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第66回 表

究極の戦争画に考える
〜藤田嗣治『血戦ガダルカナル』~

作家 多胡吉郎

 久々に東京国立近代美術館を訪ねた。海外や他所から作品を取り寄せる企画展ではなく、自館で所蔵、保管するMOMATコレクションを見るためである。日本の近代美術を俯瞰する展示内容に、多くの気づきや学びを得、新たな展示室に入るたびに、写真では既知の著名作品が思いがけずに現れるという、嬉しい出会いに恵まれた。
 そして、とある展示室に進んだ途端、それまでとは異質の衝撃と興奮に見舞われた。戦後80年ということもあってか、その一室では、戦時中に日本人画家たちがものした戦争画が展示されていたのである。「第二次世界大戦中、日本の画家たちは戦意高揚に貢献する絵画を制作」、「今日的な視点から見ると不適切な表現も含まれる」といった、エクスキュースともとれる解説が付された展示ではあるが、向井潤吉、小磯良平その他の大家の作が並ぶなか、広々と壁を埋める一点の大作が私の目を釘づけにした。
 藤田嗣治の『血戦ガダルカナル』(1944)――。全体が暗褐色で覆われ、よく見ないと、何が描かれているかもよくわからない。中央上部には背景となる滝であろうか、幾筋かに分かれる光の帯が、天の鳴動する稲妻のような劇的効果をあげている。そして手前には、銃をもち、剣をとる兵士たちが、うごめき、ひしめき合って、すさまじいばかりの肉弾戦を繰り広げている。
 大画面いっぱいに描き尽くされた戦闘の様子からは、ルーベンスその他、西洋の伝統にある歴史画を描こうとする作者の意図が感じられる。だが、その上で画家が何を描き、何を訴えたかったのかは、圧倒的な迫力の前に息を吞むばかりで、なかなかに言葉にならない。
 たいそう充実した作品には違いないのだが、画面右下隅に付された「嗣治 2604」に象徴されるように(皇紀2604年は1944年)、絵が生まれた背景や環境、完成後に受けた処遇を思えば、やはり「取扱注意」と言わざるを得ない作品なのだ。
 画家・藤田嗣治が活躍の基礎を築いたのは、1920年代のパリだった。独特の乳白色で描いた女性の裸体像によって、第一次世界大戦後の開放的な国際都市に、彗星のように躍り出た。
 エコール・ド・パリ派の一員としての華々しい活躍の後、中南米での周遊を経て、藤田が祖国日本に落ち着いたのが1933年――。藤田にとって不幸な巡り会わせは、日本がやがて日中戦争から太平洋戦争へとなだれ込んで行く、軍国主義が猛威をふるう時代であったという点であった。
 戦争が本格化するにつれ、軍部からの要請を受けて、多くの画家たちが戦争画を手がけるようになった。そうせざるを得ない状況があった。世界に名を知られた藤田であれば、当然のように白羽の矢がたてられた。藤田の父が、陸軍軍医総監を務めた人物であったことも、そうした流れに掉さすことになったろう。
 藤田が戦争画に手を染めたのは、1938年、漢口攻略戦に従軍した後に描いた『南昌新飛行場の焼打』からだが、国策に添った初期の戦争画は、妙に明るげで、迫力に欠き、画家の魂の所在が明確でない。ところが、太平洋戦争が始まり、舞台を南洋に移して、しかもやがて戦局が悪化し、玉砕の死闘を描くに至って、絵はとんでもない「充実」を見せ始める。1943年に描かれた『アッツ島玉砕』と、翌年にものしたこの『血戦ガダルカナル』の両大作が、その白眉となるが、これらの作品は軍部に強いられてというより、藤田の自発的意志によって描かれたと見てよいだろう。
 それにしても、この絵は凄まじい。敵味方の区別すらも定かでない。殺し、殺される、救いようのない殺戮の地獄絵図である。とてもではないが、この絵を見て、「皇軍万歳!」などと快哉を叫ぶ気になぞなれない。軍が戦争画に期した戦意昂揚から、大きくはみ出てしまっている。
 画家の胸にあったのは、怒りなのか、悲しみ、嘆きなのか。人間がもつ闘争本能の極限を見据える冷徹なリアリズムなのか……。ひと通りの言葉では、言い表せまい。有史以来、人間が放棄することのなかった戦争というものの本質を、鋭くも見抜いてしまったということだろうか。戦争の時代を生きた画家として、藤田はその「真実」を絵にすることに、のめりこんでしまった感がある。
 負の時代の鬼っ子のような作品ではあろう。しかし、ミサイルやドローンといった遠隔操作による攻撃で戦場の様相が著しく変化しつつある今日――犠牲ばかりは以前のままだが――、戦争の現場を生々しく描いた藤田の絵は、「戦争協力」といった月並みなくくりを超えて、深く直視することを求めているように思えてならない。

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