タイトル

第58回 表

マネなくしてドガはなく、ドガなくしてマネはなし

作家 多胡吉郎

 まずは、ふたりの画家が描いた、それぞれの絵をとくとご覧いただきたい。ひとつは、マネによる「プラム」(1877頃 ワシントン・ナショナル・ギャラリー)。そして、いまひとつの作品は、ドガによる『カフェにて(アブサン)』(1875~6 オルセー美術館)――
 似たような時期に描かれ、場所もよく似た2作品だが、絵から受ける印象は相当に異なる。
 マネの絵の女性は、カフェにくつろぐパリジェンヌの姿を写したものだ。左手の指にはシガレット。右手は頬を支え、眼差しを遠くへ送る。ぼんやりと外の風景を窺うようにも、誰か待ち人を待つようにも見える。
 明るい陽射しが室内に満ち、白とピンクの女性の服装を爽やかに見せる。初夏のそよ風が似合いそうだ。テーブルに置かれたグラスの中のブランデー漬けのプラムが、花の都に暮らす女性の人生をほんのりと甘く演出する。
 ドガの絵の女性は、ひたすら暗く、不幸に沈んでいる。淪落の果て、社会の底辺にその日暮らしを送る絶望の女である。夢も希望もない。垢ぬけぬ脂粉と香水の匂いを撒き散らしつつ、安酒をあおるだけだ。
 同時代を生きたふたりの画家に、それぞれの絵が存在することは、承知していた。だが、まさか同じ女性をモデルに描いたとは、最近まで気がつかなかった。
 貴重な気づきを与えてくれたのは、パリのオルセーとニューヨークのメトロポリタンの両美術館で開かれた「マネ/ドガ」と題した展覧会である。オルセー美術館では、昨年の3月から7月まで、メトロポリタン美術館では、昨年11月から今年の1月まで開催された。
 大西洋を越えて共同で企画された展覧会は大評判をとったが、マネとドガ、両者の共通点と相違点を最も鮮やかに、象徴的に示してくれる例として、ふたつの絵が紹介されたのだった。
 さて、ふたつの絵でモデルをつとめたのは、エレン・アンドレという女優だった。1856年生まれというから、20歳そこそこで、ふたりの画家のモデルをつとめたことになる。ルノワールの有名な『舟遊びの人々の昼食』(1881)にも登場していた。
 マネの絵の中の彼女は、モデルとはいえ、その人らしさが表れているが、ドガの絵の方は、画家の思うままに女優に演じさせた結果であり、カフェでの写生風に見せながら、実はすべてドガの頭の中のイメージであった。
 私が面白く思うのは、通常頭に描くマネとドガのイメージが、一見、逆転して見えることである。
 マネはジャーナリスティックな社会派の一面をもち、紳士が裸体の娼婦とピクニックを楽しむ『草上の昼食』や、黒人メイドがかしづく娼館の女性を描いた『オランピア』など、社会が抱える偽善を鋭く批判する作品を描いた。
 ドガは、若いバレリーナたちを劇場やリハーサル室を舞台に繰り返し描き、華やかで、艶やかな世界を現出した。純白の薄いチュチュをまとったバレリーナたちは、夢幻の美を演出する妖精のようだった。
 もっとも、甘美な夢を追うばかりではなく、ドガはしばしば燕尾服姿の紳士を舞台袖やバレリーナの脇に立たせ、パトロンという美名のもとに行われる女性搾取にも目を向けた。このあたり、マネ譲りの社会批判の眼差しをも有していたのである。
 ドガは生涯独身だったが、どうも根っからのミソジニスト(女嫌い)だったらしい。『カフェにて』の女性の、どうしようもなさには、そうしたドガの性格も影響していよう。
 興味深いことに、マネはドガの絵を見て、同じ舞台、同じモデルで描くことを決めたと伝わる。微妙な対抗心がある。これじゃあ、あんまりエレンが可哀そうだと思ったのかもしれない。社会批判の目は鋭くとも、マネはいささか女性に甘いのである。
 マネが1883年に没した後、ドガは30年あまりも長生きをした。ドガはマネの作品を保持し、その評価の確立に努めている。
 マネなくしてドガはなく、ドガなくしてマネはなし……。この展覧会、日本に来ることはないのだろうか。