アンドレ・ドランという名前は、印象派の大家などに比べると、さほどの知名度がないかもしれない。しかし実は、ドランの作品はかなり日本に持ち込まれている。1920年代、既に大家であり、かつ時代の尖端を走る感の強かったドランの作品を、在欧コレクターの福島繁太郎がパリで収集につとめた。福島は家族ぐるみでドランと親交を深め、慶子夫人は肖像画を描いてもらう約束まで交わしたが、残念ながらこれは夫人の病気のために、実現しないままになった。
その遺産を受け継ぐように、その後は福島以外のコレクターの手も経て、今ではドランの絵を日本各地の美術館で堪能できる。その充実の一端に触れつつ、各地の美術館を訪ねながら、改めてドランの多彩な画業の軌跡をたどってみたいと思う。
ドランの出発点がフォービズム(野獣派)にあったことは既に述べた。実際には1904年から06年までと、比較的短い期間であったこともあって、いかにも前衛美術然としたこの時代のドラン作品は、あまり日本には入ってきていない。そのなかにあって、東京のアーティゾン美術館に2点のフォービズム時代のドランの絵があるのは貴重だ。
1点は、『女の頭部』(1905年頃)――。人間の顔というものは、子供の描く絵に顕著な如く、髪の毛の色、瞳の色、肌の色など、実は固定観念の固まりと化しやすい。水の表面や空の表情を描くような場合と比べ、常識としての表現の幅は決して広くないのである。しかし、野獣派のドランは、そうした常識を木っ端微塵に打ち砕く。人間――ここでは女性の顔が、常識外の色で自由に塗られている。
自由に――というのは注意を要する表現かもしれない。赤や青に代表される独特の色づかいには心理的な陽と陰が重ねられているようだし、それらが隣り合ったり、重なり合ったりすることで、近代女性の心の深奥にひそむ心理的な綾に迫ろうとするかに見える。つまり、「自由」は「好き勝手」とは違い、日常的な色彩感覚では見えなかった存在の本質、内面的真実を視覚化するものなのである。
背景のベースも、大まかに言って、左から中央、右へと、青、黄、赤と、意識して分割され、不思議な調和を与えている。女性の抱える複層的な胸の思いを、プリズムでも通したかのように、色彩分割をしてカンバスに投射しているかのようだ。
それでも、この女性の絵には、「野獣派」の呼称にふさわしい、喚き、叫ぶような主張がある。激しさがある。しかし、この美術館が所蔵するもう1点のドランの絵は、やはりフォービズム時代の作品でありながら、受ける印象は全く違う。
『ヴァイオリンを弾くヴラマンクの肖像』(1905)――。ヴラマンクは、画家のモーリス・ド・ヴラマンク(1976~1958)のことで、ドランとは友人の間柄だった。ヴァイオリンを得意とし、画業だけでは食べていけないので、オーケストラでヴァイオリンを弾き、生計を立てた時期もあったという。
ドランの描いたこの絵では、ヴラマンクは友を前にして、くつろいだ雰囲気の中にヴァイオリンを弾いている。青や茶を基調としつつ、全体としてほのぼのとした印象を受ける。背景も家具やら壁紙やら、結構細かく描きこまれていて、それらが心地よい調和の中に息をしている。野獣派とは、色彩の解放ではあっても、必ずしも過激派ではないのだ。このような温和な野獣派の絵もあるのである。
画面の右下にはドランのサインがあるが、左下にはヴラマンクの手で、サインと「ドランによるわが肖像」の書き込みがある。ドランが描いたこの絵を、モデルとなったヴラマンクも気に入っていた証拠になろう。
20世紀の初頭、絵画のあり方も、文明の行方も、激しく変わりゆく転換の胎動の渦中にあって、ふたりの前衛画家が育んだ友情が、この絵には美しく結晶しているのである。
タペストリー制作のための下絵(カルトン)を描くことは、ゴヤの画業の一つの柱であった。生涯に63点に及ぶ下絵を描いている。
1786年から87年にかけて、再びエル・パルド宮に飾る四季をあしらったタペストリーのために下絵を描いているが、ここでもマハたちが季節の風景の中に魅力的な姿を晒している。
春を表す『花売り娘』(プラド美術館)――。膝をついた後ろ姿のマハが、裕福そうな夫妻にバラの花を売る。男は、指を口に持って行き、「内緒だよ」とでもいうような口止めの合図を送る。妻のいないところで、これまでにもさんざんアプローチをかけてきたのか、男の下心が見え見えなのである。
男が別の手に子ウサギを持っているのは、サプライズの手段らしいが、象徴学的に言うと、多産を意味することにもなるという。春にふさわしいあしらいなのだろう。
春を描いたこの絵では、マハは花売り娘。身分の差に堪えつつも、男たちの求愛を集めて、花をひさぐ。
やはりパルド宮の食堂に飾られる四季を主題としたタペストリーの下絵として描かれた『ブドウ摘み。または秋』(1786 プラド美術館)では、ブドウの房をいっぱいに詰めた籠を頭に載せたマハが正面像を晒す。いかにも秋の豊穣を思わせる季節の彩だが、マハの置かれた状況はいささか複雑である。
主要登場人物はマハの頭上のブドウ籠を頂点にした三角形の構図に収まり、左右底辺の点をなすのは夫と妻と思しき男女である。三角の古典的な構図に収まる人間関係としては、生産(販売)者と購入者という対立軸だけでなく、明らかに服装に差があるので、身分の高い裕福な夫妻と、土臭いブドウ農家の娘という階級的な対立がある。
それだけはない。艶福家めいた裕福な男は「どうだ、美味そうなブドウだろう」とでも言うように、妻にひと房を差し出すが、その視線は妻に向くというより、上目遣いにブドウ売りのマハに注がれているようにも見える。
その視線の危うさに、肝心のマハは気づいているのかいないのか微妙だが、黄色の服の富裕者の後方、農作業中の男(おそらくはブドウ売りの娘の家族であろう)の視線と表情に、はっきりと不安と嫉妬が描かれている。
これぞすなわち三角関係と言えば、駄洒落のようになってしまうが、ゴヤはこの一見すると平和そのもののように見える、のどかな秋の田園風景のなかにも、階級対立や、そこに差し込む複雑な男女の色模様を見逃していないのだ。
ただ、この手のマハの絵を、社会批判だけに塗りこめてしまうのも、作品を細らせてしまうことになろう。色恋沙汰はギリシャ・ローマの神々たちの十八番。それを思えば、エロスに彩られた神話世界が牧歌調の民の暮らしに降りてきたと言えなくもない。
そうした神話性の名残を引きずるからこそ、絵をもとにしたタペストリーが王宮の壁に掛けられもしたのであろう。実りの秋の豊穣にふさわしい、新たな神話世界が、民画のような味わいをもつ風俗画の中に息づいているのである。
ドランは成長に従い、画風を変化させていった画家だが、その多様多彩な画風をひとつの美術館で見たいと思えば、名古屋のヤマサキマザック美術館がお勧めである。この美術館のドラン・コレクションは特に充実しており、風景画、静物画、肖像画など、さまざまなジャンルを時代ごとに見ることができる。
女性像から見てゆこう。まずは『胸を開いた婦人の半身像』(1928~29)――。ドランは裸婦像もいくつか手がけているので、この女性が胸をはだけ、乳房を露わにしていること自体には、驚きはない。
だが、見れば見るほど、不思議な絵なのである。この女性が何者なのか、理解に苦しむ。童話から抜け出てきたようなあどけない少女の面影を残す顔だちでありながら、大人の気品に溢れ、性を売るような街の女にはおよそ見えない。高級娼婦のような華やぎや妖艶さとも無縁だ。
ならば何故、この女性は乳房をさらすのか? そもそも、これは世間が普通に言う「ヌード」なのか? エロティシズムは感じられるか? 私の答えは、否に傾く。
ルネサンス以来、幾多の画家たちが描き続けてきたヴィーナスに代表される理想の美としての裸体画とは、かなり趣が違う。乳房だけは見せても、裸体ではないのだ。かつ、エロティックな魅力で見る者に迫るような陶酔感がない。
美術史家は、この絵にはルノワールへの敬意が込められていると語る。しかし、それだけでは、とても説明しきれない。顔、両の乳房、そしてもうひとつポイントとなるのが、腹の前に横から差し出された左の手だ。大きい。主張がある。以前に、このような主張のある女性の手を見たことがある。ダ・ヴィンチの描いた女性の手のスケッチがそうだ。改めて見れば、『モナリザ』も、手の存在感が大きい。ただ、モナリザは両手を組んでおり、右手が前面に現われる。ドランは、モナリザを意識しながら、その「反画」のように、この絵を描いたとは言えないだろうか……。
一方では、東洋の彫像からのインスピレーションのような感じも受ける。ボロブドゥールなど、仏教寺院の壁面を埋める女性の彫像に、乳房を露わにしたものを多数見たことがある。ひょっとして、洋の東西の垣根を越え、ドランがそうした東洋の女性像をヒントにこの絵を描いたとの推察は不可能であろうか……。
モナリザにしろ、東洋の仏教寺院の彫像にしろ、もしドランがそれらからイメージの泉を拾ってきたのだとしたら、この女性は「神性」をまとうことになるだろう……。
作品との対話は尽きることがない。鑑賞者の胸中に、尽きることのない対話や問答が続く。答えが出ない感じが、面白い。それこそが、ドランの狙いだとも言えよう。ドランならではの魅力がそこに輝くことは間違いない。
1920年代のドラン作品が続いたが、1930年代を代表する肖像画を見よう。『エーヴ・キュリーの肖像』(1934~39)――。エーヴ・キュリーは、キュリー夫人として知られる物理学者・化学者のマリー・キュリーの次女にあたり、母の死後、伝記『キュリー夫人』(1937)を執筆した人でもある。優秀な科学者ぞろい(両親、姉がノーベル賞受賞者!)の家族にあって、エーヴは文科系の人で、文学や音楽に親しんだ。ピアノはコンサートを開くほどの腕前であったという。
フォービズムの旗手であった時代のドランを知る人からすれば、この女性像は、別人の手になるものと錯覚されても致し方ないであろう。同じく女性の肖像を描いた『女の頭部』(1905年頃)と比べれば、その差はあまりにも歴然としている。
ただ、不思議なことに、絵のスタイルとしては、現代絵画から古典趣味に後退しているように見えながら、絵のもつ充実度、緻密性は、こちらの絵の方が高いように思う。ドランは学びつつ、変容を遂げていったが、それは「後退」などと呼べるものではなかったのである。
エーヴは写真で見てもお目目パッチリの美少女風の風貌だが、ドランは彼女のもつ、血筋のよさや知性と優美、文化的な成熟というものを、シックな色調をベースに見事に描きあげている。古典と現代をうまく調和させたうえで、知と美に富んだ女性像を印象的に描出したのである。まさに、佳人を描いた佳作と言えるだろう。
初めにこの絵を見た時、お目目パッチリなさまが、キースリングかと見まがうように感じたが、キースリングの女性像がどこか虚ろであるのに比べ、『エーヴ・キュリーの肖像』には明るい落ち着きがある。不安や怖れはここにはない。エーヴという女性に、ドランは理想の美を見ているかのようだ。
第1次世界大戦が終わり、第2次世界大戦が始まるまでの間、時代的にも、つかの間の春のように、理想が信じられる空気を有していたのだろう。
ヤマサキマザック美術館の所蔵するドランの風景画もまた興味深い。まずは、1930年に描かれた『プロヴァンス地方の村』を見よう。地方の村の街並みを、ドランはまるで静物画のように描く。南国らしい日差しを浴びた中に、時を停止し、午睡を決め込んだような家々のたたずまいが続く。建物も道も、すべてが白茶けて、人の姿はいっさい見えない。
箱を並べたような村の雰囲気からは、キュビスムの影響を嗅ぎ取ることもできるし、全体としてシュールレアリスム的な趣を濃厚に有してもいる。
しかし、注目したい部分がある。画面右前の家の屋上に、鳥が一羽とまっている。人っ子一人いないかのような村だが、かろうじて鳥一羽が生命あるものとして、息をしているのだ。いかにも意味深長な登場のさせ方である。
ドランはこの絵で、死と生をひとつ画面に収め、死が支配するが如き抜け殻にも似た世界にあって、一点、生がまだここにあるぞとでも言わんばかりに、生命の脈の通う姿を描いた。
鳥が何の鳥かまではよくわからないが、希望の象徴となるものだろうか……。だとしたなら、この次の瞬間にも鳥の明るい鳴き声が響き渡り、村は生命の息を吹き込まれることだろう。鳥は羽ばたき、家々の上を飛びかい、空を舞うことになるだろう。
だが、全く逆のことも考えられる。白々と乾いた村を統べるように、黒いシルエットの鳥はいっさいの死を告げるために、そこに存在するのかもしれない。忍び寄る悲劇の運命の予言者として、黒鳥は静謐の村の屋根に羽を止めるのである。
正反対になる両極の意味をひそませることで、絵は緊張を高め、深い印象を刻みこんでいるのだ。知性派の画家・ドランでなければ、できない芸当ではないだろうか。
最後に、風景画をもう一つ見よう。『オーの風景』(1939)――。ヤマサキマザック美術館が所蔵するドランの作品のうち、最も強い印象を与える絵であると思う。
オーとは、北フランス、ソンム県にある小さな港町。丘の上から見下ろす町は、百年も変わらぬかという静けさの中に呼吸する。しかし、海原の彼方からむくむくと湧き起こる黒雲は、不安を掻きたててやまない。
この絵が描かれた1939年とは、第2次世界大戦が始まった年。ドイツがポーランドに侵攻したことで、欧州大陸に戦雲がひろがった。フランスへの本格侵攻は翌年からだが、パリも占領され、ドイツの支配下に置かれることになる。ドランの『オーの風景』を、そうしたヨーロッパにおける戦争と切り離して考えることはできまい。
だが、運命とは皮肉なものだ。出発点こそフォービズムの旗手として前衛絵画の最先端にいたドランは、古典回帰をしつつ大家として認められたので、前衛を嫌うナチスからも認められた存在となった。1941年、ドランは招待を受けてドイツを訪問、ナチスのプロパガンダに利用されてしまう。
このことが戦後、ナチスへの協力者と見なされて非難され、ドランは事実上、公の場から追放された。1953年には目を患って片目の視力を失い、翌54年に自動車事故で死去した。
そういう大戦中から戦後のドランの悲劇を知ってこの『オーの風景』に接すると、湧き立つ黒雲が村を襲い、世界を覆って、やがては彼自身をも呑み込んでしまったのだと痛感せざるを得ない。
20世紀を、ドランは生き、死んだ。その光と影を縫って、駆け抜けた。古典と現代、明るさと不安、静けさと恐怖など、対立する二極の中に問答を重ね、描き続けてきたドランは、彼本人としては対立を超克する調和を求めたに違いないが、結局は、対立の溝に落ち込んで、果てざるを得なかった。
そして、作品だけが残された。私たちはドランの残した絵画の前に立ち、彼の抱えた問答を受け取り、自身の胸の中に反芻するしかない……。
ドランの尽きせぬ魅力は、畢竟、この問答のリレーに積極的に与することに他ならないと思うのである。