ルーブルは語るにしかず、オルセーもよい、ポンピドーも面白い。しかし、パリの美術スポットを訪ねるなら、是非ともここにも足を運びたい。ガルニエ宮としても知られるオペラ座――。もとは1875年、ナポレオン3世の第2帝政期に建てられたこの伝統の歌劇場に、巨大なシャガール作品が存在する。
1964年、時の文化相アンドレ・マルローの依頼を受け、シャガールはここに「夢の花束」という新しい天井画を完成させた。歌劇場なのだから、音楽を聴き、オペラやバレエを鑑賞するのもよいが、ここでは特にシャガールの天井画をたっぷりと味わいたい。
いや正直言うと、1989年にバスティーユに新しいオペラ座が誕生して以来、ここでオペラを聴ける機会はまれになってしまった。一石二鳥とは行かなくなったが、その分、公演のない昼に館内見学ができるようになっているので、シャガールを目当てに訪れる人が引きも切らない。天井画は大円とその中心の小円との2重構造になっている。そこに、合せて14のオペラとバレエ作品が寄せ絵のように集合し、シャガール一流の祝祭的イメージに仕上がっている。
大円には、モーツァルト「魔笛」、ムソルグスキー「ボリス・ゴドノフ」、ラベル「ダフニスとクロエ」、ストラヴィンスキー「火の鳥」、ラモー「?(作品不詳)」、ドビュッシー「ペレアスとメリザンド」、ベルリオーズ「ロミオとジュリエット」、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」、チャイコフスキー「白鳥の湖」、アダム「ジゼル」の10点。
内側の小円には、グルック「オルフェオとエウリディーチェ」、ベートーヴェン「フィデリオ」、ヴェルディ「椿姫」、ビゼー「カルメン」の4点。オペラやバレエの作品の間には、エッフェル塔や凱旋門など、パリを象徴するモチーフも描きこまれている。すべてを確認しようとすると、かなり首が痛くなる。
オペラファンとしては、不思議に思うこともある。パリと縁の薄かったヘンデルがないのは、まあ仕方なしとしよう。が、ロッシーニがない。イタリアだけでなくパリでも活躍した作曲家なのだが……。さらに驚くのは、プッチーニがない。「蝶々夫人」はおろか、パリが舞台の「ボエーム」すら存在しないのだ。
こうしたチョイスがシャガール自身によるものかどうか、精細な事情は不明だが、できあがった作品はそのような「欠落」を豪も感じさせることなく、他の誰にも真似のできない、文字通り夢のような雰囲気を醸し出している。さまざまの色彩が調和し合い輝くさまに、恍惚とさせられるばかりだ。
シャガールは音楽、劇場と馴染みの深い画家だった。「魔笛」や「ダフニスとクロエ」、「火の鳥」などの作品は、実際の公演で、舞台装置と衣装デザインを担当したこともある。
パリのオペラ座の天井画が完成した時、シャガールは「天井画は下の舞台で創り出される多くの夢を映し出す鏡であってほしい」と語ったそうである。舞台と響き合うばかりではない。同じ円内のオペラのイメージ同士が響き合い、大きな夢をふくらませているのだ。
シャガールと劇場は、早くから密接な関係を有してきた。とりわけ音楽の舞台としての劇場は、シャガールにとって切っても切れない創造の場であった。
1920年、シャガールは翌年にモスクワにオープンするユダヤ劇場を飾る一連の壁画を完成させた。「ユダヤ劇場への誘い」、「婚礼の祝宴」、「音楽」、「舞踊」、「演劇」、「文学」、そして「舞台上の愛」。日本でもこの壁画シリーズの展覧会が何度か開かれているので、実物を見た読者もいることだろう。
その中で最も有名な絵である「音楽」は、キュビズム的手法で描かれたヴァイオリン弾きの男の全身像である。緑の顔と黒い鬚が、ユダヤの村から今現れたかのように土臭い印象を放つ。無論、この男のヴァイオリンが奏でるのはモーツァルトでもベートーヴェンでもなく、村の暮しに育まれてきた土俗的な民族音楽だったろう。
楽師、とりわけヴァイオリン弾きは、たびたびシャガールの絵に現れる特徴的なイメージのひとつである。巨視的には、ユダヤ民族とヴァイオリン弾きとの特別な関係を、頭の隅に入れておいたほうがよさそうだ。残虐さで知られたローマ皇帝ネロの時代、ユダヤ人に対する虐殺が行なわれたが、逃げまどう群集の中、ひとりヴァイオリン弾きだけは屋根の上で演奏をやめなかったという。こうした民族的伝統もあってか、今でもヴァイオリンの名手には圧倒的にユダヤ人が多い。
「屋根の上のヴァイオリン弾き」という有名なミュージカルがあり、映画にもなったが、1964年にニューヨークで初演されたこのミュージカルのタイトルは、ほかでもない、シャガールの「The Fiddler(ヴァイオリン弾き)」という絵からつけられたと言われる。ちなみに、ミュージカルの原題は「The Fiddler on the Roof」という。「Fiddler」とは「Fiddle」を弾く人のこと、「フィドル」は民族楽器としてのヴァイオリンの呼称である。
1913年に描かれた「The Fiddler(ヴァイオリン弾き)」の絵は、雪に蔽われた町並みを背景にヴァイオリン弾きを中心に据え、正面から描いたもので、その姿はなるほど、いかにもロシアの村のユダヤ人そのものだ。両足を「く」の字型に曲げて開き加減にし、顔を傾けて弾くところなど、1920年の「音楽」(ユダヤ劇場の壁画)もこの絵を踏襲している。顔が緑色であるのも共通している。
ロシア時代から晩年にいたるまで、シャガールの絵にたびたび登場したヴァイオリン弾きのイメージは、ユダヤの故事を根としつつも、神話的な遠い過去から引っ張り出してきたというより、ヴィテブスクの故郷での幼い日々、折に触れて耳にしたヴァイオリンを、普遍的なイメージにまで昇華したものに違いない。人々の集うところに現れ、演奏していた村の楽師と、その音色に興じ、胸躍らされた人々の興奮や喜びが、ヴァイオリン弾きのイメージとなってイコン化したのであろう。
牛や馬、鶏や山羊といった動物もそうだが、シャガールにとってはヴァイオリンのイメージも、幼い日の胸に刻まれた永遠の原風景なのだ。面白いのは、動物がヴァイオリンを弾く絵まであることだ。牛馬までもが音楽につれて踊り出すというイメージならばわかりやすいが、動物の楽器演奏とは意表を突いている。原風景が幻想の中に羽ばたき、独自の夢のイメージを形成したのだろう。
シャガールにはサーカスに題材をとった絵も多いが、これも劇場との相性の延長にあることは間違いない。
旅の一座がある日、村に移動してきて、空き地にテントを立て、にわか劇場をつくる。きらびやかに着飾った踊り子に軽業師や曲芸師、顔を化粧で埋めた道化師、芸を披露するさまざまな動物たち、猛獣をも巧みに操る動物使い、そして場を盛り上げる楽師たちと、祭りのような興奮の坩堝が現出する。極言すれば、サーカスとは人と動物が一体となったオペラだと言えようか。そこに演じられるのは、祝祭的なめくるめく世界であるが、どこか人生の縮図のように喜怒哀楽が交差し、濃密な時が流れる。
シャガールがサーカスを描くようになった直接のきっかけは、1920年代の半ばに画商のヴォラールから製作を勧められたからだと言われるが、画商のアドバイス以前に、本質的にその世界に惹かれるものがあったことは間違いなかろう。いくつもの油彩の作品を残しもし、また1967年には、リトグラフによる版画集「サーカス」を出している。
シャガール自身がサーカスについて述べた言葉を拾うと、例えば「道化師にはドンキホーテのような哀しみがある」というような感想には、やはりしばしばサーカス、とりわけ道化師を好んで描いたルオーとも共通するものを感じるが、おそらく、シャガールにとってのサーカスの真に個性的な意味は、以下のような発言のほうにはっきりと見える気がする。
曰く、「あらゆる演劇的見世物の中で、サーカスは最も哀しいドラマだ」――。また曰く、「私にとってサーカスは、ひとつの世界のように過ぎ、溶けゆく魔法の光景である」――。
愉悦の祝祭こそが、最も哀しいのである。実を言うと、日本人は伝統的感性に於いて、この人生のドラマティックな移ろいの魔術を見抜いていた筈だ。無常という哲学がそれである。「面白うてやがて哀しき鵜飼かな」とは芭蕉の俳句だが、ここに込められた感慨は、シャガールがサーカスに感じていた思いと通底する。
うたかたのはかなさを知ればこそ、生の輝きが死の淵と隣り合わせであることを知るからこそ、移ろいを超え、祝祭を永遠の生命をもつ芸術に昇華させるのだ。失われた故郷ヴィテブスクの思い出を、急逝した愛妻ベラの記憶を、絵筆によって永遠のものにしようとしたシャガールと、本質的には差がないのである。
劇場といいサーカスといい、シャガール好みのそれらの仕掛けは、まさに「百代の過客」の坩堝的世界だったのである。
シャガールと音楽、劇場の関わりを求めてパリのオペラ座を訪ねたからには、もう一カ所、記念碑的作品のあるこの地まで足を伸ばさねばなるまい。ニューヨークのリンカーン・センターに建つメトロポリタン歌劇場――。
劇場に入ってすぐの正面ロビーの左右に、シャガールの手になる巨大な壁画が飾られている。向かって左側は、赤をベースにした「音楽の勝利」。右側には、黄色をベースにした「音楽の源」。ともに1967年、現在の歌劇場が建てられたのに合せて製作された。劇場のこけら落としにはモーツァルトのオペラ「魔笛」が上演されたが、シャガールはこの舞台装置と衣装も担当し、既に80歳を迎えていたにもかかわらず、ニューヨークの歌劇場のため、大いに力を奮ったのだった。
2つの壁画は、どちらも祝祭的気分に満ちている。例によって、宙に浮く女性、踊り子、楽師、動物など、シャガール作品を特徴づける代表的なイメージが大画面のあちこちに顔を出す。音楽が人間感情の最も自然な発露であり、あらゆる対立や憎悪を超え、和(ハーモニー)の中に音楽が勝利するという、音楽を主語に20世紀の神話的モニュメントを打ち立てようとしたシャガールの壮大な意図は充分に読み取れる。激動の時代に幾多の喪失の痛みを負って来た人の悲願と祈りが、色彩とイメージの飛翔を経て巨大な画像に定着したかのようだ。
一度だけだが、この劇場でオペラを鑑賞したことがある。シャガールの壁画に迎えられるように、歌劇場の入り口をくぐった。2つの巨大な絵は、舞台への期待を高める最高の仕掛けでもある。その日の演目は、ワーグナーの「さまよえるオランダ人」で、ジェイムス・レヴァインの指揮、主役のオランダ人にジェイムス・モリス、ヒロインのゼンタ役は今は亡きヒルデガルト・ベーレンスだった。
説得力に富んだワーグナーが鳴った。主役のふたりも素晴らしいのひと言に尽きた。第2幕の糸紡ぎの合唱も、厚みがあって見事だった。最終幕が終わると、劇場全体を揺らすブラヴォーの大歓声があがった。右隣に腰かけていた、いかにもエリート・ビジネスマン風の青年が「ワーグナーってすごいね!」と、たまたま隣り合わせたにすぎない異邦人の私に興奮の面持ちで声をかけて来た。左には劇場の常連と思しき70代の老人が坐っていたが、この人もにこにこと満足そうだ。皆、顔が輝いていた。私の顔もきっと紅潮していたことだろう。
劇場から出る前に、もう一度、ロビーのシャガールの絵を仰ぎ見た。2つの壁画が輝き、微笑んでいた。入る時に見た印象と、ずいぶん違って見えるのに驚いた。興奮をこだまさせる、確かな響き合いがあるのだ。なるほど、この絵は劇場で得た感動を胸に見るのが正しい見方なのだと納得した。
劇場を出ても、しばらくはリンカーンセンターの広場に佇んで、歌劇場に目をやった。正面ファサードがすべてガラス張りなので、夜の公演の折には、外からでも煌々とした灯りの中にシャガールの絵が浮かぶ。
そこは世界を代表するメトロポリス、20世紀都市のニューヨークだ。シャガールにとっては、ナチスによるユダヤ人迫害と戦争を逃れて来た町であった。そして、思いがけずも愛妻ベラを失うことになった町でもある。
不思議な慰藉を感じた。生と死を超えたような、何かとてつもなく大きく暖かな懐に抱かれたような安堵があった。劇場では今日も音楽があり、人生があり、愛があり、生と死がある。シャガールの絵は、それらと響き合う微笑みの鏡なのだ。
その日、私は音楽の余韻、シャガールの余韻に浸って、夜が更けるのもかまわず、しばらくは、そこから去ることができなかった。