タイトル

第59回 表

デ・キリコ 「形而上絵画」の詩情の核に
〜『通りの神秘と憂鬱』の少女~

作家 多胡吉郎

 不思議な絵である。非現実な夢の世界だが、妙に惹きつけられる。皆でわいわい、祝杯でもあげるようにして楽しむ絵ではない。万人が認める美とは異なる。それでいて、一人一人、孤独な胸の奥底に抱える魂の巣のような趣がある。だから、無意識でいた「秘め事」を突きつけられたように、どきりとさせられる。絵から動けなくなる。
 神秘、謎――。デ・キリコ(1888~1978)の「形而上絵画」を語るとなると、いつも、その手の言葉が繰り返される。語りつくされて、もはやありきたりと化し、何も語らずに等しきの感さえする。
 ここにとりあげた『通りの神秘と憂鬱』は1914年の作だが、シュールレアリスムにも道を拓いた形而上絵画の代表作。私にとっては、デ・キリコ絵画のうち、至高の作品である。
 画面右手は影(闇)の世界。左手は光の世界。それだけでも対照的であるのに、加えて、遠近法がそれぞれ微妙にとち狂っている。右手の影の世界は、どこか寸足らずのように、押しつぶされた感じがする。左手の円形アーチの続く回廊は、逆に、遠近の差が極端で、過剰な気がする。江戸の浮世絵師が初めて西洋画を知って、遠近法を真似て描いたような、殊更で、な感じが拭えない。どちらも、別々の特殊レンズを通して見ているかのようで、いびつさや歪みが心を落ち着かなくさせる。
 闇の世界から晴れの世界に侵入してきた巨大な人影の存在も、また不安をかきたてる。黄泉よみの国からの使者か、亡者の王か。いずれにしても、死神の類だろう。現実世界の存在だとするなら、人を惑わす詐欺師のような悪魔、ないしは強権国の独裁者。
 デ・キリコの絵に通じた人なら、彼の絵にしばしば現れる広場の銅像の影だと言うかもしれない。銅像だとするなら、ドン・ジョバンニの食卓に現れた騎士の像のような、やはり死の世界から訪うものに違いない。「ドン・ジョバ~ンニ~」と低く太い声で呼びかける、モーツァルトのオペラの歌の一節が聞こえてきそうだ。
 宮殿風の回廊といい、銅像の影といい、馬車の荷車といい、登場する個々のものは、他のデ・キリコ絵画でおなじみのものが揃っている。だが、絵のへそのようなところに、普段とは違うものが描かれる。輪を回しながら走り行く少女だ。
 デ・キリコの絵は、不条理な非現実世界を描きながら、環境というか、雰囲気全体に、しばしば独特の詩情が漂う。喜怒哀楽のような一般の情緒を超えた乾いた次元に、砂漠に冴え冴えとした月光が射す如くに、得も言われぬ詩情が湧くのである。
 だが、この絵が抱える詩情には、少女という、はっきりとした中心核がある。ある意味、こんなに「情緒的」な存在が画面に登場するのは、他のデ・キリコの絵にないのではなかろうか。
 少女は画家自身だという人もいる。そんな単純なことでよいのか、とも思う。人類全体を表してもいるだろう。文明の象徴かもしれない。人間らしさ、ぬくもり、やさしさ――人の生の記憶がすべてここに込められている。
 少女は輪を回す。どこまで輪を回して行っても、きりがない。それでありながら、少女は純粋な気持ちのままに、回し続け、駆け続ける。「徒労」という言葉が私にはぴったりくる。その先に不気味な影をさらすのは、彼女を待ち受ける非情の運命だろうか。
 この作品が描かれた1914年という年は、第1次世界大戦の勃発した年。絵は開戦直後に描かれた。翌年には、デ・キリコも出征を与儀なくされる。
 「戦争の結果は、おそらくこの絵のようなものになる」と、この作品に関して画家は語ったと伝わる。エンドレスな徒労……。永遠の空回り……。
 しかしなお、私は少女に声をかけたくなるのだ。「つまずくなよ。転ぶなよ。悪魔を避けて行けよ」と――
 絵が描かれて110年。ロシアのウクライナ侵攻以後、世界は格段に危ういものとなった。少女はなおも、輪を回して走り続けているに違いない。