タイトル

第56回 表

日本趣味ジャポニスムの美神は愛妻カミーユ  〜モネの『ラ・ジャポネーゼ』~

作家 多胡吉郎

 初めてこの絵を見た時、「日本万歳!」とでも言うようなあからさまな日本趣味に目をみはると同時に、その作者が、水蓮の絵で知られるモネであることを知って、驚きを覚えた。ジヴェルニーの庭の池にかかる日本風の太鼓橋はもとより、モネのジャポニスム嗜好は承知していたものの、絵に溢れるあまりの「こてこて」ぶりに、いささかど肝を抜かれる気がしたのである。
 タイトルの『ラ・ジャポネーゼ』とはフランス語で「日本女性」のこと。多数の団扇の背景を前に、着物をはおり、手にもつ扇をかざしてと、日本的趣向は一目瞭然だ。同時に、女性は金髪で、西洋人であることもまた明白である。
 この絵はもともと、1876年、第2回印象派展に出品されたものだが、その時のオリジナル・タイトルは『ジャポネリー』だった。ジャポニスム隆盛下に生まれた新語で、「日本を真似た西洋の作品」という程度の意味であるという。本来は金髪でないモデル女性(後述)に敢えてブロンドのかつらをかぶせ、手にかざす扇は赤青白とフランス国旗の三色に染められるなど、日本的モチーフを借りつつ、ことさらに西洋をかぶせてくるのは、それ故だ。
 今流に言うなら「West meets East」を体現した美神誕生となる。しかも、絵は縦が約2メートル30センチ、横が1メートル42センチほどもあり、大画面を領する美神は、圧倒的なオーラをもって見る者に迫る。
 モネに、時代のイコンを描いて注目を浴びたいとする野心があったことは間違いない。貧しかったことから、話題を呼んで高く売れてほしいとの思惑もあったかに思われる。案の定、発表されるや、この絵はかなりの評判を呼んだ。だが、必ずしも好評ばかりではなかった。
 批判の中に、この絵が抱えるエロティックなイメージへの反発があった。打掛の着物の柄で、ひときわ目立つ野武士のような男が、刀に手をかけつつ、女性の腰回りに巻きついている。これが性的な暗喩であると見なされ、そういう視点からは女性の満面の笑みも、娼婦の媚態と映った。
 この手の批判にモネはたじろぎ、展覧会からこの絵を下げてしまったと伝わる。一見してジャポニスムの華という明白さを抱えつつ、その実、創作意図を含め、モネの真意はよくわからない。新たなヒントを与えてくれるのが、この絵のモデルだ。ジャポニスムの美神に扮したのは、画家の妻、カミーユ・ドンシューだった。
 商人の家に生まれたカミーユは、10代からモデルの仕事を始め、モネとは1865年に出会い、モデルをつとめるとともに、愛し合う関係となった。やがてモネの子を宿すが、モネの父は二人の仲を認めず、生活費を家から送ってもらうため、モネはカミーユをパリに残したまま、田舎の叔母の家に移り住む。カミーユは何の当てもないまま、1867年、長男のジャンを生んだ。その後もしばらくは隠し妻同然の身だったが、1870年になってようやく二人は結婚した。
 カミーユは、モネの売れない時代を支えてくれた、苦労多き糟糠の妻だった。モネのいくつかの絵でモデルをつとめたが、基本的にはいつも耐えるような表情をし、黒髪に憂いを沈めている。ところがこの『ラ・ジャポネーゼ』では、日本風に仮装したカミーユは、はちきれんばかりの笑みを浮かべている。苦労人の妻が、珍しく晴れ晴れとした幸福感を発散している。重苦しい現実からつかのま解放されて、非現実の夢の中に、会心の笑みを爆発させている。
 カミーユはこの後、1878年には次男のミシェルを生むが、病を得て、翌年には帰らぬ人となる。まだ32歳の若さだった。彼女の運命を知れば、この絵の天真爛漫ぶりも、はかなく、もの悲しく見えてくる。
絵の発表から40年後、画商からこの絵が高額で売れたことを言われたモネは、「市場を喜ばせるために描いたことを恥じている」と述べ、この絵は「がらくた(Bibelot)」だと断じたという。「Bibelot」という言葉は、本来「骨董品」を意味する。「がらくた」と恣意的に悪意を強めるより、亡妻の思い出を骨董品にたとえたと考えた方が自然に思える。そこに自嘲のニュアンスが絡むのは、糟糠の妻を若くして死なせてしまった後悔があるからだろう。
 声を大にして言おう。モネは水蓮のみにあらず。水連の絵を崇め奉っているだけでは、モネの真情は見えてこない。妻カミーユを軸にその画業を見つめ直すことも、新たなモネ像を切り開く道標となるに違いない。