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第58回 奥

マネVSドガ  〜その響き合いと独自性~

作家 多胡吉郎

リとニューヨークで開かれた「マネ/ドガ」展をベースに、もう少し、両巨匠について見てゆこう。時には、展覧会から少し離れてでも、自由に、2人の天才の間に交わされたこだまを追ってみたい。
 マネの生年が1832年、ドガは1834年。マネが2歳年上だった。ともにパリに生まれ、裕福な両親のもとで育つ。マネの父は法務畑を進んだ高級官僚だった。ドガの父は銀行家である。
 「マネ/ドガ」展の展示は、それぞれが描いた自画像から始まる。
 展示されたマネの自画像は『パレットをもつ自画像』(1878)で、40代後半のもの。51歳で死んだことを思えば、晩年の姿と言える。
 鋭い視線が印象的だ。信念に生きる芸術家としての気概に満ち、世に絵描きは数あれど、本物の画家は自分だとの、自負心が溢れている。
 マネは生涯に2点の自画像しか残さなかったが、もう1点は日本にある。アーティゾン美術館(旧ブリジストン美術館)が所蔵する『自画像』(1878~79)で、こちらは立ち姿だ。
 座像の自画像と同じく、気骨、気概に満ちているが、足のバランスがやや不自然なのは、左足が壊疽を病み始めている証だとも言われる。
 梅毒に起因するこの病のため、1883年にマネは左足を切断する手術を受けたが、術後の経過が思わしくなく、亡くなってしまう。
 そのことを知ると、自画像に溢れる気概の底には、残り少ない人生を意識した悲壮な覚悟が透けて見えるようにも感じる。
 なお、立像にしろ座像にしろ、マネは自画像を描く際に、鏡に映った自分の姿を描いているので、左右が逆になっている。上着の襟合わせのボタンの位置から、そのことがわかる。
 展覧会で展示されたドガの自画像は、若き日の作品である。1854年から55年の作なので、21歳頃になる。まだ青臭さが残るその姿は、きちんとした身なりの、いかにもブルジョアの御曹司といった感じだ。
 政財界に颯爽と登場したニュー・エリートのようにも見えるが、細かく観察すると、右手にはデッサン用の木炭が握られ、手元にはスケッチブックが置かれている。
 ドガはこの絵が描かれたのと同時期にあたる1855年、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)でアングル派の画家ルイ・ラモートに師事している。アングル譲りのデッサン重視の姿勢が、ドガにも受け継がれた。
 21歳の自画像は、身なりはビジネス・エリートのようでも、自分は絵を描く人間なのだという、画家宣言の意味を有していたことになる。
 ドガは生涯に40作もの自画像を描いたと伝わる。それでも、絵筆やパレットなど、絵画制作の道具がともに描きこまれたのは、私の知る限り、この絵だけである。
 「マネ/ドガ展」では最初の展示物として、それぞれの自画像を掲げるに際し、制作道具を描きこんで画家であることを明確に示した作品をチョイスして並べたのである。なかなかに心憎い演出といえよう。
 マネの自画像を2点とりあげたので、ドガに関しても、自画像をもう1点、紹介しておこう。1863年の作とされる。21歳の自画像から約10年が経過したわけだが、紳士然とした恰好は変わらない。
 落ち着きが加わり、手にしたシルクハットと手袋も、板についているが、顔の表情はどこかポーカーフェイスのように見える。
 絵を描く人間として、自分は奥深い謎を秘めているとでも言いたげだ。
 若い日の自画像は、背景が無地であったが、こちらは赤茶色の壁と、その奥の外の空間とが描きこまれている。とはいえ、説明的なディテールを排し、縦割りの屏風のように断面化したあたり、時代を先取りした感じもある。
 マネの自画像にはストレートな力みが漲っていたが、ドガの自画像は、ふくらみや広がりを有し、直球を敢て避けた謎の多面体の趣をなしている。
 自画像だけをとってみても、2人の人柄、画風を象徴しているようで、興趣が尽きないのである。

ネはすぐれてジャーナリスティックな感覚をもった画家だった。時代に敏感で、神話や伝説、聖書の世界よりも現実の世界に画題を求めた。
 社会の矛盾にも鋭い眼差しを向けた。美術史に不朽の名を残す代表作2作――『草上の昼食』と『オランピア』は、その偽らざる現実描写によって、スキャンダルさえ巻き起こした。
 パリのオルセー美術館で開催された「マネ/ドガ」展には、このうち『オランピア』のみが展示された。「草上の昼食」は何と常設展に方に展示されたままという、贅沢さであった。
 ドガも、現実社会に目を向ける画家だった。この点、マネもドガも、19世紀中葉から20世紀へと続くフランス美術、ひいてはヨーロッパ美術界の流れを決定づけたまぎれもない先駆者だった。
 こうした社会派、現実派としての両者を語るのに、「マネ/ドガ」展では、当時の流行風俗とも言える時代現象に注目した。
 そのようにしてとりあげられていたのが、ひとつは競馬である。競馬は英国渡りの新しい社交の場として、ブルジョア階級の人気を集めた。特に、パリ郊外にあるロンシャン競馬場は、都市型の娯楽を求める人々で賑わった。
 マネの描いた『ロンシャンの競馬場』(1866 シカゴ美術館)――。ゴールに向け疾走する競馬馬たちを、大胆にも正面からとらえ、左右にはレースを注視する観衆たちを描く。よく見ると、画面左下にはパラソルをかざした貴婦人の姿も見える。
 迫力に富み、今風に言うなら正統ドキュメンタリーのタッチとでも言うか、競馬場全体の熱気を、その渦中からヴィヴィッドに伝えている。
 これが写真なら、今でもコマーシャルに使えそうな構図だ。社会派マネの抱えていた個性と言ってよいだろう。
 ドガの描いた『競馬場 1台の馬車とアマチュア旗手たち』(1877~87 オルセー美術館)――。不思議な絵だ。競技開始前なのだろうが、馬の向きはバラバラである。それぞれの馬の肉体の動き、ジョッキーたちのカラフルな服装にドガの関心があるのは間違いない。
 何より驚かされるのは、右下に登場する馬車に乗る貴婦人(パラソルで顔を隠している)と、シルクハットの紳士だ。見物客なわけだが、こういう人士たちに支えられて、競馬が成立しているという社会性、階級性などを、強引な構図のなかに取り入れている。
 風変わりな、しかし明らかに並でない、卓越した感覚、感性が見て取れる。
 ドガには競馬の絵が多いが、どれも、まっとうなアングルからの絵がない。馬の尻の筋肉の盛り上がりに注目するように、後ろから描いたものなど、いかにもドガ的だ。
 時代の流行の場として競馬場に興味を持ったのは、マネもドガも一緒だろうが、絵画となって現れる姿には、歴然とした差がある。同じ場所に立ち、同じものを見つめながら、それぞれの個性が絵に現れるのだ。
 今回の展覧会で初めて知るところなったが、両者には、海水浴に関した絵も存在する。
 鉄道が敷設されたお陰で、パリの上流階級は、ノルマンディーの海岸で海水浴を楽しむようになった。これも、競馬同様、19世紀中葉からの社会現象であった。
 マネの『ブーローニュの浜辺で』(1868 バージニア美術館)――。新しい時代の新しいレジャーが活写されている。
 夏の海風を受けて、気持ちよさげな人々が描かれる。双眼鏡で、遠くの船を眺める婦人。砂遊びをする子供たち……。画面左側、波打ち際に箱(小屋)のようなもの引く馬車が描かれているのは、箱に入ったまま海水につかった、当時の海水浴のスタイルだという。水泳を楽しむのではなく、温泉治療のように海水につかるのである。
 絵は今から150年以上も前の作品だが、時代を超えて、絵のなかの人たちとともに、海風を胸いっぱいに吸いたくなるような、臨場感溢れる傑作である。
 ドガの描いた『海水浴』(1869~70 ロンドン・ナショナル・ギャラリー)――。マネと同じ海岸風景なのだが、画家の視点、興味の対象は相当に異なる。
 一見すると、娘の髪を梳く母親のように見えなくもないが、両者の間に愛情が通い合っていない点からすると、乳母(使用人)と主家の娘と見るべきであろう。
 ノルマンディ―の海水浴場は、地元民が楽しむ場ではない。パリの上流階級が、鉄道を使って、避暑に訪れる場所なのである。
 場の成り立ちそのものに、社会性、階級制が不可分に貼りついていた。そしてそれは、実際にその場を訪れた人々のなかにも、微妙に立ち現れるものだったのである。ドガは、それをこそ描きたかったのだ。
 私たちはややもすると、マネを『オランピア』のような鋭い社会批判の画家、ドガをバレリーナを描いた優美な絵の作者と、単純に仕分けがちだが、そうした見方がとんでもない浅薄な理解であることが、この絵からもわかる。
 マネには、新社交場としての海水浴場を、マスでとらえ、その光景や雰囲気を活き活きと伝える新時代の画家としての総合的な傾向があったが、ドガはもう少しひねりをきかせた個の視点から、社会の奥を覗こうとしていたかに見える。

ネとドガの女性に対する姿勢も、その眼差しにいろいろと違いが見えてきて面白い。
 マネは、華やかな、美しい女性をゴージャスに描き得る画家だった。展覧会にも出品されていた『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』(1872 オルセー美術館)――。黒を基調とする衣装を身に着けたモリゾの、気品に溢れ、かつ親し気で、可憐な姿は、一度目にしたら忘れることができないほどに魅力的だ。
 モリゾ自身が絵筆をとる画家だったが、美人の弟子はマネの愛人ではないかとの噂がたったのも、むべなるかなである。なお、モリゾはこの絵が描かれてから2年後の1874年、マネの弟のウジェーヌと結婚している。
 マネの筆になる華麗なる美女ということになると、やはり出品されていたこの絵も忘れ難い。『ナナ』(1877 ハンブルク美術館)――
 化粧するクルティザンヌ(高級娼婦)なのだが(ナナはその職業の女性に多い名前だった)、とても可憐で、愛らしい。娼婦といっても、苦界に生きる惨めな女性といった悲哀は感じられない。
 娼婦の化粧という言葉からイメージするけばけばしさやどぎつさにも無縁だ。下着もストッキングも、すべて高級品を身に着け、それがとても自然で、どこか清楚ですらある。
 女性に注がれるマネの視線は、やさしくもあたたかい。だが、女性のすばらしさはさておき、この絵の肝心な点は、右の脇に、シルクハット姿の紳士が半身だけ描かれていることである。
 どれほど魅力溢れる女性であっても、高級娼婦であれば、パトロンが外せない。金にあかしてパトロンとなり、女性に君臨しようとする男の存在を、マネは、隠しようもない社会の現実として、描きこむ。
 この社会批判の眼差しこそが、マネである。そして、この鋭い批判の視線を、ドガも受け継いだ。
 今回の展覧会では展示されなかったものの、ドガが数多く描いたバレエの絵のうち、最も世に知られ、人気も集める作品、『エトワール』(1876~77 オルセー美術館)――
 夢幻の美に溢れた世界を描くが、バレリーナの後方に、パトロンの紳士が下半身だけ姿を見せている。マネの『ナナ』と、うり二つの構造だ。
 当時のバレリーナは、現代のような舞台上のアーティストという以前に、貧しい少女たちが経済的に面倒を見てくれる贔屓筋を探す売色的な性格が強かった。華やかな舞台の裏に横たわる、苛酷な現実であったのだ。
 ドガはマネ譲りの社会派的な視点を、バレエの舞台や稽古場に於いても維持したのだった。
 ドガはマネと違い、美女の肖像画を手掛けはしなかったが、労働現場に於ける働く女性たちはよく描いた。「マネ/ドガ」展で展示されていた『アイロンをかける女たち』(1884~86 オルセー美術館)は、なかでも出色の作品。
 洗濯屋で働く女たちは、毎日、大量の衣服を洗い、乾燥させ、アイロンがけをする。当時のアイロンがけは、今と違って、相当に強く押しつけないと用をたさない力仕事だった。
 さすがに疲れた女が、思わずあくびをする。女が握る瓶はアイロン時に使う霧吹きのための水が入っているのだろうが、酒瓶に見えなくもない。
 花の都と謳われるパリの底辺で働く女たち。重労働による蓄積疲労と、仕事にうんざりした倦怠感が、大口を開けてのあくびに象徴されている。
 この一瞬を絵にしたドガは、やはり只者ではない。
 ドガは生涯独身で、女性と付き合うこともせず、プロの女性たちと戯れることもなかった。筋金入りの女嫌い(ミソロジスト)であったとも伝わる。
 その彼ゆえに描けた女性像と言えるだろうか……。
 冷たく突き放すのではなく、どこかやさしさが眼差しに滲むようにも思えるのだが、女性との性愛を避ける一方で、ドガが抱えた二面性だったのかもしれない。

ネとドガがどのように互いを知ることになったか、巷間よく言われるのは、ルーブル美術館でベラスケスの絵を前に模写している時に出会ったというものだ。確かに、両者にはベラスケスの絵を写したデッサンが残されてはいるのだが、この出会いのエピソードは、美術界にひろまった都市伝説のような気がしないでもない。
 いつどこで出会ったかはともかく、マネとドガは互いを知り、親しく交わるようになった。どちらも個性の強烈な画家なので、友情が時には嫉妬やライバル心の炎を燃やし、対立に及ぶこともあったろう。
 そのような文脈において、否、ある意味では、「マネ/ドガ」展に展示されたすべての絵画のうち最も人々の目を引く作品が、日本から出品されていた。
 ドガの描いた『マネとマネ夫人像』(1868~69)――、北九州市立美術館の所蔵になる。
 親交を重ねたマネとドガは、互いの絵画を交換することになった。そしてドガがマネに贈った作品が、この絵だったのである。
 ピアノを弾くマネ夫人と、背後のソファで聴く夫のマネ……。だが、絵に描かれた夫人の姿が、マネは気に入らず、激した感情のままに、右端のその部分を切断してしまった。
 後日、そのことを知ったドガは怒り、破損された作品を引き取った。切断された夫人の右半身の行方は、今もって不明である。一時は再びその部分を描きたすことを考えたドガだったが、結局、そのままに放置してしまう。
 マネ夫人のシュザンヌは、もともとピアノの家庭教師だったというが、結婚して以降も、しばしばピアノの前に腰かけたのだろう。
 マネはその演奏に聴き惚れて――という感じではなく、ソファにふんぞり返ったその姿からは、いささかうんざりした様子が伝わってくる。
 洗濯女のあくびを見逃さなかったドガは、ここでも先輩画家の心模様を(おそらくは夫婦関係の深淵を)、一瞬のうちにつかみ取ってしまったのだろう。
 マネは、後輩画家の容赦ない視線にたじろぎ、怒りを爆発させた。不愉快そうな自分の姿を残したまま、夫人の表情の方を切り取ってしまったマネの心理も面白い。オリジナルの絵の夫人の姿は、一体どのように描かれたものだったろうか……。
 その穴埋めをするように、マネは自身の手で、『ピアノを弾くマネ夫人』(1868 オルセー美術館)という絵を描いている。この作品も、「マネ/ドガ」展に飾られた。
 人生の歳月を積んだ女性の、ふくよかな気品に溢れた姿である。悪く言えば、いかにも「無難」だ。モリゾを描いた時のような、吹きあがる愛の高揚感はここにはない。
 「穴埋め」ということで言えば、ドガがカフェで女優のエレン・アンドレをモデルに描いた絵が、あまりに悲惨な姿であるのに心を痛めたマネが、同じカフェでエレンを描き直したというエピソードにも通じる。
 マネとドガというふたりの関係にあっては、それが「常態」だったのかもしれない。社会派として充分に過激な画家だったマネが、ここではドガの過激な行動、無鉄砲ぶりにやり込められているのが面白い。
 1883年、マネは51歳で世を去った。ふたりの画家の親交は否応なく途絶えたが、友情はなおも続く。
 「マネ/ドガ」展にも出品された、マネの『皇帝マキシミリアンの処刑』(1867~68 ロンドン・ナショナル・ギャラリー)は、同名タイトルの最終完成版として知られるマンハイム市立美術館所蔵の絵に至る試作版であると伝わる。
 ナポレオン3世の野望から、フランスはメキシコに派兵し、マキシミリアンを皇帝に立てるが、やがてメキシコ革命軍に敗れ、皇帝は処刑されてしまう(1867年)。
 マネはこの事件に激怒し、マキシミリアンをナポレオン3世の政治的野心の犠牲者と見た。銃殺刑の場面を次々に描き、4作品が残されたが、今回展示されたものは2作目にあたる。
 一見してわかるように、絵は部分的に切断され、欠けたままである。
 この絵は、マネの死後、バラバラにされて売却されてしまったが、ドガは先輩画家への友情から、自身の力で可能な限り買い戻したのだった。
 ドガの死後に絵を入手したロンドン・ナショナル・ギャラリーによって、ひとつのキャンバスに仕立てられたのは、1970年代の後半になってのことである。
 マネは生前既に名のある画家ではあったが、死後、名声はしぼみ、一時期は忘れられた存在になりかねないところだった。だがドガは、マネの多くの作品を自分の手元に置き、先輩画家の評価が高まるよう、努力を惜しまなかったのである。
 「マネ/ドガ」展の展示の最後には、ドガによる次の言葉が掲げられていた。マネの葬儀の際に、ドガが述べた言葉だという。
 「マネは、私たちが思う以上に偉大な画家だった」――
 展覧会をベースに、マネとドガの関係を見てきた本稿の終わりには、ドガによるマネの肖像画をあげておこう。
 『帽子を手にしたマネの座像』(1868頃 メトロポリタン美術館)――。デッサンだが、ふたりの出会いからそうたっていない頃に描かれたものと伝わる。
 マネはまだ30代、脂の乗った画家の姿である。まっすぐな視線を送る目の鋭さが印象的だ。今回の「マネ/ドガ」展にも出品された。
 マネはドガの肖像画を1点も描かなかったが、ドガはこの先輩画家の肖像画をいくつも手掛けている。
 この事実も、ふたりの関係性と、それぞれの個性を、象徴的に語っているように思われてならない。