第64回 奥

ミロと東洋、そして日本愛

作家 多胡吉郎

 ミロの絵画の抽象性を説明するのに、「記号化」という言葉がよく使われる。私自身も、「星座シリーズ」の『明けの明星』の説明で、「男や女、様々な動物や鳥、星や天体など、いずれの作品も、この世の森羅万象を記号化し、線と色で構成したような趣」と書いた。
 この記号化というミロの特徴を考える時、古代中国の金文(殷の時代、青銅器に刻まれた文字)や、甲骨文字(殷の時代、甲骨に刻まれた文字)など、東洋の文字との類似性を思わざるを得ない。 また、日本語の平仮名にも似ていると感じる。
 平仮名は中国伝来の漢字から生まれたものであり、金文、亀甲文字は漢字のルーツとも言われるものなので、大きな流れとしては一貫している。そこに、新しい絵画表現を模索するミロが、敏感に反応したということであろうか。
 2025年、東京都美術館で開催されているミロ展でも、文字との連関を感じさせてやまない作品に出会った。『夜のなかの女たち』(1946 大原美術館)――。習字を思わせるような黒々とした三つの古代文字然としたものの背後に、月や星が細い線で描きこまれている。太い線と細い線の競演といってもよいだろう。
 この絵の制作年が1946年であることを知ると、戦時中に描かれた「星座シリーズ」から続く意識の流れに気づかされる。
「星座シリーズ」を生んだ背景に戦争があり、暴虐と殺戮の狂った時代だからこそ、太陽や月、星や動物その他、生命の譜を描きこむことで、この世の本来の秩序や輝きを取り戻したいとするミロの祈りが結晶したことは前に述べた。ミロ自身の回想によれば、この時期、彼を支えていたのは「夜と音楽と星」であったというが、社会的には国内亡命者同然の隠者然とした生きようを強いられつつ、芸術家個人の内なる世界では広がりも深みも増して、生命をとらえる記号化が東洋的な文字風の意匠にも行き着いたということなのだろう。
 「クモを苦しめる赤い太陽」(1948 ナーマド・コレクション)もまた、中央と左右に置かれた3つの黒々とした文字風なものが目を引く。
 しかし、周辺部に配されたものも含めて、形も色彩も格段に大胆になっている。引き籠った感じがない。戦後という新たな時代のなか、文字に啓発された「記号」が、飛躍し、発展したことを窺わせる。赤や黄色、そして地の緑などと響き合い、記号の醸し出すハーモニーが聞こえてきそうだ。


 ミロは元来、日本とは相性のよさを抱えていた画家であった。ごく初期の、まだ独自のスタイルが固まる前の揺籃期には、日本の浮世絵を直接描きこんだ作品も存在する(『アンリク・クリストフル・リカルの肖像』 1917 ニューヨーク近代美術館)。
 しかも、面白いことに、ミロの受容は、世界と比較しても、日本は決して遅れをとっていなかった。否、むしろ早かったのである。1940年に、詩人兼画家、美術評論家の滝口修造が『ミロ(西洋美術文庫48)』という本を出しているが、何とこれは、世界初のミロを論じた単行本だという。同著のなかで、滝口はこう語っている。
 「色彩的なものであるにしろ、この空白の意識が、極限の意識で求められるということは西洋の伝統では珍しいことであって、むしろ極東の芸術の或部分に親しみをもっていると言えるかもしれない」――
 ミロの絵に顕著な「空白の意識」について、滝口は極東の伝統芸術との近似性を感じないではいられなかった。もちろん、「極東」には日本も含まれる。
 東京都美術館で開かれた「ミロ展」でも、滝口が指摘したような「空間の意識」が窺える作品がいくつもあった。比較的初期の作品からだと、例えば『頭部とクモ』(1925 国立ソフィア王妃芸術センター)では、極端なまでに抑制された頭とクモの細い線による表現以上に、背景に描かれた、灰色の、しかもただ一色にべたりと塗るのではなく、雲か水面のように幾重にも重なる動きを内包した複雑な表現が何かを雄弁に語りかけてくる。
 この作品は、「夢の絵画」という、1920年代の半ばにパリで制作された一連の絵画の一点なのだが、先の滝口のコメントと合わせ見ると、とても面白い。ミロがミロとして自身のスタイルを開いた当初から、「空間の意識」は、創造と不可分に結びついていたのである。
 むしろ、戦時中に描かれた「星座シリーズ」に関しては、私個人としては「空間」よりも「尽くし」に似た感覚を覚えてならない。これは森羅万象を記号化して、ひとつの画面に統合的生命体の宇宙を構築したかったからだろう。
 直感的な物言いになるが、奇想で天地を埋め尽くしたヒエロニムス・ボッシュとは、コインの表と裏のような関係にも見えるのである。


 ミロの愛読書の一つに、岡倉天心の『茶の本』があったという。また、こけしや雛人形、拓本など日本の品々をコレクションしていたと伝わる。北斎を愛したとも……。ミロの日本愛は、生涯を通してのものだったようだ。
 実際の来日は1966年と1969年の2回。初来日は、東京国立近代美術館で開かれた回顧展に合わせてのものだったが、京都や奈良の寺を訪ね、多くのインスピレーションを得た。
 その結果、既に「空間の意識」の形成で明らかであった日本の伝統美術からの影響がさらに進んで、一見すると、禅画のような趣の作品を生むことになる。
 『ダイヤモンドで飾られた草原に眠るヒナゲシの雌しべへと舞い戻った、金色の青に包まれたヒバリの翼』(1967年 ジュアン・ミロ財団)――。日本訪問の翌年に描かれた作品だが、「空間の意識」もさることながら、どこか龍安寺の石庭を髣髴とさせる、深い精神性に裏打ちされた哲学的な仕様であることに唸らされる。
 一応は、手前の黄色のひろがりに浮く青い円の中の黒色がヒバリで、彼方の緑の中の赤の小円がヒナゲシということは理解できるのだが、そこから先は、いくつもの「問答」が可能な気がする。両者の関係性や距離感、またそれぞれの意味するところなど、妙に長たらしいタイトルも含めていかにも謎めいて、見る者に多様な問いかけを迫ることになる。まさしく、禅である。
 1968年に描かれた『太陽の前の人物』(ジュアン・ミロ財団)は、誰の目にも一見してミロであると識別できる作品であろう。明るい色づかいも、太く黒い線も、そして丸や三角の記号化された形も、いかにもミロらしく、馴染みのあるものだ。東京都美術館のミロ展でも、代表的作品として扱われていたように思う。
 しかし例えば、これを江戸時代の禅僧、仙崖義梵の描いた禅画『〇△□(まるさんかくしかく)』(出光美術館)と並べ見た時、人々は驚きの声をあげるのではないだろうか。両者の響き合いは、誰の目にも明らかである。
 この絵をアメリカやイギリスでは、『The Universe』と呼ぶことがある。「宇宙」である。私は、戦時中の「星座シリーズ」を解説するのに、「宇宙」という言葉を何度か使った。ミロは、常に新しさを求めつつも、創造者としての根っこの部分には、常に生命の溢れる宇宙のイメージが揺るぎなく存在していたということになろう。


 1966年に次ぐミロの2度目の来日は1969年――、翌年に控えた万国博覧会の準備のためだった。日本初となるこの大阪万博で、ミロはガス・パビリオンで大画面壁画の『無垢の笑い』を展示したのである。
 「EXPO′70」と言えば、シンボルタワーとなった岡本太郎の『太陽の塔』が有名だが、太陽の画家ともいえるミロの作品も会場を飾ったわけである。ガス・パビリオンのテーマが「笑い」だったので、ミロの作品も「笑い」を含むタイトルとなった。高さが5メートル、横は12メートルもあり、陶板640枚で構成されている。
 この作品は、今では国立国際美術館に飾られているので、実際に見ることが可能だ。目玉のような形をした模様が大画面の至る所に配されている。
 省略による記号化と、画面狭しと並べ置く「尽くし」の手法がともに極みに達し、大きな宇宙を形成している。ここに聞こえてくる笑いは、ひとりによる単独の笑いではなく、世界に響くハーモニーとしての笑いの大合唱であろう。そのエコーの輪の中に入るような気持ちで、ミロの巨大壁画を今も鑑賞できるのは、ありがたい限りだ。
 ミロがマジョルカ島のパルマ郊外に自宅とアトリエを構えたのは1956年のことだが、広いアトリエを手にしたことで、晩年は大きな作品を手掛けることが可能になった。大きな三連画が次々と制作されたのである。
 『花火』Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ(1974 ジュアン・ミロ財団)もそのような環境下に生まれた作品で、292cm×195cmという大きな作が3つ並ぶ。これを見て、現代書道アートのようだと思わぬ人はいないだろう。正直な話、これだけを予備知識なしに見せられたならば、ミロの作品だとは気づかぬ人が多いのではないだろうか。
 ミロ展の解説では、アメリカ抽象表現主義の影響をあげていたが、日本人の目からすれば、何よりも、日本そして東洋の墨の伝統を意識せずにはいられない。跳ねや、墨の垂れるような趣など、まるで京都の寺で襖絵でも眺めているような気にさせられる。ミロの「日本化」が究極にまで突き進んだ結果だと言えるだろう。
 ミロはカタルーニャ人としての意識を、終生捨てなかった人である。スペインがフランコ独裁下にあった時代には、国家から身を隠すようにして生きなければならなかった。
 しかしそれでいて、ミロは常に世界に開かれた眼をもっていた。日本への愛着を見てゆくと、そのことがよくわかる。日本に限らず、「生命の譜」を唱和する普遍性、コスモポリタニズムを抱えた芸術家だった。
 カタルーニャの人であり、郷土を愛したと同時に、ミロはいかにも世界人、地球人であったのである。


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