ。
ルネ・クレマン監督に、第2次世界大戦時のパリ解放を描いた『パリは燃えているか』という映画があったが、それに倣えば、まさに「ロンドンは燃えているか」と質したくなるほどの、真っ赤っ赤なロンドンなのである。
ここに紹介する『チャリング・クロス・ブリッジ』(1906 オルセー美術館所蔵)も、ドランのロンドン・シリーズの1点。個人的には、ロンドン在住当時、何度となく通った場所なこともあって、愛着を覚えてならない作品だ。
煙を吐くのは、橋を渡る汽車と、テムズ川を行く蒸気船。川南から橋を越えるとすぐのチャリング・クロス地区は古くからロンドンのへそとされ、各地の距離や方向はここを起点に表示されるのが習わしになっている。
チャリング・クロス・ブリッジの奥に姿を見せるのは、ビッグベンと国会議事堂。これがなければ、ロンドンだと気づかず、陽光溢れる南仏と錯覚する人もいるだろう。
エンバンクメントと呼ばれる川辺の道を行き交う馬車は、ひどくせわし気だ。川に沿って湾曲する道筋のせいもあって、コーナーを曲がり疾走する、競馬か競輪のデッドヒートを思わせる。そよ風涼しき川べりを貴婦人を乗せて優雅に行く馬車ではなく、1分1秒を惜しみつつ、尻に火がついたような慌ただしさで走り抜ける、そんな印象だ。
湧き立つ活気を呈した町を、赤や黄色、オレンジ色が包みこむ。街路樹までがオレンジ色なのは、いかにもフォーブだが、世界経済を牽引する大都市として、燃え立ち、吠え立つロンドンを描くに、野獣派の筆は、殴り込みのように暴力的な出会いかと思いきや、意外にも奇妙なマッチングを見せる。
この大都会の喧騒、狂騒になじめず、神経衰弱にかかった日本人がいた。夏目漱石である。漱石は1900年から2年間をロンドンに暮らしたが、すべからく生き馬の目を抜く式の利で動く社会に傷つき、文明への根本的懐疑を深めざるを得なかった。
漱石が苛立ち、反発を強めた「ロンドン」が、ほぼ同時代、同じ空間に立ったドランによって、赫々たる赤光を放射する夢魔のような都市に転じられた。両者の感性は、遠いようでいて、実はコインの表裏にも似て、同じものに反応していたと言えるのではなかろうか。
近代都市は眠らない、眠れない。花は季節に応じてしか咲かないが、都会は四六時中、狂い咲きである。
漱石はドランを知らず、ドランは漱石など知りようもなかった。それでいて、20世紀の入り口にあって怪気炎を吐く魔物のような大都市を、それぞれに鋭く見すえていた。
ドランのロンドン・シリーズは、この魔物のような都市の過剰な発色を見逃さなかった、芸術上の果実だったのである。