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第55回 表

山を描く  〜セザンヌの聖なる山、北斎の霊峰~

作家 多胡吉郎

 なぜ山(エベレスト)に登るかと問われて、「そこに山があるからだ」と答えたのは、英国のアルピニスト、ジョージ・マロリーであったが、山を描くのも、そこに山があればこそではあったろう。それにしても、春夏秋冬、時を変え所をたがえて、同じ山ばかりを描くのは、よほどの覚悟を伴う意志的な行為と言わざるを得ない。その難行に挑んだ、東西の画家が存在した。
 一人はポール・セザンヌ(1839~1906)。印象派の画家としてパリで名声を博しつつも、セザンヌ本人はやがて瞬間的な光の印象に固執する印象派に愛想をつかし、対象物の本質をとらえる新たな境地を模索し始める。1880年代になると、パリを離れ、故郷のエクス=アン=プロヴァンスに移って、制作の本拠地とした。
 そこで新たなテーマとなったのが、町の郊外に聳え、「聖なる山」と呼ばれるサント・ヴィクトワール山だった。いったん事を決めると、過激なまでのこだわりを見せるセザンヌは、同じ山を繰り返し描いて、44点の油絵と、43点の水彩画を残している。
 サント・ヴィクトワール山は標高1011メートル、石灰岩でできており、陽の光や空の色を映して、山肌が様々に変化する。南仏ではあるが、時には冠雪もする。実際、セザンヌの絵にも雪景色のものがある。
 初期のものは、山の姿も、麓の緑地帯や集落の様子も、実景に近い描き方だが、後期になると、色も形も省略された筆致で、写生を超え「聖なる山」そのものに迫ろうとする気迫が凄みを見せる。
 山を立て続けに描いたもう一人の画家は、「画狂人」の異名をもつ江戸の浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849)である。1830年代に発表された多色刷りの版画集『富嶽三十六景』は、とりわけ世に知られ、ここにとりあげた『赤富士』こと『凱風快晴』を始め、逆巻く荒波の彼方に遠く富士山を望む『神奈川沖浪浦』など、誰もが目にしたことのある傑作が目白押しである。タイトルには「三十六景」とあるが、実際には46点の絵を収める。
 興味深いのは、東と西と、山にこだわった両者の画業は、それぞれに孤立したものではなく、セザンヌは北斎の『富嶽百景』に影響されて、サント・ヴィクトワール山を描き始めたらしいことだ。セザンヌ自身が言葉として残してはいないが、彼の描く山の構図には、『富嶽三十六景』に近似するものがいくつもあり、おそらくは、印象派の画家たちのジャポニスムへの傾倒と軌を一にして北斎版画に出会い、後半生の画業を拓くきっかけを掴んだようなのである。
 北斎の『富嶽三十六景』は、基本的には様々な個別の場所から望む富士が描かれていた。地名をタイトルに入れ込み、その地に特徴的な地形や自然、人々の暮らしを描きつつ、その奥には常に富士が姿を覗かせ、守護神のように、その地と人々に霊峰のありがたみを授けている。例外的に地名が添えられない絵が3点あって、『凱風快晴(赤富士)』はその一つだが、場所を特定せず、富士そのものに肉薄している。
 構図的な類似の指摘は、これまでも試みられてきたが、私はもう一歩踏み込んで、両者の魂の響き合いを見つめたい。というのも、セザンヌも北斎も、老年になってから、憑かれたように特定の山を描き始めたからだ。そこには、創作上の、また人生の階段を登りつめる上での、精神の働きがあってしかるべきだろう。
 山は、晴れの日も雨の日も、朝な夕な、その場にでんと腰を据えて動かない。天候や光の加減によって多様な表情を見せつつも、不撓不屈を貫く。その犯しがたさが、神々しい力を生み、見る者に迫る。
 セザンヌも北斎も、独自の画業を貫く頑固者だった。体力の衰えゆく晩年に、山との対話を続けることで、精神を鼓舞し、更なる極みへと画業を突き詰めたのだろう。繰り返し同じ山を描きつつ、絵を通して、どこまでも山を登り続けたのである。
 片や南仏の「聖なる山」、片や日本の「霊峰」――。東と西に分かれつつも、孤高の芸術家同士、こだまを交わし合うように名峰を描き続けた事実は、この星の文明史が仕掛けた魔術でも見せられるかのように、興味が尽きないのである。