藤田嗣治が初めて戦争画に手をつけたのは、1938年、漢口攻略戦に従軍した後に描いた『南昌新飛行場の焼打』(1938~39)によってであったが、以後終戦まで、合わせて15点ほどの戦争画を発表したとされる。初めの頃こそ、要請を受けての受動的な関わりであったものの、やがて、みずから率先するように積極的な関わりをもって、藤田は戦争画にのめりこんでゆく。
藤田の戦争画のうち、ひとつの極致をなすのは、1943年に描かれた『アッツ島玉砕』である。私はこの絵を知った時、よくもこのような絵を軍部が認めたものだと驚かざるを得なかった。それほどに、この絵は凄惨極まりない地獄を描いている。
タイトルにもなった「玉砕」という言葉は、言うまでもなく「全滅」の意味だが、1943年5月3日のアッツ島での日本軍守備隊の全滅以来、大本営がその言葉を用いるようになった。玉のように美しく砕けるとの言葉によって、敗戦的な負のイメージを糊塗し、犠牲を美化したものである。
藤田の絵筆は、そんな大本営の美化の思惑を粉砕してしまうほどの、圧倒的な力に満ちている。死屍累々と折り合い、重なり合う死体の山の合間に、最後の力を振り絞ってなおも敵兵に襲いかからんとする者や、もはやこれまでと自決に及ぶ者などがいる。だが、全体が暗い色調に覆われているため、どれが日本兵でどれがアメリカ兵かも区別がつかない。圧倒的な殺戮とおびただしい死の集合体が北の海の果てに繰り広げられている。藤田は現地を取材したわけではなかったが、想像力の限りを尽くして、地獄図を描ききったのだった。
エコール・ド・パリのスターであった自負心からであろうか、藤田は戦争画を描くにあたっては、「見なくたってチャンバラは描ける」と豪語したと伝わる。無論、今となっては聞きよい言葉ではない。しかし、みなぎる自信と意欲がなくては、吐けない言葉ではあろう。
実際のアッツ島の戦闘は、この絵に描かれたような肉弾戦ではなく、武器や装備の圧倒的な差によって、藤田の言う「チャンバラ」など、とてもできる状態ではなかったらしい。
だが、藤田はたとえ彼の想像力の世界が生み出した光景であるにせよ、異なる人間集団が敵味方としてぶつかり合い、今や力が尽き果てようとする断末魔の瞬間を、克明に描写した。結果、救いようのない殺戮の肉弾戦、玉砕を覚悟した兵士たちによる死闘の地獄図が、それまでの日本絵画にはない迫力を以て描出された。
軍部が藤田の戦争画に期待したものは、戦意高揚の気分を国民に喚起し、涵養することであったに違いないが、この絵は、軍の意向とはいささかそれたところで、銃後の民に影響を与えることになる。
この絵が上野で初めて公開された時、絵の前には賽銭箱が置かれ、人々は絵に手をわせたという。藤田は軍装に身を固め、絵の横で直立不動の姿勢で立っていた。
パリ時代から、この人には、いささか軽佻浮薄な性格がある。フランスであだ名された「foufou(フーフー)」とは、藤田の姓に引っ掛けた「お調子者」の意だ。「見なくたってチャンバラは描ける」という発言にも、そうした軽さがまとわりつく。
自作の戦争画の大作の横で、軍服姿で立ち尽くす藤田というのも、芝居っ気のようなものを感じないでもない。だが、初めの頃こそ、そのような「フーフー」気分が心を掠めていたやもしれず、次第にその特殊な舞台装置の気圧に押されるかのように、つむじ風に巻かれてゆく。
上野での公開後、この絵は日本各地をまわる巡回展で披露されたが、青森で公開された際に、藤田は、絵の前に膝をつき一心に祈り拝む老いた男女の姿を見かけることになる。彼らは画中の人に供養を捧げ、画前に賽銭を投げて瞑目した。おそらくは、出征した兵士の両親かと思われた。ここに於いて、藤田の「戦争」体験は、かつてない次元に押し上げられてしまう。藤田自身の言葉を追おう。
「そのアッツ玉砕の図の前に膝まづいて両手を合わせて祈り拝んでいる老男女の姿を見て、生まれて初めて自分の画がこれ程迄に感銘を与え拝まれたと言う事はまだかつてない異例に驚き、しかも老人達は御賽銭を画前に投げてその画中の人に供養を捧げて瞑目して居た有様を見て、一人唖然として打たれた」――。
藤田は、自分の絵がこれほどまでに人に感銘を与えることを知って異様な感動を覚え、これぞ会心作と得心したのだという。おそらく、祈る老夫婦の目も、藤田の目も、涙で濡れていたのであろう。お調子者は、この時、軍国少年さながら、生真面目な上にも生真面目な、時代の熱気に染め上げられた純粋分子に転化してしまう。直立不動の姿勢で、自作の玉砕画に横に佇む藤田に、もはや浮かれ気分などかけらほどもない。
痛ましさの極致を感じてならない逸話でもある。戦争画によって藤田が追い込まれてしまった袋小路が、ここには端的に現れている。
時の申し子と化した藤田が『アッツ島玉砕』に続いてものした玉砕画の大作が、翌年にしあげた『血戦ガダルカナル』だった。
藤田は、終戦にいたるまで、全身全霊で戦争画に血道をあげた。前線で若き命を散らすことになった兵士と、その老父母のために、祈るような気持を込めて……。絵の傍らに、直立不動でたたずむ折り目正しさと謹厳さをもって……。その姿を、滑稽だと笑える者はおるまい。
『アッツ島玉砕』と『血戦ガダルカナル』の2作品には、戦争末期、袋小路的な迷路をたどって藤田が行き着いた、彼なりの、時代の「真実」が結晶している。政治性を抜きに、絵画作品として見れば、そこには、叙事詩的なオーラさえ輝いている。
この夏は、戦後80年ということで、各地で多くの関連行事が開かれた。北九州市立文学館で、「ペンと戦争~火野葦平、林芙美子の場合~」と題する企画展が開催中(7月19日~9月28日)だったので、訪ねてみることにした。
文学的関心もさることながら、林芙美子は1938年、漢口攻略戦で藤田嗣治と会って親交を深め、林の『戦線』というルポルタージュ本には、現地で藤田が林を描いたスケッチも掲載されていることから、「ペンと戦争」展で、林を通して藤田の新たな側面を探れればという期待があった。
「ペンと戦争」展は、火野葦平と林芙美子の戦争関連資料という点では、たいそう充実した企画展だったが、残念ながら、藤田嗣治に関しては、新たな発見につながるような展示はなかった。その代わりとでもいうか、一枚の貴重な戦争画と出会うことになった。向井潤吉の『ロクタク湖の白雨』(1944)――、所蔵は北九州市立文学館とある。
先に藤田嗣治の『血戦ガダルカナル』を東京国立近代美術館で見学した際、向井潤吉の戦争画も目にしていた。『四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)』(1942)と、『バリッドスロン殲滅戦』(1944頃)である。
藤田の作品を含め、戦争中に日本人画家の描いた戦争画は、戦後、軍国主義の残滓としてGHQに押収され、長くアメリカに留め置かれた。1970年になって、ようやく日本に「返還」されたものの、「無期限貸与」という形で東京国立近代美術館に収められている。今なお、占領軍によるマイナス評価をまとったまま、仮の住まいに収まっているという訳だ。
展示説明に、「今日的な視点から見ると不適切な表現も含まれる」などといったエクスキュースが付くのも、歴史的経緯と無関係ではあるまい。近美では、戦後80年ということで、7月から10月まで「コレクションを中心とした特集 記憶をひらく 記憶をつむぐ」展を開催、そこでは同館所蔵の戦争画のうち24作品が展示されながら、まるで後ろめたいものでも並べるかの如き、ひっそりとした公開に終わっている(なお、藤田の『アッツ島玉砕』がここで展示されていた)。
そういう「取扱注意」の戦争画の一点が、どうして北九州市立文学館に収められ、展示されているか、私は俄然興味をかきたてられた。
1944年4月下旬、向井潤吉は火野葦平、古関裕而とともに、特別報道班員として、ビルマからインド侵攻を目指したインパール作戦に従軍することとなり、日本を発った。当初、画家としては宮本三郎が予定されていたものの、出発直前になって急病となり、にわかに向井が指名されたという経緯がある。
向井は同行作家が火野葦平と聞いて、喜んで参加することにしたという。ふたりは、1942年のフィリピンのバターン作戦でもともに従軍しており、気心の知れた仲だった。
インパール作戦自体は3月上旬から始まっており、初めこそ日本軍が優勢だったが、充分な補給を確保しないまま、無理な行軍を続けた結果、やがて多くの犠牲者を出すに至り、後に「白骨街道」と呼ばれることになる悲劇が現出する。
向井や火野は、いわば途中参加で、この激戦の舞台に派遣された。ラングーンに着いた向井らは、そこから英軍の中心拠点だったインパールを目指そうとするが、南方50キロに位置するロクタク湖まではたどりついたものの、7月4日には作戦自体が中止となり、撤退せざるを得なくなる。
『ロクタク湖の白雨』は、向井が東京の自宅に戻って以降、現地での記憶をもとに描いた絵である。湖とその周辺を見渡す広々とした視界のなか、左側には湧き起こる白雲から滝のように降り注ぐ雨が描かれ、手前の山々に落とす影を縫って進む戦闘機がいくつか見え、右側には戦闘機が落下した(撃墜された?)のか黒煙も上がってと、動的な荒々しさを見せもするが、全体としては妙に明るい、南国的な明澄のなかに息をしている。その対比が、どこか虚ろで、不安な気分に誘う。背筋の凍るようなそら恐ろしささえ感じる。大自然を前に、人間の愚かしさを映し出すようにも思える。
手前右中ほどに、2人の兵士がいる。坐っているのが向井で、その左に立っているのが火野であるという。明と暗、動と静が入り混じり、極楽と地獄がひとつになってしまったような南の国の迷宮に足を踏み入れた迷い人のように見える。
この絵は、1945年4月の陸軍美術展に出品された。同じ展覧会に出品された向井の『四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)』その他の戦争画は、日本の敗戦後、GHQによって没収されたが、『ロクタク湖の白雨』は没収の憂き目から免れた。
GHQのパージを免れたこの絵を、向井は、かつてともに現地に赴いた火野葦平に贈り、火野は東京の住まいである鈍魚庵に飾った。
1960年1月、火野葦平は故郷である北九州若松の自宅で死去した(後に自死であったことが発表された)。向井のこの絵は、火野の他の遺品とともに、今では北九州市立文学館に収められている。
敗戦と米軍による占領によって、軍国主義一辺倒だった日本は、手のひら返しに、アメリカ流の「民主主義」を標榜する国へと生まれ変わった。戦争画は役割を終えたが、戦争画の記憶はなおも尾を引くことになる。
戦後社会に於いて、藤田嗣治の戦争画は批判の対象となり、その「戦争協力」が声高に非難された。実際には、美術界の多くの巨匠が戦争画に手を染めたにもかかわらず、非難は藤田に集中し、ほぼ彼ひとりが責任をとらされるかたちになった。
石もて追われるように、藤田は日本を離れることとなる。1949年にまずはニューヨークに向かい、1年後にはそこからパリへと移った。
「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」――。藤田はしばしばそう口にした。1955年には日本国籍を捨て、フランスに帰化。2度と祖国の土を踏むことはなかった。
向井潤吉は、戦後、日本各地に残る茅葺の古い民家ばかりを描くようになる。「民家の画家」として名をあげた。
民家を描くに至った理由は、戦争末期、空襲よって防空壕に避難する生活のなか、戦火によって失われようとする日本の美しさを絵にしたいと考えたからだという。戦後、40年にわたって描き続けた油彩による民家の絵は、2000点にも及んだ。
戦中から戦後にかけた向井の生き方を見る時、私は戦後すぐに川端康成が書いた次の言葉を思わざるを得ない。
「私はもう死んだ者として、あわれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書こうとは思わない」――。
1945年8月17日、敗戦から2日後に亡くなった文学仲間の島木健作を追悼した文章だが、ここには一知友の死を超えた、戦争によって受けた日本人全体の傷や痛みが反映されている。川端その人も、戦争末期、鹿屋の特攻基地に海軍報道班員としてひと月を過ごし、172名の特攻隊員たちの死を見送った人であった。
戦争画によって、時の迷路に分け入ってしまった向井潤吉は、古民家という「あわれな日本の美しさ」を描くことによって、かろうじて戦後を生きることができたように思われてならない。