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第20回 表

木下きのしたもく太郎たろう「百花譜」、終末の中の生命いのちの輝き

作家 多胡吉郎

 彼は多才な人だった。医学者であり、劇作家、翻訳家、美術史家、詩人でもあった。かつ絵をよくした。彼はまた多忙な人だった。大学病院での勤務はもとより、学会や仕事がらみの会合、知人との集まりが重なり、しばしば帰宅は深夜に及んだ。
 長い1日の用が終り、世の中が寝静まった頃、彼はひとり絵筆をとった。描くのは、学校や知人宅、自宅の庭で摘んできた草花。洋罫紙の上に、丹念に植物を写すのである。
 木下杢太郎(1885~1945)が深夜の秘儀を始めたのは昭和18(1943)年3月10日のことだった。アメリカとの間に太平洋戦争が始まり、1年半近くが経っている。その日、彼は勤務先の大学の池のほとりに、まんさくの花を見つけた。春近いはずが前日の夜より寒さがぶり返し、寒風肌を刺すような日であったが、小さな命が控えめに花を咲かせたのである。木下は花を茎ごと摘みとり、自宅に持ち帰って写生した。
 その日から2年4カ月、木下は心をとらえた草花に出会うたびに採取して、写生に及んだ。時には自宅だけでなく、出張先や旅先、帰郷した先でも秘儀は続けられた。総計872点に及ぶ草花の写生画は、病による死の直前まで続けられ、「百花譜」と名づけられた。
 ここに紹介する図譜のひとつは、昭和18年11月27日に描かれた「山さ んしゅゆ茱萸」である。「百花譜」は絵の脇に日記風な付言が添えられる場合が多いが、この絵にも、次のような説明が書きこまれた。「山茱萸(中略)は春を告ぐる花である。今年始めてその実の朱あかきを知った。夕五時半燈火管制のために四囲暗黒、幸い此この樹は窓火に照らされて立ち、其その実の枝を折ることを得た」――
 春先に黄色い花を咲かせる山茱萸の木が、秋には鮮やかな赤い実をつけた。空襲に備えて燈火管制が敷かれ、日常生活に戦争が暗い影を投げかける中、山茱萸の赤い実は侵しがたい自然がもつ鮮やかな命の証として意識されたのだろうか。
 「百花譜」の付言には、他にもしばしば戦時色が滲む。昭和19年6月28日、栗くりかぼちゃ南瓜の絵に添えて「サイパン島飛行場占領せられたるの報有り」――。昭和20年4月15日、わさびの絵に「今朝十時少し前警戒警報、敵一機頭上を過ぐ」――。昭和20年4 月19日、姫ひめおどりこそう踊子草の絵に「午前十時頃空襲警報鳴る。敵P51(空白)之来侵なり」とある。
 食糧事情の悪化に加え、度重なる空襲により無むこ辜の民の命が無残にも失われて行った。終末感が世を覆う重苦しい状況下に、木下は黙々と草花を前に絵筆を走らせたのだった。「国破れて山河あり」とは杜甫の詩「春望」の一節だが、次第に敗色濃厚になる戦況を睨みつつ、木下の目はなお一層山河=自然へと向かったのだろう。
 実は「百花譜」は、もうひとつの終末を抱えていた。昭和20年6月6日、泰たいさんぼく山木を描いた余白に「胃痛、褥中に之を写す」とある。この年の春以来、胃病が悪化し、結局はそれが不治の病となって終戦後の10月15日に歿することになるのだが、衰え行くおのれの命の翳りを意識しつつ、木下は残る力を懸けるように、草花の命を写し続けたのである。
 昭和20年4月25日の日記には、「かく四晩植物写生を続けたり。些いささかよろしからず。明日の晩にてうちきりにせん」との記述がある。無論、よろしくなかったのは、絵の出来ばえではなく、自身の体調のほうであった。打ち切りにしようと思いつつも、この先、なおも百点ほどの草花画を描き残している。
 「百花譜」最後の絵は、昭和20年7月27日に描かれた山百合になる。「胃腸の痙攣疼痛なお去らず、家居臥療。比留間此花を持ちて来り、後之を写す。運勢たどたどし」――。運勢のたどたどしさを自覚しつつも、山百合の絵はみずみずしく、楚々たる中にものびやかな華やぎを有する。敗戦までわずかに20日、自身の死までも2カ月半ほどであった。
 神奈川近代文学館で「百花譜」の実物を見た。鉛筆で輪郭を描き、そこに色彩を載せてゆく――雑念を挟まず作業に徹した時間が見える気がした。近代日本を代表する知の巨星が、二重の終末の中で見つめた生い のち命の輝きである。声高で大袈裟なところのない、虚心に写すことに徹した表現に、かえって強く訴えかけるものを感じた。