第46回 奥

没後百年。鷗外の「美術小説」とモデルたち

作家 多胡吉郎

『天寵』の画家・宮芳平(1893~1971)について、もう少し書きたい。そこから、森鷗外が美術をテーマに書いた4つの小説について見て行くとしよう。
  鷗外は宮の作品を2点購入した。1915年6月に買い上げた『歌』と、1916年12月に入手した『落ちたる楽人』と――
 『歌』は、椿の木を背にした男女ふたりが手を取り顔を寄せ合いつつ歌を歌うさまを描いたもので、鷗外と宮との出会いをもたらした前年作の『椿』同様、点描法によって仕上げた作品である。男はマントを羽織った洋装、女は和装なのが、その時代の日本のモダニズムを感じさせる。
 この男女ふたりは、世の中からは受容されず、隔絶した自分たちだけの世界にいる。しかし、椿の花の祝福を受け、愛の蜜月からは歌が生まれる。愛を支えに、芸術が生まれる。
 おそらくは、実生活上の愛がこの作品を生んだのだろう。宮芳平は、後に妻となる駒谷エンと愛の渦中にあった。貧しく、絵は売れなかったが、自身の芸術の支えとなる確かな拠り所を得たのであろう。作品は前年の『椿』に比べると、格段に明るくなっている。
 なお、初めは家族の出入りする部屋に飾ってあったこの『歌』の絵を、鷗外はしばらくの後、大学生の長男・於菟が書斎として使っていた一階の洋室に移し替えたという。「茉莉が大きくなって教育にならぬから、お前の所に置くことにする」と鷗外が弁解したと、於菟が後に記憶をもとに書いている。
 この絵に描かれた男女の親密なさまを、思春期を迎えた娘(長女・茉莉)には刺激が過ぎると判断したようである。愛の表現としては、宮の描きぶりは少しも過激なところはないが、鷗外の過敏さが目立つ逸話であるように思う。
 私は、鷗外文学を貫く一つの柱に、官能に対する憧れと怖れがあるように考えているが、宮の『歌』という作品に込められた愛の濃密さについても、鷗外は大いに感ずるところがあったと見てよいだろう。
 鷗外が所蔵したもうひとつの宮芳平作品の『落ちたる楽人』は、海の底で人魚たちが踊り、ひとりの若者が竪琴を置いて息絶えた様子を描いたものだが、油彩で描いた後にパステルで仕上げられている。
 宮の回想によれば、宮が持参したこの絵を見た鷗外は、じっと絵を熟視し、作品のモチーフを聞いた後に、「絵を置いて行け」と言ったという。宮の言い値で、鷗外は絵を買い上げた。
 なお、『天寵』という鷗外の小説では、文展に出品した『椿』が落選して作者がその理由を尋ねにきた逸話を前半に、それから半年後に再会した折に聞いた、芸術にかけようとする意欲と、それを難しくする現実的困窮との葛藤を後半に据えて描かれているが、鷗外が宮の2作品を購入したのは小説の完成よりも後なので、当然ながら、『歌』と『落ちたる楽人』の話は出てこない。
 鷗外と宮芳平との間のやりとりには、こんな逸話も伝わっている。ある時、宮が鷗外に、「誰でも私の絵を奇態な絵だと言います」と言うと、鷗外は膝を打って笑ったが、次の瞬間には真顔になって、「ウム、奇態だ。しかし君、毛虫はどうだ。奇態だろう。だが、せっせと葉を食べているうちに蝶になる」と語ったという。いつしか宮も蝶のようになると、鷗外はそう励ましたかったのだろう。
 宮芳平は生前、限られた人たちにしか知られなかったが、21世紀になる頃から広く関心を呼び始め、回顧展が全国の美術館を巡回したり(2013年)、NHKの日曜美術館でとりあげられたり(2014年)と、単に鷗外の小説『天寵』の主人公としてだけでなく、まさに画家・宮芳平として、遅まきながらもスポットが当たるようになった。鷗外の預言の通り、ようやくにして「蝶」として羽ばたき始めたのである。
 なお、宮の『歌』と『落ちたる楽人』の絵は、現在では、鷗外の遺品の多くを所蔵する文京区立森鷗外記念館に収められている。


 さて、森鷗外が欧州留学に出たのは、1884年から1888年まで、年齢的には22歳からの4年間であった。ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンと居所を移しながら、軍医としてドイツの実情視察と衛生学の研修につとめた。
 「全く処女のような官能を以て」(『妄想』)と、鷗外自身、後に回想しているが、若くみずみずしい感性によって、鷗外は医学に限らず、文学、演劇、音楽など、本場の芸術文化を精力的に吸収した。無論、そのなかには美術も含まれていた。
 ただ、留学先がドイツであったことから、当時、既にフランスでは印象派の新たなムーブメントが顕著であったにもかかわらず、その旋風をもろにかぶることなく、オーソドックスな美術に接してきた。そのため、後世の日本人には、鷗外に対するこの方面での関心を、さほど引かないことになったかと思われる。
 この点、例えば、夏目漱石の場合には、1900年から2年間、ロンドンに留学したが、そこで出会った美術がミレイやロセッティなど、新美術に属するラファエル前派の画家たちたったので、より高い注目を集めることになった。
 鷗外はこの点、少々損をしているように感じないではいられないが、同じことは鷗外がミュンヘンで親しんだ画家の原田直次郎(1863~1899)にも言える。
 鷗外と美術の結びつきを考える時、ドイツで青春を共にし、意気投合した原田のことは筆頭にあげねばならぬことになるが、原田個人の画家としての業績に対する評価は、今もって充分であるとは言えない。
 自身の留学体験をもとに書かれた鷗外のドイツ3部作(『舞姫』『うたかたの記』『文づかい』)のうち、ミュンヘンを舞台とする『うたかたの記』の主人公、「やまとの画工」こと巨勢こせのモデルは、原田であると言われる。「女神バワリア」に喩えられるヒロインのマリイの名も、原田が現地で馴染んだ女性からつけられている。
 とはいえ、ミュンヘンで交友した原田のイメージを借りながらも、そこに紡ぎ出された物語は、原田の実像からかけ離れた、小説家・鷗外によって生み出されたものだ。
 狂王ルードヴィッヒの溺死までが登場するドラマティックな展開を見せる傑作『うたかたの記』への深入りは控えて、話を原田その人に戻そう。
 先に原田が欧州画壇の王道に学んで新風に接しなかったと書いたが、そのことは原田の画業にマイナスとなったわけではなかった。ドイツ滞在中に描いた『靴屋の親爺』(1886)を見るがよい。頑固一徹な職人の気性、その人生が、見事に捉えられている。
 私の目には、レーピンなど、ロシアの移動派が持ちえた人道主義的なリアリズムに匹敵するように映る。原田は肖像画(とりわけ男性の)をよくした画家だったが、この作品は生涯を通しての代表作でもあろう。
 原田は私費留学生だった。そのことは、現地にいる時よりも、3年の欧州滞在を経て1887年に帰国して以降、影響を被ることになった。要は、日本にしかるべき身の置き場がないのである。洋画そのものに対して、いまだに世の中の関心が育っていないという事情もあったが、国が送りだした人間でない以上、国がきちんとした活躍の場を用意してくれないのだ。
 原田は母国において、野に生きざるを得ない宿命を負った。それでも、創作を続けたのみならず、自宅に鐘美館という洋画の私塾を開いて若き才能の育成に努めるなど、孤軍奮闘の活躍を続けた。
 1890年に描いた『騎竜観音』は、日本的な画材に洋画的手法で挑んだ原田の新境地であったに違いない。帰国後の代表作ともなるものであったが、東京帝国大学文科大学の外山正一教授が、宗教心のない現代の画家が神仏を描くべきでないと批判し、観音が龍に乗るという発想は曲馬団の曲芸にも等しいと難じて、これからの画家は思想を描かねばならないとした。
 これに猛烈な反論を加えたのが他ならぬ鷗外であった。外山の思想面の弱さを突き、反駁してみせたが、若い頃の鷗外というのは、坪内逍遥との没理想論争にしても、ドイツ3部作をめぐる石橋忍月との論争にしても、獅子のえるがごとく、敵対する相手方に対し、容赦ない牙をむく傾向が強かった。血気盛んに、論理と言葉を尽くして、相手に挑みかからずにはおれなかったのである。この時も、ドイツ以来の友人・原田を守るため、鷗外は徹底して吼えたのだった。
 欧州より帰国して7年後、原田の体は病魔に侵され始め、寝たまま創作活動を続けるに至る。1899年には、36年の短い生涯を終えた。
 この時鷗外は、九州の小倉に赴任中であったが、旧友の死を悼んで『原田直次郎氏』という文章を書き、東京日日新聞に送った。
 原田の死後も、鷗外は旧知の画家のために尽力を惜しまなかった。没後10年にあたる1909年の11月28日、東京美術学校で原田直次郎没後十周年記念遺作展覧会が1日だけ開催されたが、鷗外の奔走によるところが大きかったという。展覧会に合わせて発行された『原田先生記念帖』にも、鷗外は『原田直次郎年譜』その他の文章を寄せている。
 鷗外は原田の作品を2点所有していた。『雪景』と『蓮池』で、どちらも風景画である(作品の制作年代は不明)。
 1922年、鷗外が齢60にして他界した折、病臥し最期を迎えた部屋には、原田の風景画2点が飾られていたという。外国にて青春を共にした原田の作品に看取られながら、鷗外は世を去ったのである。
 なお、原田の『雪景』と『蓮池』の絵は、今では、鷗外の生まれ故郷・島根県津和野にある森鷗外記念館が所蔵している。


 このコラムをお読みになる読者であれば、『みづゑ』という美術雑誌について耳にしたことはあるだろう。1905年、水彩画家の大下藤次郎(1870~1911)によって創刊され、当初は水彩画の普及をはかる専門誌だったが、後には広く美術を扱う専門誌として、その道での日本を代表するメディアに成長した。
 もとは月刊誌だったが、1982年からは季刊誌となり、1992年には惜しまれつつ休刊した。2001年から2007年まで、『美術手帖』の別冊として復刊したこともある。  
 さて、この『みづゑ』の創刊者である大下藤次郎をモデルにした小説が鷗外にあることを、はたしてどれほどの方々がご存じであろうか――
 1913年(大正2年)1月に発表された短編小説『ながし』――。大下の『ぬれぎぬ』という手記から得た材料をもとに、鷗外が小説化したもので、若き主人公の「藤次郎」が継母から疎まれ、自分に親切にしてくれた下女までが迫害に遭うという、陰険にして不幸な家庭の状況にあって、何とか生き抜こうとするさまが描かれる。
 小説では、青年主人公が庭に草花を植え、心の慰めにそれを水彩画で描くくだりがあるのだが、史実で言うと、「ぬれぎぬ」で藤次郎が継母との不和を描いた時点では、まだ水彩画との出会いには恵まれていなかったのだという。つまりそのくだりは、主人公が後に日本近代水彩画の父とまで呼ばれる存在になることを踏まえて、鷗外が挿入したものなのである。
 絵の世界に身を投じてより、大下は原田直次郎のもとで学んだので、鷗外は原田を通して大下を知った。その作品ともども、大下の淡々とした「水のような」性格を愛したという。
 大下は、『みづゑ』創刊に先立つこと4年、1901年に『水彩画しおり』という水彩画入門書を刊行、3年のうちに15版を重ねるベストセラーになった。この『水彩画之栞』に、鷗外は序文を寄せている。
 また、大下が41歳の若さで亡くなった後、1912年には、鷗外は『大下藤次郎年譜』をまとめている。大下の未亡人が、鷗外に特に資料を提供したのである。それが翌1913年に、『ながし』を書くことにもつながった。
 『大下藤次郎年譜』の最後に、鷗外は「友人 森林太郎稿」と記している。ふたりの交友の浅からぬ印であろう。
 島根県立石見いわみ美術館は、鷗外の生地・津和野に近い益田市にあることから、鷗外と縁のあった美術家の作品を優先的に揃えているが、大下藤次郎の水彩画も数多く所蔵している。
 自然をこよなく愛した大下は、用いた号のひとつが「湖月」であったことに象徴されるように、湖や水辺の風景を好んで描いた。
 1907年作の『猪苗代』、『多摩川畔』は、ともに大下の代表作となるものだが、どちらも島根県立石見美術館に収蔵されている。静謐で、平和で穏やかな景色に、ほんのりと幻想美が漂う。
 「水のような」と鷗外が大下を評した言葉は、単なる性格描写を超え、水彩画を含めた全人格的な形容にふさわしい。
 日本の近代文学を確立させた立役者の鷗外が、近代水彩画を日本に根づかせ、広めた大下と親しく交流したというのも、時代の流れにあっては、当然のことと感じられるのである。


 最後に、鷗外の「美術小説」として、忘れてはならないもう1編の作品を挙げておこう。『花子』――。1910年(明治43年)7月に発表された短編小説である。
Augusteオオギュスト Rodinロダン為事場しごとばに出て来た。」――書き出しの1行目から、近代彫刻の巨匠ロダン(1840~1917)その人が登場させられていて、驚かされる。
 ロダンからモデルになってほしいとの依頼を受けた日本人ダンサー・花子は、通訳の久保田を伴ってロダンのアトリエを訪ねる。久保田は花子が立派でも美人でもないことに「羞恥」を覚えるが、ロダンは意に介さない。
 裸になってデッサンを描かせてほしいと、彫刻界の巨匠から相談を受けた花子は、「わたしなりますわ」と、「きさくに、さっぱりと」答え、モデルをつとめることになる。
 その間、久保田は控えの部屋の本箱にあったボードレール全集の「おもちゃの形而上学」という論文に目を通す。やがてデッサンを終えたロダンが現れ、久保田の読んだ論文を受けて、言う。
 「人の体も形が形として面白いのではありません。霊の鏡です。形の上に透きとおって見える内のほのおが面白いのです。」
 更にロダンは言葉を継ぎ、物語はロダンの次の言葉をもって閉じられる。
 「マドモアセユは実に美しい体を持っています。脂肪は少しもない。筋肉は一つ一つ浮いている。(中略)丁度地に根を深く卸している木のようなのですね。肩と腰のひろい地中海のtypeチイプとも違う。腰ばかり闊くて、肩の狭い北ヨオロッパのチイプとも違う。強さの美ですね。」――
 小説のタイトルともなった花子は実在の日本人で(本名・太田ひさ)、1901年に欧州に渡り、マダム貞奴などと同様、現地のジャポニスムに支えられて人気を博したダンサーだった。芸者の敵討ちと、切腹による死の場面が十八番で、とりわけハラキリをして苦悶のうちに死を迎える断末魔の様子が、鬼気迫る演技で観客を圧倒し、評判を呼んだ。
 1921年まで欧州に滞在したが、ステージでの活躍の一方、ロダンのモデルをつとめたことでも知られ、ロダンは1906年以降、花子をモデルに58もの彫刻を仕上げた。これは、ひとりのモデルを相手にロダンが制作した作品数としては、最多であるという。
 鷗外は、ドイツから取り寄せていた「Berliner Tageblatt」という新聞の文芸欄に掲載されたロダンの談話にヒントを得て、このユニークな美術小説を執筆した。
 日本でのロダン熱といえば、柳宗悦や志賀直哉、武者小路実篤らの白樺派が有名だが、雑誌『白樺』がロダン特集号を組む1910年11月に先んじて、鷗外はロダンを主人公とし、日本人モデルとの邂逅を主題とする小説を発表したのである。いかに、鷗外が同時代の世界にアンテナを張り、アップトゥーデイトな情報を摂取していたかの証左となろう。
 小説は知り得た情報の間を創作で埋めたので、事実とは異なる部分もある。例えば花子がロダンと出会ったのは、鷗外の言うパリのアトリエではなく、巡業先のマルセイユ公演の折であった。また、鷗外は花子を「十七の娘盛むすめざかり」としたが、実際にはロダンと会った時、花子は38歳になっていた。そういう小さな「誤差」を抱えはするものの、鷗外の『花子』はなおも輝ける奇貨としての魅力を失わない。
 小説のラストに置かれたロダンの言葉は、鷗外が現地紙で目にしたほぼその通りであるというが、この芸術論への感銘が、鷗外の創作の動機になったことは間違いない。芸術家・ロダンの思想の深さである。
 かつそれは、西洋人の美の巨匠が、一見すると風采の上がらぬ日本人の姿に「霊の鏡」を見、「内なる焔」を認めて「強さの美」だと強調する、日本女性の美の再発見ともなっている。つまり、鷗外が描こうとしたのは、美の次元における「イースト・ミーツ・ウェスト」の理想形であったのだ。
 その心模様がほとんどといってよいほどに描かれない花子が、唯一、ヌードになることを決意するくだりで示す「きさくに、さっぱりとした」意志が、何ともすがすがしい。
 私はこのくだりを読むたびに、長編歴史小説『渋江抽斎』に描かれた抽斎の妻・五百いおが、金目当てに押し入った悪漢たちから夫を守るため、風呂場から裸形のまま姿を現す名場面を思い出す。どちらも女性の裸身が描かれつつ、その凛とした意志、覚悟が、颯爽とした印象を放ってやまない。
 花子は自身をモデルにしたロダンの彫刻を2点、フランスから日本に持ち帰っている。『死の顔・花子』、『空想する女・花子』の2点で、1907年から8年頃の制作と推定されている。現在では、ともに新潟市美術館に所蔵されている。
 『死の顔』の方は、舞台上で自死を演じる花子の断末魔の苦悶を、最期の生命力の顕れとしてとらえたもの。『空想する』の方は、舞台を離れ、普段着の花子をとらえたもの。ロダンは、花子をモデルにこの両者のタイプの作品を、次々とつくり続けた。
 日本には、花子が持参した作品以外にも、松方コレクションを経由して国立西洋美術館が所蔵するものや、静岡県立美術館のロダン館が所蔵する花子像などがある。


 さて以上、鷗外の4つの小説から、鷗外と美術について見てきた。
 近代日本文学の巨匠と言えば、夏目漱石と森鷗外が両雄であることに異論のありようはずもない。漱石については美術との関りがしばしば語られるものの、鷗外については頻度はぐっと少ない。
 だが、鷗外という西洋と日本を股にかけたオールラウンドな巨人にとって、美術は外すことのできない知性と感性の結晶であった。文展の審査委員をつとめたことは先に触れたが、岡倉天心に請われて東京美術学校で美術解剖学の教鞭をとったこともある。何よりも4つの「美術小説」をものしていることは、もっと注目されてよい。
 鷗外没後百年にあたる2022年のメモリアルイヤーに、美術を入り口にして文豪の残した軌跡を顧みるのも、興味深くも意義のあることに違いない。


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