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第20回 奥

ザ・慶賀 前の巻
長崎から世界

作家 多胡吉郎

戸時代の日本に、世界に通じたボタニカル・アーティストがいた。その人の手になる植物画は、ヨーロッパに今も1500点近くが現存する。
 川原慶賀(1786?~1862?)――
 長崎の絵師で、オランダ人の拠点、出島への出入りが許された「出島出入絵師」であった。オランダ人の求めに応じて、動植物や風景、人々を描いたが、とりわけ植物を描くのに図抜けた才能を発揮した。
 慶賀の絵画コレクションで最もよく知られたのは、オランダのライデンにある国立民族学博物館が所蔵するものである。ここには450点を超す慶賀の植物画が保管され、長崎歴史文化博物館のサイトを通して、誰でも閲覧が可能になっている。デジタル時代に、慶賀の植物画は「逆輸入」されるかたちで、日本人に公開されているのだ。
 川原慶賀の植物画については、以前、『美路歴程』の第4回奥でも述べたことがある。長崎歴史文化博物館のサイトを通して閲覧できるオランダ・ライデンの国立民族学博物館が所蔵する川原慶賀の植物画コレクションを紹介しつつ、国際的ボタニカル・アーティストの真価として慶賀を紹介した。
 2017年、ロシア科学アカデミー図書館が所蔵する川原慶賀の植物画コレクションが、浦和、下関、長崎と巡回展を重ねた。これらはライデンに残るのとは別系統になる慶賀のコレクションで、私は初夏に浦和の埼玉県立近代美術館で観覧しただけでは飽き足らず、秋には長崎歴史文化博物館にまで足を運んで「再会」を果たしたが、125点に及ぶオリジナルの植物画をつぶさに見てゆくなかで、改めて慶賀の天才を確信し、その稀有なる美の世界が生まれる軌跡について、想いを深くするに至った。
 鎖国日本に風穴を開ける随一の国際都市、長崎。オランダとの貿易のための特区である出島。そういう特殊な舞台において初めて可能になった慶賀の植物画である。「East meets West」が生んだ華であり、至宝ともいえる。
 出島の絵師の仕事は、まずはオランダ人たちの依頼を受けて日本の風景や風俗を描くことであった。次いで、西洋人との接触によって知り得た彼らの生活の様子を、 好奇心旺盛な日本人に伝えるための絵を描くことであった。例えば、日本人の暮らしや人生に材をとった「人の一生」「年中行事絵」は前者であり、「唐蘭館絵巻」は後者になる。
 慶賀がオランダ商館長ブロムホフ夫妻を描いた絵は、もとは商館長側からの依頼だったのだろうが、西洋夫人が描かれた珍しさゆえに、日本人の間でも複製品が広く出回った。おそらく慶賀は彼を中心に工房を構え、注文に応じて絵を量産していたのだろう。
 長崎歴史文化博物館では、意外な慶賀の側面を知った。「人の一生」シリーズの「祝言」の絵において、婚礼のめでたい場でありながら、そこに置かれた衝立には若妻が夫の不在を嘆く王昌齢の「閨怨」の漢詩が描かれ、何とも場違いな雰囲気を醸し出している。「人の一生 墓参り」では、「淫好助兵衛腎張……」という文字が墓石に描かれたバージョンもあるという。
 どちらも、注文主が漢字の読めないオランダ人だからこそありえた「演出」に違いなく、展示解説では慶賀の「茶目っ気」としていたが、私にはもう少しシニカルな棘があるように思われた。出島出入絵師の胸中にひそむオランダ人への複雑な感情をうかがわせるに充分だ。
 そんな慶賀が、やがて変貌する。何もかもが一変するわけではなくとも、画業の根本のところで重要な変化が生じる。日々を重ね生きるが故の稼業として絵を描くにすぎなかった、つまりは長崎という特殊な場における特権的な職人絵師でしかなかった川原慶賀が、西洋の影響を受け植物画という世界に向き合い、あたかも水を得た魚のように、美に独自の精進をとげることになるのである
 それはアルチザンからアーティストへの道を切り開く転換ですらあったと私は思う。その変化を可能にしたのは、ひとりの西洋人との運命的な出会いであった。遥かな海を渡って来た知の巨人――、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトである。

の日――、1823年の夏の日、慶賀はいつものように出入りに必要な門鑑を見せ、江戸町から橋を渡って出島に入り、オランダ商館へと赴いた。
 オランダ船がバタビアから入港し、長崎の町も出島も活気を呈している。新任の商館長カピタンと商館員への挨拶に、慶賀の胸に多少の緊張はあったろうが、そこに待ち受けている運命については全く予知するところがなかったであろう。
 旧知の商館長ブロムホフから紹介されたのは、新任の若い軍医だった。まだ20代後半で、知的だが、同時に情熱や野心に富み精悍さを漲らせている。シーボルトと名乗った。
 今度の医師は優秀らしいとの噂は既に長崎の町に広まりつつあった。だが男は医学以外の話を熱心に説いた。自然界の動物や植物をきちんと体系だて調査分類する学問を日本で行いたい、ひいては絵にも残す必要があるので協力してほしいと、そのようなことを熱く語った。
 シーボルトは間違いなく「博物学」という言葉を使ったはずだが、通詞も慶賀も、正確には理解できなかったであろう。日本に派遣されたこの男の公式の肩書は、「この国における学術調査の使命を帯びた外科少佐ドクトル・フォン・シーボルト」というものであった。
 とりわけ、シーボルトが熱心に説いたのは植物学と、その研究に必要な植物画であった。日本にも「本草学」の伝統があるので、これなら慶賀にもある程度は理解が及んだはずだ。これまでにも求めに応じて草花を描き、オランダ人に渡したこともあった。
 そういう過去の慶賀の植物画に対して、シーボルトはその力量を認めつつも、さらなる精進を求めてやまなかった。ただ漫然と眼前の草花を筆にするのではダメで、「科学」の眼を以て写生しなければと説いた。
 ドイツのヴュルツブルク大学で医学を学んだ当初から、シーボルトは植物学に関心を示し、いずれは世界の果ての見知らぬ植物を欧州の植物学研究のフロントラインに届けたいとの悲願を抱いていた。
 近代前夜のこの時代は、科学がいまだ充分には細分化されず、多方面にわたって大家たることが可能な最後の時代であった。医学を極めてなお、植物学を中心とする博物学に造詣を深め、さらには地理や地学などにも通じてと、博覧強記の知の巨艦としてシーボルトは極東の島国の土を踏んだのだった。
 慶賀はそういう多岐にわたるシーボルトの関心を絵画制作でフォローしつつ、特に植物画に関しては、シーボルトの指導を受けたことと思われる。
 慶賀が教わった最も基本的なことは、1枚の絵の中に、草花の全体像をとらえるだけでなく、花や種、実といったパーツを描きこむということだった。時には花の断面図を、あたかも解剖図のように添えることも求められた。それらは西洋の植物図譜ではすでに確立したスタイルであったが、おそらくシーボルトはヨーロッパから持参した植物画を慶賀に見せて指導したに違いない。
 さらに、シーボルトはその道に通じたデ・フィレニューフェ(ドゥ・ヴィルヌーヴとも)をバタビアから呼び寄せる。川原慶賀のデッサン力に、デ・フィレニューフェが身につけた西洋植物画のノウハウを加味することで、自分が牽引する植物図譜製作が世界レベルのものに近づくよう望んだのである。
 ロシア科学アカデミー図書館所蔵の川原慶賀コレクションの中には、いかにも西洋の植物図譜に学んだと思われる絵がある。
 ウドの絵では、枝に葉、そして小さな鞠を並べたような花を描いた全体像に加えて、右下方に実や花の解剖図を添えている。清楚な印象の中にも、しっかりと植物図譜的な要素を押さえ、シンプルながら充実感に溢れた出来ばえである。
 トクダマは観葉植物のギボウシの一種だが、大きな3つの葉と細かな花、茎を描く全体図をセンターに置き、下方に雌しべや雄しべなどの部分図を並べた。なお、ギボウシはシーボルトが帰国時に欧州に持ち込み、以後、緑鮮やかで大ぶりな葉の美しさが人気を博し、代表的な園芸品種として定着、発展してゆく。
 また、デ・フィレニューフェと慶賀と、2人のサインが入った植物画も見られ、両者の二人三脚ぶりが窺われる。
 アケビ科のムベの絵には慶賀の落款に加え、デ・フィレニューフェのサインが添えられた。蔓性の茎、葉、花、そして実など、植物に必要な要素がきちんと備えられ、果実を割った断面や、種をとりだした部分図までが配されている。果実の部分図がデ・フィレニューフェの手になるものと推測される。
 バラ科のクサボケもやはり両名の名を載せるが、中心となる花と枝の本体を慶賀が、実の断面図と花の解剖図の部分をデ・フィレニューフェが担当したと思われる。
 シーボルトの統率のもと、慶賀とデ・フィレニューフェの2人の共同作業によって、かつて日本には存在しなかった本格的な植物画が仕上げられて行った。「East meets West」の舞台・長崎に、新しいジャンルの絵画世界が生まれたのである。

賀の絵画作品は多岐にわたった。
 シーボルトの目に映じたものを記録するカメラマンのような役割を負ったからだが、風景画から風俗画に至るその多様なジャンルの中でも、特に植物画に秀でていることは、他ならぬシーボルトの目にも明らかだった。
 1826年に行われた江戸参府の記録文である『江戸参府紀行』において、シーボルトは慶賀を評して次のように語っている。
 「彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、特に植物の写生に特異な腕を持ち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法を取り入れ始めていた」――
 東京大学名誉教授の大場秀章氏は、慶賀の植物画の展開を次のような3段階に分けて解析している。
 一.デ・フィレニューフェに師事し、指導を受ける前の作品。
 二.デ・フィレニューフェの指導に忠実に従っていた時期の作品。
 三.慶賀本来の持ち味とデ・フィレニューフェからの西洋画の手法が融合した、独自の域に達した時期の作品。
(*註 原文は「ロシア科学アカデミー図書館所蔵 慶賀の植物図譜」展の図録に掲載されたもので、大場氏は慶賀を指導した人物をドゥ・ヴィルヌーヴとしているが、ここでは呼称の統一性からデ・フィレニューフェとした)
 植物学研究に情熱を燃やすシーボルトにとって、植物画に秀でた慶賀は、願ってもいない助手、パートナーであったろう。だが、おそらくは慶賀自身にとっても、植物画は最も自身の資質に合った世界だったのである。
 初めはあくまでも注文を受けての制作であったろうが、次第に彼らしさというか、植物に対する独自のスタイルが確立してゆく。与えられた仕事の中から、慶賀自身の道が開かれて行くのだ。
 サルトリイバラの絵では、花と若葉の春の姿を上段に、葉を落とし、赤い実だけが残る枝の秋の姿を下段に描いている。西洋の植物図譜の流儀から言えば、花をつけた春の木の姿を中央に置き、秋の実は別途、余白に描きこむのが常道であろう。しかし、同じ木の春秋の様子を、同じ大きさ、同等の比重で上下に配置したのは、慶賀独自の創意のはずである。
 バラ科の常緑樹のバクチノキの絵では、画面左隅に葉を裏返す指が描かれていて、ぎょっとさせられる。西洋の植物図譜では絶対にありえない構図であり、不敵なほどに大胆な趣向のように見える。
 バクチノキの葉を表側だけでなく裏側まで見せたいとする意図であることは明白なのだが、ここで気になるのは、この指が誰の指かということだ。枝葉を写す慶賀自身の手であるとする考えはもちろんありえるだろうが、シーボルトがこの木を出島で栽培していたという事実を知ると、ひょっとして指はシーボルトのものではないかとの思いが頭をよぎる。美としての完成度より、試行錯誤的な趣向の印象が強いが、珍しい植物を栽培し観察する植物学者への畏敬の念の顕れとも考えられる。
 そのような奇異な印象が際立つものでなくても、慶賀らしさは植物の美として充実する。サトザクラの絵では、花の小さな部分図をひとつ添えているものの、画家の主眼はあくまでも花の美しさ、緑の葉のみずみずしさにある。
 ソメイヨシノではなく八重桜の系統で、葉桜であろうが、色合いといい姿かたちといい、何とも豊麗なのである。科学としての植物図譜の枠を超えて、花の美が捉えられている。バラの花を描いたフランスの画家、ルドゥーテを思い出すほどに、慶賀のその絵は花のアートになっている。

京都中央区、総武線の新日本橋駅の横に、長崎屋跡と記した説明板が置かれている。長崎屋は幕府御用達の薬種問屋だったところで、出島駐在のオランダ商館長一行が4年に1度の(初期には毎年行われていた)江戸参府の折りに定宿とした。
 1826年に行われた江戸参府ではシーボルトが加わり、彼の指名を受けて慶賀も同行した。一行の江戸滞在中、長崎屋はオランダ人から新知識を得ようとする蘭学者などの訪問客で溢れたが、その中に、シーボルトにとって、忘れることのできない出会いとなるひとりの老人がいた。
 最上徳内――。田沼意次時代に派遣された蝦夷地探検隊のメンバーで、地元アイヌの助けを借りながら、単独で 択捉島 エトロフ まで出向き、そこで千島列島を南下してきたロシア人のイジュヨゾフらと出会い、親交を結んでロシア事情を収集した。
 もとは農民の出身ながら、徳内は苦労して学を積み、再三にわたる蝦夷地探検では、アイヌ語を覚え、その風俗習慣に適応して抜群の功績をあげた。その功により武士にとりあげられ、探検家、北方事情専門家として大成する。江戸時代の封建制にあって珍しく身分制を超え得た人物であり、また鎖国体制下、身をもって国際事情を知る希少な人間でもあった。
 江戸長崎屋を訪ねた徳内の人柄と学識に、シーボルトは魅せられ、広範な北方事情について教えを請うた。シーボルト30歳、最上徳内72歳。2人は年齢差や国の違いを超えて親しく交わり、江戸滞在中にアイヌ語の辞書編纂を共同で仕上げている。
 徳内がこの時シーボルトに北方地図を贈ったことはよく知られているが、同時に蝦夷地の植物標本も渡されており、北辺への関心に植物も含まれていたことを物語る。蝦夷地に自生する木々の木材板にその葉を描いたこの標本は、今もライデンのナチュラリス生物多様性センターに伝わっている。
 さて、このような日本の老学者とシーボルトとの交流を、慶賀はどのように眺めていたのだろうか。来日以来、医学知識を中心に日本人学者たちから賛嘆されるばかりだったシーボルトが、ここでは白髪の小柄な日本人老学者に敬意を表し、肝胆相照らす仲として交わっている。
 長崎で西洋人とともに仕事をし暮らしの種とする日本人は少なくないが、その業績を世界に認められる存在がどれほどいるだろうか。自己の仕事を進めるにあたって、世界を意識し、丸い地球儀からおのれの立ち位置を見つめるような視野をもつ人間が、いったいどれだけいるだろうか……。
 21世紀の今日流に言えば、最上徳内は時代に先駆けた国際人だった。おそらく慶賀は徳内の存在を通して、自分の仕事が世界の知に通じていることを意識し、その自負をもって画業に精勤することになったのではなかったろうか。
 シーボルトが帰欧後に出した大部の日本報告書『 日本 ニッポン 』には、慶賀が描いた絵をもとにした最上徳内の肖像画が掲載されている。オリジナルの慶賀の絵は残っていないが、老学者の個性、人格が滲み出ており、描き手の感動や敬意は伝わってくる。シーボルト同様、慶賀もまた、江戸の国際人に心動かされていたのである。
 慶賀の植物画には、「日本長崎登與輔画」と署名の入った絵がある。「登與輔(とよすけ)」とは、慶賀の通名(慶賀は号)であるが、「日本長崎」としたところに、彼の自意識が透いて見える気がする。世界の中の長崎、そして世界に向けて絵を描く慶賀なのである。
 「ユキノシタ」は、薬用植物としても知られる多年草だが、慶賀は「日本長崎登與輔画」の署名を入れて描いている。全体のバランスが巧みで、茎の上部の花など、星の花でも見るように美しい。丸みを帯び、葉脈に沿って白い斑の入る葉、そして、一見蔓のようにも見える、長く張った紅色の ふく 枝 (地上近くを這って伸びる茎)の形状も微笑ましい。植物図譜としての条件を備えつつ、絵画としての円熟を感じさせてやまない。
 面白いのは、マメ科のジャケツイバラで、やはり「日本長崎登與輔画」の署名を有するが、豆果の部分だけ、デ・フィレニューフェの手を借りている(その下に横文字のサインが記入されている)。黄色の花と、マメ科らしい複葉をもつ枝とで、既にかなりゴージャスに見える絵の余白に、裂開した豆果がやや大きめに描き込まれた。
 共同作業ではあっても、デ・フィレニューフェによって西洋植物画のスタイルを教わった時期のものとは様相を異にする。ここでは慶賀は自信に溢れ、花と葉に茎、その部分図を描いた後で、「さあ、種子はデ・フィレニューフェさんにお任せしますよ」とでも言わんばかりの余裕が感じられる。
 「日本長崎登與輔画」の署名には、たとえ一部にオランダ人の手を借りたとしても、この絵の意匠は自分のものだとする慶賀の自負心も込められていよう。オランダ人の求めに応じて絵を描くにしても、植物に向き合い、画布に写す、その仕事の場においては、主従の関係を超えて対等なのだとする覚悟と気概だったかもしれない。
 資料が少なく、その生涯についても不明な点の多い慶賀ではあるが、私はやはり、最上徳内との出会いによって、ある種の「洗礼」を受けたのだと思いたい。
 シーボルトとの出会いは、「East meets West」の運命的な革命を慶賀にもたらした。シーボルトから教わった科学精神によって、慶賀の植物画は鍛えられ、世界水準に磨かれた。
 そこに甘んじることなく、今度は、江戸での最上徳内との出会いが、日本人でありつつ国際人たり得るという内なる意識革命をもたらしたのではなかったろうか。
 慶賀の植物画は、長崎の出島という、鎖国体制下に穿たれた小さな出入口を舞台にしながら、日本と世界の間、そして 科学 サイエンス 美術 アート の狭間を行き来する、地球史的な価値を持つ稀有なる美の世界なのである。