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第62回 表

ボッティチェリの美神、幻のシモネッタ

作家 多胡吉郎

 その人の描く女性たちが、皆どことなく似ていると、漠然とした意識はかなり以前からもっていた。その女性がシモネッタという実在した絶世の美女だったらしいと知ったのは、10年ほど前のこと。そして最近になって、さらなる事実を知り、目からウロコが落ちる衝撃を覚えた。
 その人――初期ルネサンスの巨匠、サンドロ・ボッティチェリ(1445頃~1510)が描き続けた美神のモデル、シモネッタ・ヴェスプッチ(1453~1476)は、画家がいくつもの大作をものする前に、世を去っていたのである。つまりボッティチェリは、今は亡き幻の美女の面影を、延々と描き続けていたのだった。
 ボッティチェリと言えば誰しもが思い浮かべる代表作の『ヴィーナスの誕生』(1485年頃 ウフィッツィ美術館)――。美神のモデルはシモネッタだとされ、その美しさは顔立ちから肢体、体に巻きつく金色の髪の毛にいたるまで、実に活き活きと魅力的に描かれているのだが、事実関係を確認すれば、何とこの絵は彼女の死から9年後にできた作品なのである。
 華麗でゴージャスで、文字通りのルネサンスの華となる大作が、画面いっぱいに生身の肉体の美と生のエネルギーを謳いあげる一方で、死の影を引きずり、夭折した美女への追悼、追慕のメランコリーを抱えていたことになる。ホタテ貝に乗って海から忽然と現れたヴィーナスは、実は黄泉(よみ)の国から現世に舞い戻ったとも言えるのだ。
 ボッティチェリは、愛の化身のヴィーナスを描くに、既に亡くなった人の幻影を追いつつ絵筆をとっていた……、この人の画業と人生を考える時、これは見逃してはならない創作上の核となろう。しかもボッティチェリは結婚もせず、女嫌いで知られていた。男色で訴えられたこともある。
 シモネッタは、ジェノヴァの高貴な家に生まれた。15歳(16歳とも)でフィレンツェの銀行家、マルコ・ヴェスプッチに見初められて結婚。アメリカ大陸の名づけ親となった探検家アメリゴ・ヴェスプッチの親戚にあたる。一方で、フィレンツェの名家メディチ家兄弟の弟、ジュリアーノ・デ・メディチの寵愛を受けていたとも言われる。
 ボッティチェリとの出会いは1475年、騎乗槍試合の競技会の際、旗手の入場時に掲げる旗に、女神像よろしくシモネッタを描いたことが始まりだと言われる。旗は残存していないが、この時、画家・ボッティチェリの前に、シモネッタがモデルとして立ったことは間違いない。だがその翌年、シモネッタは22歳の若さで病没してしまうのである。肺結核であったという。
 それから実に30年を超える歳月の間、ボッティチェリはシモネッタをモデルにした絵を繰り返し描いた。他にもモデルはいたであろうに、ボッティチェリは亡き佳人に執着するように、シモネッタの面影を追い続けたのである。
 二人の間に、常人には計り知れない不滅の愛が存在したのだろうか……。そう考えることは、小説か映画なら面白かろうが、事は画家の創造の根に関わることなだけに、単純なラブストーリ―では収まりきらぬであろう。
 ひとつのポイントは、画家の側は月日の経過に応じて歳を取ってゆくが、絵の中のシモネッタは常に若々しく、輝きを失うことがないという点だ。生身の肉体は呼吸をやめ、土の中で朽ちてゆかざるを得ないが、その自然の摂理に抗うかのように、画家は永遠の美に輝く若き美神を蘇生させ続けたのである。
 不滅の生、永遠なる美……。ボッティチェリにとって絵を描くことは、暗く冷たい地下の死から、燦々と光溢れる地上の生へと復活を試みる、蘇りの儀式だったのかもしれない。
 ルネサンスとは、中世的な闇からの人間復興であると説かれる。ボッティチェリは、シモネッタという夭逝した永遠の美の対象を得たことによって、時代が抱えた広範なムーブメント=ルネサンス力学を、個人としても抱え、身をもって体現することになったのではなかったろうか。
 ボッティチェリはフィレンツェのオンニサンティ教会に眠るが、シモネッタの墓もここにある。画家は「自分が死んだらシモネッタの隣に葬ってほしい」と遺言したとも伝わるが、これは後世の創作らしい。
 550年もの歳月がすぎ、解けぬ謎を残しつつ、今はただ、ボッティチェリの描いた絵画の中に、シモネッタは絶世の美女として生き続けている。

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