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第15回 奥 
ウィーン世紀末、音楽と美術とのマリアージュ

作家 多胡吉郎

 金色に輝くネギ坊主のような球形の装飾を頂いたセセッシオン(分離派館)――。そのオリエント風なたたずまいは、バロック建築の教会が建ち並ぶウィーンの街中にあってはかなりの異色を発する。異界か迷宮に足を踏み入れる感じで中に向かう。
 お目当ての宝は、その地下室にある。音楽を下敷きにクリムトが挑んだ大作、ベートーヴェン・フリーズ――。かの第9交響曲をテーマに描いた装飾画=フリーズが、長方形の部屋の3方の壁を埋める。幅は約2メートル、横の長さはすべて合計すると34メートルにも及ぶ。
 何という力強さであろうか。ひとりの芸術家が芸術に寄せる信念を込めて描いたその渾身のエネルギーに、まずは圧倒される。「接吻」や「ユーディト」、「アダムとエヴァ」など、ベルヴェデーレ宮殿(オーストリア美術館)でその傑作群を堪能してきたばかりの目にも、クリムトの赤裸々な「信仰告白」を聞くかのような骨太な真実に触れ、改めて感銘を深くせざるをえない。
 第1面(左の壁)の「幸福への憧れ」に始まり、第2面(中央の壁)の「敵対する勢力」との葛藤を経て、第3面(右の壁)の「歓喜の歌」へと辿り着く、絵巻物のような連作絵画――。第1面に登場する黄金の鎧を身にまとう騎士が、第2面にて、悪や邪なるものと戦い、第3面の最後には、歓喜の歌に迎えられて至福の世界へと赴く。そこで騎士は鎧を脱ぎ裸身となって、愛する女性と接吻し、固く抱擁し合う……。
 クリムトがこの絵を描いたのは1901年、楽聖ベートーヴェンを特集した第14回分離派展がこの館で開かれ、マックス・クリンガーの彫刻などとともに、クリムトのフリーズも壁を飾った。その時には永久展示ではなく、このフリーズもいったんは解体、撤収されたものの、ユダヤ人実業家の個人所蔵を経るなど紆余曲折の後、今ではオーストリア国が買い取り、1986年から再びセセッシオンの地下室に永久展示された。言わば「里帰り」するかたちで、終(つい)の棲家を得たことになる。

 は、ベートーヴェン・フリーズには、個人的に苦い思い出がある。1990年のことだったと記憶するが、当時NHKのディレクターだった私は、開発されて間もないハイビジョンカメラを使って、クリムトを中心とするウィーン世紀末美術を撮影した番組の制作に参加した。
 クリムトの他の絵は、マーラーの交響曲の緩徐楽章や、シェーンベルクの交響詩「浄夜」などが、実に絵の雰囲気と合って官能美を盛り上げる。ところが、このベートーヴェン・フリーズに至って、BGM音楽の難しさに頭を抱えてしまった。
 クリムトの絵は、ベートーヴェンの第9交響曲に依拠している。なので、第9以外の曲の使用はありえない。だが、実際に第9の音楽を添わせると、絵の雰囲気とはどうしても嚙み合わないのだ。
 誰の目、耳にも合わないことが明瞭であるのは、第2面の「敵対する勢力」だ。ここに登場するキングコングさながらのデーモン、すなわち神話の怪物というテュフォーンや、その娘と言われる気味の悪いゴルゴン3姉妹、また、淫欲や不貞、不節制を表すという3人のエロ剥き出しの女性像など、ベートーヴェンの曲のどこを探しても、その影すら登場しない。
 もっともややこしいのが、他ならぬ第3面「歓喜の歌」で、これは確かに天女たちの歓喜のコーラスも描かれてはいるが、そこに賛美され、称えられているものが、ベートーヴェンとはだいぶ違う。
 ベートーヴェンが第4楽章の「合唱」を作曲したのは、シラーの詩に啓発されたからだが、その詩に言う、「抱擁せよ、諸人たち。この接吻を全世界に。兄弟よ、星の瞬く天蓋の上に、愛する父がおられるのだ」に、ベートーヴェンはキリスト教的な人類愛の極致を見、その理想主義に感銘したのだった。それはまた、幾多の苦悩を経て老作曲家がたどり着いた至高の境地でもあった。
 だが、クリムトの接吻は、まさしくかの傑作絵画「接吻」に描かれた如く(そのイメージが、ベートーヴェン・フリーズでも踏襲されている)、男女の愛の行為を意味している。黄金の鎧に身を包んだ「英雄」(救世主)が、もろもろの邪悪なるものとの苦闘の果てに行くつく世界は、鎧を脱ぎ、裸身となって、愛に身をゆだねることだった。
 シラーの詩の「抱擁」も「接吻」も、ことごとくクリムト流に読み込んでいる。男女の愛を、人類愛同様の高みにまつりあげているのだ。クリムトにとっての「歓喜の歌」の「歓喜」とは、何ものにも冒しがたい、愛し合う男女結合の法悦なのである。
 この点、クリムトはキリスト教より、むしろチベット仏教に近い。「接吻」と歓喜仏(男女和合の合体仏)とは、異母兄弟と言えるほどに、よく似ているではないか。クリムトの絵画とは畢竟(ひっきょう)、「東の国」を意味するオーストリアの爛熟の果てに生まれた、愛の密教芸術ではなかったかと思うのである。

 ィーンに生まれた音楽と世紀末美術のマリアージュ作品となると、この絵も外せまい。エゴン・シーレ作「死と乙女」――。
 ベルヴェデーレ宮殿を訪ねた者なら、誰しもが、クリムトの作品群の奥にひろがるシーレの絵の世界に魂を揺さぶられ、クリムトとはまた違ったウィーン世紀末美術の真価を知ることになろう。
 シーレはクリムトの弟子にあたる。性は両者の絵画の芯に色濃く宿る。だが、その風向きはおよそ正反対だ。クリムトの性は甘美な陶酔に包まれる。性の放つオーラが、世界を勝利に導くようなエネルギーをも秘めている。だがシーレの場合、性は人間存在の骨となる部分にどうしようもなく巣食う宿業であって、そのエネルギーは破壊的、破滅的である。
 「死と乙女」は、シューベルトの歌曲や、その旋律をもとにした弦楽四重奏曲で知られるが、歌曲の詩は、18世紀後半から19世紀初頭を生きた詩人マティアス・クラウディウスの作になる。
 臥せる乙女の床に死神が訪ねる。乙女はあっちへ行ってと拒否するが、死神は苦しめにきたのではないと語り、我が腕のなかで眠れと、永遠の眠りへと乙女をいざなう。クラウディウスが詩にしたこの乙女と死神の対話を、シューベルトは見事に音楽に移した。とりわけ、抑揚を押さえた死神の虚ろな語りは、底なしの深い闇を覗かされるようで、慄然とさせられる。
 シーレの絵は、シューベルトの曲に同じく、死の匂いが画面に横溢している。だが無論、単に歌曲に描かれた乙女と死神の対話を、そのまま写したようなものではない。逃れようのない死の影を前にして、埋めがたい距離を覚えつつも、すがるように抱き合うしかない絶望的な男女を、私小説風、自画像風にまとめている。シーレ自身を思わせる死神の姿、特にその顔と放心したように見開かれた目が、強烈な印象を放つ。
 31年の短さで生涯を閉じたシューベルトが、晩年、死の影に怯えながら、絶望の崖っぷちで傑作を書き続けることになったのは、その身を侵す病魔、進行性の梅毒を患ったためだった。
 貧しく風采も上がらぬ青年音楽家は、彼を取り巻くサロンを構成する金持ちのお坊ちゃんのひとりに娼館に誘われ、しばらくは性の魔力に溺れて通いつめた。その結果、当時は不治の病だった梅毒に感染してしまう。暴走する性の力に押し流され、気がつけば死神にとりつかれてしまったのだ。
 シューベルトからシーレへと、性と死神とに囚われ、ウィーンの若き芸術家たちは時代を超えてつながっている。シーレは別に梅毒に罹患したわけでも、不治の病に侵されたわけでもなかったが、ハプスブルグ帝国の落日を生き、凋落(ちょうらく)と死の予兆に塞がれた社会を、性というプリズムから眺めることで、その陰影を充分すぎるほどに感じとっていたのだ。
 ごつごつとした、廃墟を思わせる剥き出しの荒涼たる風景のなか、最後の救いを求めるかのように抱き合う男女――。クリムトの「接吻」もまた、抱き合う男女の絵であったが、その聖なる神殿のような祝祭性は、シーレの絵では徹底して廃されている。
 自分自身、死の淵に呻吟するがゆえにこそ、描破しえたシーレの陰画――。この点、肉体を描き、性を描きながら、シーレの絵は、徹頭徹尾、魂の呻きを訴えている。

 ーレの「死と乙女」に描かれた女性には、明らかなモデルがいた。ヴァルブルガ・ノイツィル(通称ヴァリ)――。
 もとはクリムトのモデルをつとめ、愛人でもあったらしいヴァリと、シーレは1911年に出会う。シーレは21歳、ヴァリは17歳だった。それ以降、ヴァリはシーレにとって、恋人でありミューズであり、作品を描くモデルともなった。
 1912年に描かれた「ヴァリ・ノイツィルの肖像」は、哀しげで大きな青い目が印象的。負の側から描いた時代のマリア(聖女)といった趣だ。世紀末のモナリザでもあったろうか。1913年の「赤いブラウスを着たヴァリ」もまた、独特のメランコリー、やるせなさを抱える。同年の「黒いストッキングをはく女」も明らかにヴァリがモデルだ。あられない下着姿だが、その大きな瞳がひどく純に見える。
 ふたりはウィーンを離れ、シーレの母の故郷、南ボヘミアのクルマウ(チェスキー・クルムロフ)で同棲する。だが彼らの放縦な暮らしは土地の人々の不興を買い、さらなる転地を強いられる。そして移ったのがウィーン西郊のノイレンクバッハだったが、そこでも白眼視され、かつ少女をヌードモデルに使ったことでシーレは逮捕、投獄されてしまう。
 シーレは24日間、監獄生活を強いられた。その間も、ヴァリはシーレを支えた。オーストリア=ハンガリー帝国の黄昏のなかを駆け抜けるように生きる若いふたりの間には、他人には理解しがたい強い絆があったことは間違いない。
 だが、濃密な時間の後に、別れが訪れた。1915年、シーレが別の女性(エディット)との結婚に踏み切ったからである。この時のシーレの選択については、なおも謎が多い。エディットは中産階級の家庭の娘だったので、親の経済力に期待したとも言われる。娼婦まがいのヌードモデル出身のヴァリとでは、同棲はしても、結婚はありえなかったとも言われる。
 だが私には、あまりにも濃密な、そして破滅的に突き進むヴァリとの時間から、シーレが脱皮したかったように思える。ヴァリとの時間が生む芸術の豊潤を知りつつ、シーレはもうひとつ先の次元におのれの画業を進めたかったのではなかろうか。
 エディットと結婚を決めてもなお、シーレはヴァリに執着した。年に1度はヴァケーション旅行を一緒にしようともちかける。だが、ヴァリは男の身勝手な提案を拒絶、シーレのもとを去る決意をする。
 実は「死と乙女」の絵は、シーレとヴァリの関係が生んだ最後の作品であった。別れを決めたヴァリに、なおもシーレはこの絵のモデルをつとめるよう懇願したと言われる。ひとつの愛の終焉が、シューベルトの記憶とも重なりつつ、絶唱の極みのような究極の作品を生んだ。愛の葬礼となる絵において、シーレは彼自身に死神の役を与えた。
 絵が完成した後、シーレはこの絵を横に置いて鏡の前に立ち、鏡のなかの自分を覗き込む写真を撮らせている。いかにもナルシスティックな写真だが、自分にとってのこの絵のモニュメント的意味合いを、誰よりも承知していたかと思われる。
 シーレのもとを去ったヴァリは、自立の道を求めて学び、従軍看護婦として戦地に赴く。すでに第1次世界大戦が始まっていた。1917年、看護婦として赴いたダルマチアで、ヴァリは猩紅熱(しょうこうねつ)にかかり、他界する。23歳だった。
 同じ年、新妻のエディットは流行のスペイン風邪がもとで死去。シーレとの間にできた初めての子を身ごもっていたが、この赤子が産声を上げることはなかった。エディットが死んで3日後、シーレもまたスペイン風邪で世を去った。28歳だった。
 死神がすべてを呑みこむようにして、主役たちを連れ去った。
 翌1918年、第1次世界大戦が終結。1千万人もの人々が命を散らした。ハプスブルク以来の長い歴史を誇ったオーストリア=ハンガリー帝国も瓦解した。
 シーレの「死と乙女」は、それらの夥(おびただ)しい死を予兆した、悲しき黙示録だったのかもしれない。