第6回 奥

魂のユートピア。ゴッホが夢見た「日本」

作家 多胡吉郎

 パリを発った汽車は、一路南を目指した。1888年2月下旬――、目的地のアルルが近づくにつれ、車窓の景色を追っていた男の顔に欣然とした表情が浮かび、やがて、神々しいものを目の前にしたような粛然たる面持ちに変わった。ブドウ畑の彼方に、純白の雪をいただく山が輝いている。
 その男、フィンセント・ファン・ゴッホは、2年間暮らしたパリを離れ、おのれの信じる新たな美の地平線を開くため、決然とした覚悟を胸にアルルを目指した。アルルに着くなり、車窓からの風景との出会いを、パリの弟テオに宛てた手紙で報告した。「雪のように明るく輝く空へと聳える白い峰の姿は、まるで日本人が描く冬景色のようだった」―。
 ゴッホがアルルへ向かったのは、最も簡潔に、そして彼の気持ちに則して言えば、そこが「日本」だったからだ。パリで浮世絵に触れ、その虜になったゴッホは、光と色彩の溢れる「日本」に身を置くべく、アルルへと移った。そこは、彼の故郷である北方のオランダはもとより、パリとも違う世界だった。
 「この土地の空気は澄んでいて、明るい色彩の印象は日本を思わせる。 水が美しいエメラルド色の斑紋をなして、まるでクレポン(浮世絵の縮緬絵)に見るような豊かな青を風景に添えている」――。アルル到着からひと月ほどして、画家のベルナールに宛てた手紙の一節だが、アルル到着時の雪景色との出会いが、ここでは春らしい水ぬるむ風景の魅力として語られている。どちらも自然の美が「日本」に重ねられた。アルルは、ゴッホにとっての芸術の理想郷「日本」そのものだったのだ。
 その当時、ジャポニスムはパリの美術界を席巻していた。印象派の多くの画家たちが魅了され、新たな芸術へのヒントにしたが、わけてもゴッホのジャポニスム信奉は抜きん出ていた。経済的な困窮の中でも500枚もの浮世絵を所蔵していたというし、広重や英泉の浮世絵をそっくり油絵で模写しているが、こんなことは他の画家には見られない。
 アムステルダムのゴッホ美術館を訪ねた日本人は、このゴッホ自身の手になる「浮世絵」の前で、必ずや足をとめざるを得なくなる。慣れ親しんだ風土(自然、絵画)から生まれた、しかし明らかにゴッホならではの濃密で過剰なさまに、簡単には整理のつかない衝撃を覚えてやまないからだ。
 ゴッホは手紙魔と呼べるほどの筆まめで、特に画商であった弟のテオ宛てには600通もの便りが残されているが、そこでも「日本」についてはたびたび発言している。そこから見えてくるのは、遠近法や色彩、線や形といった絵画技術論を超えた「日本」への強い憧憬である。
 ゴッホは若き日より苦悩を重ね、魂の彷徨を続けた人だった。いくつもの旅があり、世人から後ろ指をさされるような女との関係もあった。その果てにおのれの道として絵を選び、画業の行きつくところとして「日本」にたどり着いたのだ。言わば人生のすべてをかけて、「日本」にのめり込んだのである。
 ゴッホのユートピア、「日本」――。東西美術史の中でも奇跡のような出会いの結晶であるゴッホのジャポニスムについて、今少し測深鉛をおろして見てみよう。




ゴッホとジャポニスムを語る際に、必ず登場する一枚の絵がある。「タンギー爺さん」――。どこか都会人らしからぬ無骨さを残す中に温和さを浮かべた初老の男は、パリの画材屋の主人で、ゴッホを初め無名画家たちのために便宜を図ってくれた人情味に富む好人物だった。。
 驚くべきは、正面坐像の背景に、びっしりと浮世絵が並べられていることである。この絵に接した日本人は、どうしても背景に置かれた浮世絵が誰の何という作品なのか、その典拠が気になってしまうが、オリジナル探索だけに囚われていると、大事な点を見過ごしかねないことになる。
 これは画材屋の店に実際に飾られていた浮世絵をスケッチしたというより、タンギー爺さんを描こうとしたゴッホが、意匠として背景に並べたと考えるべきかと思われる。すなわち、あたかもロシア正教寺院のイコンのような感覚で、聖者を囲む聖画のように浮世絵を配置して見せたのだ。
 「タンギー爺さんは長年にわたって苦労し、堪え忍んできた人だ。だからどこか、昔の殉教者や奴隷に似たところがある。当世のパリの俗物どもとは全く違う。僕がもし長生きしたら、タンギー爺さんのようになるかも知れない」――。タンギー爺さんについて述べたゴッホ自身の言葉だが、その人となりを、羽振りをきかせるパリの俗物どもと対照的に扱っているのは要注目だ。
 つまり、ひたすら利に走り、欲望のみに汲々とし、しのぎを削るような都会人の生き方への絶望と嫌悪が、タンギー爺さんを持ち上げ、敬慕する基礎になっているのである。「殉教者や奴隷」という表現はゴッホ一流の形容に違いないが、タンギー爺さんを評しつつ、ゴッホ自身の宗教的な真実への探求がエコーしていることは間違いない。
 利と欲望のみに生きる個人を集大成すれば、国家とか文明というものになる。ゴッホにとって、虚偽に満ちた西洋文明に対するアンチテーゼが、ユートピア幻想としての「日本」であった。タンギー爺さんの背景が日本の浮世絵によるイコノスタ(多数のイコンで飾る聖壇の壁)となったのは、そうした理由による。
 ゴッホは自画像を多く描いたことでも知られるが、その中に「ボンズ(坊主)としての自画像」と呼ばれる一点がある。アルルで共同生活を始めたゴーギャンに捧げられた作品でもあるが、明らかに自分の精神的求道性を日本の僧侶に重ねている。
 プッチーニのオペラ「蝶々夫人」にも影響を与えたピエール・ロティの小説『お菊さん』をゴッホは熱読し、その挿絵に登場するボンズにヒントを得たと言われるが、ただの日本趣味のように思ってはいけないだろう。トゥールーズ=ロートレックに日本の伝統衣裳を着て撮った写真があるが、そのような遊び心とは意味が違う。この作品は浮世絵的な平面的手法が顕著な絵だが、それ以上に、「日本」に寄せるゴッホの深い精神を窺わせる。
 ゴッホは伝道師を目指したこともあるほど、宗教的真実への喝仰は真剣だった。そのゴッホが、他ならぬ自画像を日本の「ボンズ」に重ねて描いたのである。絵画の革新のためのヒントをつかむという次元を超え、ゴッホは魂の彷徨者としてジャポニスムに出会い、奉じたのだった。




「ビングの複製図版の中では、『一茎の草』と『なでしこ』の素描、そして北斎が素晴らしいと思う。でも人が何と言おうと、平板な色調で彩色された、ごくありふれたクレポンが、僕にとってはルーベンスやヴェロネーゼと同じ理由で素晴らしいのだ」――。アルルに移って7カ月が過ぎた、1988年9月24日に弟テオに宛てて書かれた手紙の一節である。ゴッホの浮世絵愛好を示す資料として、しばしば引用される箇所でもある。
 「クレポン」はゴッホの書簡にたびたび登場するが、もとのフランス語での意味は縮緬(ちりめん)のことで、美術用語としては大判の浮世絵を縮緬状の紙の上に縮めてプリントしたものをいう。上下左右、元絵の60パーセントくらいに縮小されるが、その分、色彩は圧縮されて強くなる。浮世絵の廉価普及版ともいえるこのクレポンを、ゴッホはこよなく愛した。西洋絵画の伝統の巨匠、ルーベンスやヴェロネーゼにも匹敵するというのだから、その執着ぶりが知れようというものだ。
 だが、ゴッホの日本美術への愛着は、浮世絵だけに偏ったものではなかった。そのことを示すのが、引用の冒頭部で示された「一茎の草」と「なでしこ」である。どう見ても、浮世絵のタイトルとは思えない。
 「ビングの複製図版」とあるのは、画商サミュエル・ビングが、日本美術を広く世に紹介するために発刊した月刊誌『芸術の日本』に載る複製版画のことを言っている。ビングはドイツ生まれのユダヤ人で、パリに日本の浮世絵や工芸品を扱う店を構え、そこはジャポニスムの先端基地となっていた。ゴッホもこの店の常連で、ビングを通して日本美術に親しんだ。
 ゴッホの目にとまった「一茎の草」と「なでしこ」が一体どのような絵であったのか、私はどうしてもこの2点の絵を見てみたいと欲した。というのも、ゴッホは手紙の後半でも再びこの「一茎の草」を登場させ、そこから独自の日本観を展開しているからだ。
 結論から言うと、『芸術の日本』に載った「一茎の草」と「なでしこ」は、どちらも植物画であった。川原慶賀の画風によく似ている。「なでしこ」は可憐な花々が咲き揃ったさまを描き、穂をつけたイネ科らしい草を描いた「一茎の草」は全体図に加えて部分アップまでが同一画面に添えられ、いかにも植物画らしい。江戸のボタニカル・アートそのものである。
 私は新たに目を開かされる思いがした。ゴッホが惹かれたのは、いわゆる浮世絵ばかりではなかったのだ。彼のジャポニスムはもっと大きな、広い裾野をもつ「日本」への傾倒だったのである。
 「日本の芸術を研究すると、紛れもなく賢明で、哲学的で、知性豊かな人物に出会う。彼は何をして時を過ごしているのか……。地球と月の距離を研究しているのか? 違う。ビスマルクの政策を研究しているのか? 違う。彼が研究するのは、たった一茎の草だ。しかし、この一茎の草がやがて彼にありとあらゆる植物を、そして四季を、田園の広々とした風景を、更には動物、そして人物を描けるようにさせるのだ。 彼はそのようにして生涯を送るが、すべてを描くには人生はあまりに短い。そう、これこそ――まるで自らが花であるかのように自然の中に生きる、かくも素朴な日本人が我々に教えてくれるものこそ、真の宗教といえるのではあるまいか」――。 
 ゴッホが憧れた「日本」の核心部分がここに吐露されている。それは、自然と一体となったつつましい生き方であり、一木一草的なすべての命への共感である。植物にせよ動物にせよ、自然界の小さな命にまで、命をこだまさせるようにして向けられるあたたかな眼差し――。一茎の草に注がれるこの目と考えが、風景画や肖像画にまで敷衍されて、「日本」を形成している。
 まさに自然観、芸術観、宗教観までをも統合した大きな哲学としての「日本」が、ゴッホの夢見たユートピアだったのだ。




「日本の芸術家たちがお互いの作品ををよく交換したことを聞いて、僕はずっと前から感動してきた。そのことは彼らの間に確かな調和があり、そこに絆が結ばれていた証拠なのだ」――。ゴッホが「一茎の草」を誉めたテオ宛ての手紙とほぼ同時期に書かれた、画家ベルナール宛ての書簡の一節である。
 こうした「日本」観にもとづいて、ゴッホはアルルの家にゴーギャンを招き、共同生活を始める。ゴーギャンとの逸話は、強烈な個性がぶつかり合って迎えることになる悲劇的結末を中心に語られがちだが、実は共同生活を開始するきっかけに、「日本」が重要な役割を演じていたのだ。
 2カ月ほどを経た共同生活の破綻、耳切り事件、そして精神病院への入院と、やがてゴッホは坂を転げ落ちるように人生の末路へ駆け進む。そうした転落の過程で、「日本」は霞み、遠のいて行く。潮が引いたように、彼の書簡の中から「日本」が消えた。ユートピア幻想の崩壊というより、真実にひたすら迫ろうとした芸術家の魂、ゴッホの求道性が、ジャポニスムを突き抜けてしまったのだろう。
 ただ、死の5か月前に描かれた「花咲くアーモンドの枝」の絵に、わずかにユートピアとしての「日本」が幻のように蘇った感がある。この絵は、弟テオに子どもが生まれ、自分と同じフィンセントと命名されたことを聞いて、弟家族に贈ろうとして描いたものである。
 1889年2月に精神病院に収容されて以降、死の近づいたゴッホの作品には独特の激しさ、息苦しさが脈打っているが、この「花咲くアーモンドの枝」は、例外的に何とも温和で静謐な絵である。「一茎の草」と同じく、植物の命と一体になってゴッホは心を澄まし、おだやかに息をしている。死の淵にあって、新しい家族の誕生を機に、いま一度生を蘇らせ、命をこだまさせた束の間の「日本」復活だったのかもしれない。
 ゴッホが熱読した『お菊さん』の著者ロティは、フランス海軍士官でもあったので、2度にわたって日本を訪問した。ゴッホに日本美術の魅力を伝えたビングも、数次にわたって日本を訪れている。日本は既に開国し、普通の外国人も訪問が可能な国だった。
 ゴッホの「日本」は南仏のアルルだった。実際の日本にまで足を向けなかったのは、まずは経済的な事情からだったに違いないが、或いは、彼の夢見た「日本」と現実の日本との差が露見してしまうことを怖れたためでもあったろうか。
 もしゴッホが実際に日本を訪ねたら、どうだったろう……。こうした仮定が愚問にすぎないことは百も承知の上で、それでも発想の飛躍を誘惑してやまぬものがある。
 胸を膨らませてきた「日本」への憧れは、近代化と富国強兵の道を急ぐ明治日本に幻滅し、ほどなく潰えてしまったろうか。或いはまたひょっとして、ラフカディオ・ハーンが小泉八雲と名乗り文学での東西の架け橋となったように、ゴッホも日本婦人と結婚して日本名を名乗り、絵画でのハーンとなったかもしれない。
 仮にゴッホが現代の日本を訪れることができたなら、たいそう驚くことだろう。憧れてやまなかった「日本」の地で、ゴッホの絵は他の印象派の画家たちを圧するように愛されている。彼の信じたユートピアがなおも今の日本に残っているかどうかは別として、袋小路のようなところに追い込まれ自ら命を絶った悲劇の最期を思えば、せめて日本でのもてはやされかたを、草葉の陰のその人に伝えてあげたいように思うのは私だけではないだろう。

▲ 前頁に戻る