今年2022年は、明治の文豪・森鷗外の没後百年にあたる。『舞姫』、『雁』、『山椒大夫』、『渋江抽斎』など、文学史上に残る燦然たる作品を残したが、名前は有名でも、実際の愛読者となると、最近は多くないらしい。
『天寵』という短編小説があると聞いて、その内容にぴんと来る人は稀であろう。しかし、鷗外が画家について書いた珍しい作品として、この小説は美術ファンにはきちんと記憶されることが望ましい。
小説の中では「M君」とされた若き画家は、
1914年10月12日の夕方、宮芳平は東京千駄木、団子坂にあった鷗外の屋敷・観潮楼を訪ねた。東京美術学校の苦学生だった宮は、第8回文展の洋画部門に、『椿』という油絵を提出した。情熱はもとより、時間も金も、持てるものをすべてつぎ込んだ渾身作であったが、落選した。
入選作の発表があったその日、宮は審査結果を不服として、審査主任だった鷗外に、せめて落選の理由を聞きたいとやってきたのである。この時、宮芳平21歳。鷗外は51歳だった。
鷗外はその絵をよく覚えていた。「画は
作品制作の意図を尋ねた鷗外に、宮は、湧き上がるイメージで頭が一杯になり、それを吐き出すのに忙しく、言葉では説明がつきにくいと答えたという。
別のところで、宮はこの作品の主題について、「もやもやした青春の気持」を「幽閉された二人の王女のような姉妹」によって描きたかったとしているので、或いはそうしたことも、言葉にならぬ言葉で、訥々と鷗外の前で語ったかもしれない。
話を交わすうちに、鷗外はこの青年画家の誠実さに好感を抱く。虚飾を嫌い、貧も厭わず、ひたすら芸術にかける純な魂には、天の与えた恩寵が宿っていた。
これぞと信じる己の道を真っ直ぐに進む若人の姿が、初老の、しかも陸軍軍医と文学との二足の草鞋で生きてきた鷗外には、ひときわ眩しく見えたのだろう。陰に陽に、鷗外は宮を助けた。人を紹介し、作品を買い上げ、ご馳走もし、衣服なども与え、時には現金を渡すこともあった。
『天寵』のラストは、鷗外が宮に「君のようなfils de la fortuneは珍しい」と説くところで終わる。フランス語の部分は幸運児、寵児といった意味である。小説のタイトルの『天寵』も、これを踏まえてつけられている。
鷗外は1922年に没する。宮は長野県諏訪の学校に奉職し、美術を教えつつ、自作の絵もこつこつと描き続けた。人気作家になることはなく、1971年に亡くなったが、近年その画業が注目を浴びている。2014年には、NHKの『日曜美術館』でもとりあげられた。
ひたむきに自己を見つめ、世の中の評価に頓着することなく、数千枚もの絵を描き続けたその人生が、清澄な作品とともに、人々の共感を呼ぶのである。
『椿』の絵は、長く所在不明であったが、1991年になって、アトリエの奥に、木枠から外され丸めた状態で置かれているのが発見された。今では他の宮作品ともども、安曇野市豊科近代美術館に収蔵されている。この作品が奇跡のように残され、発見されたことも、「天寵」を思わせる。
宮は晩年に至るまで、生涯の恩人として鷗外から受けた愛を忘れなかった。「森先生は吾が落ちぶれた魂を拾って下さった先生……どうして見ず知らずの私をあんなにも森先生は愛して下さったのだろう」と綴ったこともある。
鷗外との逸話も、その後の宮の生き方も、澄んだ青空のように清々しく、コロナに戦争と、不愉快のかさむこの時代、埋もれた宝石のように貴く感じられてならない。