会場にいた2時間半ほどの間に、一体いくつのその姿、その場面を目にしたことだろう。睦み合い、絡み合う男女、そのものずばりの交合図も多い。東京の永青文庫で開催された、日本で初めてという春画展。大変な人気だというので、平日の夕方を狙ったが、それでもかなりの人出である。女性客が多いのにも驚いた。
実は、この世界に全く馴染みがないわけでもない。大学での専攻が日本近世文学だったので、浮世絵(錦絵)にも親しんだし、その中でも独特の位置を占める春画に関しても、画集などでは目にする機会はあった。ただ、さすがにこれだけの点数の実物を目の当たりにする機会は、地道な半生(!)、とんとなかったといってよい。
展覧会のポスターには「SHUNGA」と横文字が記され、「世界が先に驚いた」との謳い文句が躍る。2013年、ロンドンの大英博物館で開かれた春画展が大評判を呼び、遅まきながら、「祖国」での展覧会の契機となったことを踏まえている。とはいえ、「SHUNGA」は春画である。そこには、日本人ならではの独特の愛の哲学が籠められている。次から次へと春画を見てまわるうちに、私の脳裏にひとつの物語――『古事記』の国生み神話が蘇ってきた。
女神のイザナミが「わが身は、成り成りて成り合わざる所、一所あり」と言い、男神のイザナギが「わが身は、成り成りて成り余れる所、一所あり」と答え、両神はそれならば、成り余る所と成り合わぬ所とを重ねて「みとのまぐわいせん(交接しよう)」ということになる。事に及んでイザナギの曰く、「あなにやし、えおとめを」(ああ、何とよい女よ)」――。イザナミも曰く「あなにやし、えおとこを(ああ、何とよい男よ)」――。
あなにやし! ああ、これぞ春画の原点にして永遠のテーマ、すべての交合図に共鳴する愛のオマージュだ。古くは平安時代から江戸時代の終わりまで、延々と描かれ、親しまれてきたおびただしい数の春画――肉筆画にしろ版画にしろ、そのことごとくに「あなにやし」が言霊のようにこだまする。
性のシンボルたる陽根、女陰がことさらに強調されるのは、イザナギ、イザナミの神話を受け継げばこそだ。つまり、成り余り、成り合わざるソコは聖所なのである。愛のシュラインとして権威に包まれ、オーラを放ち、呪術的な力を秘めていなければならない。髪の毛以上の精細さで、それこそ一本一本の毛まで書き込もうという陰毛の描写に見る執拗さもまた、リアリズムというより、神域を囲み守護して生い茂る霊的な魔力に魅せられているかのように感じる。
江戸期の春画には、巧緻を極めた版画技術だけでなく、それこそ近代小説も顔負けというほどに、精緻な人間心理の綾を浮き彫りにし、男女関係の深淵を覗かせる作品がある。
歌麿の高名な『歌まくら』シリーズのうち、今回の春画展で唯一展示されていた絵(*写真参照)は、男女の交合部分も、重ねられた唇も、ともに直接は描かずに秘している。女は後ろ姿、男も顔の殆どが女の髪やうなじで隠されている。その代わりとでも言うように、贅を尽くして刷られた衣装が強烈なオーラを放つ。そして、絵のひとつの中心点となる男が持つ扇に狂歌が一首。「蛤にはしをしっかとはさまれて 鴫(しぎ)たちかねる 秋の夕ぐれ」――後半は西行の有名な和歌の一節「鴫立つ沢の秋の夕ぐれ」を踏まえているが、蛤とは女陰のこと、要は男根の端を女のそこがしっかりと挟んで離さないと、固く結ばれた2人の下半身について述べている。
何とも洒落た意匠だが、気をつけて見れば、さらに隠し技のような決定的なポイントがある。女の髪に隠れ加減にして、しかしはっきりと男の右目が描きこまれている。その眼差しの怜悧なこと! 男は愛の行為の最中においても、しっかりと女を観察している。まるで調教師か外科医とでも言うように……。
北斎の『喜能会之故真通(きのえのこまつ)』の中の、裸の女が蛸に絡まれ、秘所や口を吸われる絵など、画狂人の面目躍如といったところだが、これはもう、サドもバタイユもぶっ飛ぶとでも言うか、時代を突き抜けた超マスターピースであろう。
先の歌麿もそうだが、男女交合図を眺め続けていると、基本的には歓びに満ちた「あなにやし」の狭間に、ふと哀しみのような風が立つことがある。どこまで行っても、成り余る性は余るがまま、成り合わざる性は合わざるまま、互いに惹かれ合い、求め合うしかない男と女の宿命のような悲哀を感じてしまうのだ。「性」という漢字は「さが」とも読むが、春画の奥底に、生きとし生けるものの「性(さが)」を覗いたということなのかもしれない。