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第15回 表
 芸術の魔力 クリムトの描いた幻のシューベルト

作家 多胡吉郎

  ウィーンは歴史に熟れた町だ。時間の堆積に発酵した美が、残照のように光り輝く。モーツァルトやベートーヴェンが生きた、永遠の音楽の都でもあることはもとより、19世紀末から20世紀初にかけて、ウィーン世紀末美術の華を咲かせた絢爛の舞台でもある。
 その両者――音楽と世紀末美術とをまたぐ一点の作品がある。グスタフ・クリムト作、「ピアノを弾くシューベルト」――。「接吻」や「ユーディト」、「アデーレ・ブロッホバウワーの肖像」などで知られた巨匠の作品だが、ジャポニスム的な文様を並べた装飾性こそ控えめなものの、夢見るような幻想的な美はいかにもクリムトならではのものだ。
 初めてこの絵を知ったのは、カルロス・クライバーがウィーン・フィルを振ったシューベルトの「未完成」交響曲が収められたCDのジャケットだった。モーツァルトもベートーヴェンも、有名な肖像はある。しかし、それは現代で言えば写真にあたる、資料としての肖像画であって、普通は絵画芸術とは見なさない。だがシューベルトを描いたこの絵には、ありきたりの肖像画を超えた芸術性が際だっていた。
 ウィーンに何度か通い、クリムトの名作を探して各所をまわった。ベルヴェデーレ宮殿(オーストリア美術館)、レオポルト美術館、セセッシオン(分離派館)、さらには美術史博物館の壁画やブルク劇場の天上画など……。どこでも、豊潤の美を堪能した。美術館から美術館へ渡り歩くその間にも、古都のたたずまいは、クリムトの絵に漂う官能と響き合い、薫りたった。心地よい酔いを感じた。
 だが、シューベルトを描いた絵は、どこにもなかった。やがて、気がついた。この絵を見ることは、もはやかなわぬ願いであることを……。夢幻の美はクリムトの身上であろうが、この絵そのものがもはや幻と化してしまっていた。
 事の顛末(てんまつ)は、そもそもこの絵の生まれたいきさつから述べよう。1898年、ギリシャ人の富豪ニコラウス・ドゥンバは私邸の3部屋に飾る絵を3人のアーティストに依頼した。そのうちのひとり、クリムトに委託されたのが「音楽の部屋」と呼ばれた部屋だった。そして描かれたのが、「ピアノを弾くシューベルト」だったのである(もう1点、「音楽2」という作品も同時に描かれた)。
 シューベルトは当時、ベートーヴェンと並び、芸術家のひとつの理想像として崇(あが)められていた。極貧に耐え、病魔とも闘いながら、己の信じる音楽を作曲し続けた人である。夭折したことも手伝って、芸術に命を捧げた薄幸の天才として聖人化された。
 シューベルトは生前、親しい者たちに囲まれたサロン音楽会でしばしば演奏した。シューベルティアーデと呼ばれ、その伝統は今も音楽祭として残る。この絵も、その様子を描いたものといってよい。とはいえ、そこはクリムト、さすがに並の絵は残さなかった。
 シューベルトの面影こそ、歴史的な肖像が伝えるイメージに準拠しているが、周囲に立つ女性を中心とする人たちの様子は、完璧な彼のオリジナルだ。そのファッションも、クリムトの生きた当時のものである。ウィーン世紀末の妖しくも朧(おぼろ)な雰囲気のなかに、シューベルトの神聖な姿が浮き彫りにされている。
 シューベルトの後ろに立つ女性のひとりは楽譜を手にしている。若き音楽家の伴奏に合わせて歌おうとしているのだろうか。実際に歌うかどうかはともかく、シューベルトの音楽に胸を浸(ひた)され、陶酔に導かれていることは間違いない。芸術の魔力に痺(しび)れてしまったような趣だ。
 画面の左隅に立つ女性には、明確なモデルがいる。マリー・ツィンメルマン。クリムトの愛人で、彼の息子を2人生んだ。絵のなかの彼女は、妊娠中のようにも見える。芸術家が生む芸術の力は、女性を満たし、性的にも命を与えるとのことだろうか。であれば、このシューベルトはクリムト自身の化身ということになる。芸術の魔力は性の力とひとつに重なるのだ。
 クリムトの作品はナチス時代、退廃芸術として没収の憂き目にあった。この絵も1943年に最後の展覧会で人々の目に触れられた後、南オーストリアのインメルドルフ城に収納されていた。
 1945年、連合軍が攻め寄せ、ドイツ軍が退却する際、ナチス親衛隊によって城に火がかけられた。「ピアノを弾くシューベルト」は、愚かにも、この火によって焼失してしまったのだった。比較的質のよいカラー写真が残されていたのが、せめてもの不幸中の幸いであったろうか。
 人間の歴史は叡智や創造と痴愚や破壊のあざなえる縄のようなものだ。うたかたの美とはウィーン世紀末芸術を語る常套句だが、その象徴のような悲運に呑みこまれたこの絵の宿命を思うと、まるでもうひとつの「冬の旅」を聴くがごとき、冬の枯野に立つもの狂おしさに駆られてならない。