第56回 奥

永遠のミューズ。モネの妻・カミーユ

作家 多胡吉郎

 モネは水蓮ばかりにあらずと、めず臆せず啖呵を切ったようになってしまったが、印象派の巨匠に対して、ドン・キホーテよろしく無鉄砲な闘いを挑みたいわけではない。ただ、モネの魅力は、水蓮とともに百万遍も繰り返されてきた決まり文句のような印象派論に留まらず、時にその枠を超えて輝くことを知ってもらいたいと思うばかりなのである。
 そのことを、最近改めて確信することになったのは、2023年10月から24年1月にかけて上野の森美術館で開かれた「モネ 連作の情景」展(2024年2月から5月には大阪中之島美術館で開催)に於いて、1枚の絵に出会ったからだった。
 『昼食』――、シュテゥーデル美術館の所蔵になる大ぶりの絵で、1868年から69年にかけて制作されたという。初期の、まだ印象派に目覚める前の作なだけに、水蓮の絵の作者の手になるとはにわかに信じられないほどに異質だが、何か強烈なインパクトを与える。
 一見すると、母と子が仲良く食事をする小市民的幸福を描いたようにも見えるが、詳しく見れば、そう単純な絵ではない。
 視線を交わし合う母子の間には情愛が溢れるが、父親の姿はなく、本来その姿が収まるべき椅子は空席である。画面左の椅子の下に、無造作に置かれた人形と風船が痛々しい。捨てられたようにさえ見える。給仕の女なのか、テーブルの奥、次の間との間に立つ女性は、目つきも冷たく、剣呑な感じがする。極めつけは、左側の窓に寄り添って立つ黒づくめの女性で、まるで葬儀場から現れたかのように、禍々しく恐ろし気だ。いたいけな母子を、魔の手が囲んでいるような気がする。
 この母子には、モデルとなる存在がいた。モネの妻カミーユと長男のジャンである。「妻」と書いたが、この時点では、モネの親の反対のために結婚できていない。未婚のまま、カミーユは1867年にジャンを出産。モネは親からの金目当てに田舎の叔母の家に暮らし、カミーユとジャンは、パリで半ば捨てられたも同然の身の上を余儀なくされた。
 モネとカミーユが晴れて結婚にこぎつけるのは、1870年になってのことである。つまり、この絵が制作された頃には、母子はまだ日陰の存在で、父親不在の不安定な暮らしを送っていたのである。経済的にも苦しかったはずだ。
 黒づくめの女性はベールで顔を覆っているが、その面立ちは、妻によく似ているともいわれる。だとするなら、黒服の女性は実際にそこに立つ生身の人物ではなく、画家の妄想の産物、死神幻想とでもいうべき存在となってくる。
 カミーユがこの絵が描かれてから約10年後の1879年には病のために夭折してしまうことを考えれば、まるでモネがカミーユの薄幸の運命を予知していたようにさえ思えてくる。つまりこの作品は、一見して何気ない母子の昼食の光景の奥に、運命の禍々しさと悲劇の予兆を秘めた「恐ろしい絵」だったのである。
 母子の幸福を願い、祈りつつも、男として、父としての自身の不甲斐なさの自覚が、恐怖の妄想を生むのだろうか。内面の葛藤を、モネは真っ向から画面にぶつけている。こうした世界を、初期のモネは描き得る画家だったのだ。
 1870年、モネはこの絵をパリのサロン展に出品するが落選。その後1874年になって、第1回印象派展に出品し直している。


 風景画の多いモネの作品中、人物の登場する絵としては、おそらく最も有名な絵になるだろう。『日傘をさす女』(1875)――
 印象派の大家がものした作としても、既成のイメージを裏切ることがないので、受け入れやすく、かつ現世や人生に対する肯定的なムードも人気を呼ぶ所以であろう。
 青空に白い雲が浮き、溢れる光を受けて、パラソルをさす白い服の女性が立つ。夏の陽射しは、黄色い花が咲き乱れる草地に女性の影を投げかける。風が女性のドレスやベールを撫で、いかにも心地よさげだ。女性のまとう純白の服が、絵全体の爽やかな雰囲気とよく調和して、いささか妖精然とした、清々しい夏の美神を生み出した。
 この絵に描かれた女性も、妻のカミーユがモデルだった。背後に上半身を覗かせる少年は、5歳になるジャンである。
 親の反対からなかなか結婚できなかったモネとカミーユだが、1870年には晴れて結婚し、この絵が描かれた頃には、幸福の確かな実感を手にしていたのだろう。
 カミーユに日本の着物を着せて描いた『ラ・ジャポネーゼ』とは同年の作になる。モネはまだ画家としての名声からは遠く、経済的には決して楽な生活ではなかったが、そうした身過ぎ世過ぎの困難を超えた充実を感じていたに違いない。
 モネがその道の巨匠としてやがて大成することになる印象派の画風が、カミーユに率いられるように、幸福な果実を結んだのである。
 『ラ・ジャポネーゼ』ではジャポニスムの華を体現したカミーユであることを思えば、彼女がモネのミューズであったことは間違いないであろう。
 この絵は、『ラ・ジャポネーゼ』ともども、1876年の第2回印象派展に出品されている。制作年も、出品の時と場所も一緒だったことを思えば、ふたつの絵は、モネにとってペアとなる作品たと言えるかと思う。
 それらが、ともにカミーユを描くことで成立したことは、もっと注目されてよいだろう。もとはモデル出身の妻である(マネやルノワールのモデルをつとめたこともある)がゆえに、貧乏画家がモデル料を払う必要もなしに、便利に使ったという次元の話ではない。
 カミーユは、モネにとってミューズそのものだったのである。


 ミューズなるがゆえにというべきか、いささか訳ありげなカミーユの絵もある。
 『赤い頭巾、モネ夫人の肖像』――。制作年を1873年とする例もあるが、絵を所蔵するクリーブランド美術館では、1868年~73年と幅をもたせている。
 通常、この絵に関して言われることは、室内と雪の降る外の光や空気感の差に注目した画家が、その微妙なニュアンスの違いを見事に描き分けたと、あくまでも印象派の画家としての観点から語られる。モネが生涯この絵を手元に置いたことも付言されるが、その意味は深くは追及されない。
 確かに、左右にレースのカーテンがしつらえられたガラス戸の内側と、その向こう側、雪の降りしきる戸外では、寒暖の温度差はもとより、対照の際立つ世界が描き分けられる。銀世界に立つカミーユのかぶる頭巾の鮮やかな赤や、白の絵の具を点々と置いた雪の描き方など、描写法も斬新だ。
 しかし、この絵で、最も見る者の目を射るのは、赤頭巾をかぶったカミーユの、こちらを向き、憂いに満ちた眼差しで語りかけるような表情であろう。ひとり、雪の降る戸外に立ちすくみ、室内にいる夫のモネに、どうして助けてはくださらないの、何故あたたかな室内に入れてはくれないのと、訴えかけているように見える。
 この絵を、1873年作としてしまうと、この訴えの真意は聞こえてこないかもしれない。これはやはり、ジャンを産んでなお、日陰の存在を余儀なくされた妻に対する、モネの悔悟が反映した絵なのだと思う。つまり、絵の完成した時はともあれ、絵の生まれた動機や背景に、結婚にこぎつける前の不安定な状態が淵源となっているように思うのである。
 仮にだが、想像してみよう、雪の日の室内外の対比を面白く感じた画家が、敢てカミーユに色鮮やかな赤頭巾をかぶせ、長時間にわたって雪の戸外に立たせたのだとしたら、モネの妻に寄せる「愛」には、サディスティックな感情さえからむことになる。
 モネがこの絵を生涯手元に置いたというのも、単なる愛妻への変わらぬ慕情というだけでなく、そこに、悔やんでも悔やみきれぬ、自責を伴う悔恨が根を張るからだったのではないだろうか。
 結婚前の不甲斐なくも身勝手な振舞いに加え、この先、32歳の若さで妻を逝かせてしまったという事実が、モネには生涯にわたって心の重しになっていたように思うのである。


 1878年に次男のミシェルを産んだカミーユは、産後の病がもとで、翌年には世を去ることになる。この時のモネのとった行動が、また尋常ならず、凄い。
 死の床のカミーユをスケッチし、それをもとに油絵を仕上げるのである。『死に際のカミーユ』(1879)という作品がそれだ。
 この絵については、究極の夫婦愛などと語られることもあるが、画家とモデルのサドマゾ的関係の極致ともとれる。モネの多くの絵でモデルをつとめてきたカミーユは、死に際しても、モデルとなったのだ。
 夫婦愛などという常套的美辞を寄せるよりも、芥川龍之介が小説にした『地獄変』に見られるごとく、画家の宿業と見る方が正しかろう。
 しかも、モネにはカミーユが患って以降、問題行動もあった。モネは1878年にセーヌ河畔のヴェトゥイユの家に移るが、そこでは実業家で美術コレクターのオシュデ夫妻と共同生活を送った。
 パリの百貨店を経営し、モネのパトロンでもあったエルネスト・オシュデは、1877年に破産すると、家族ぐるみの交際があったモネ一家のもとに身を寄せたのである。
 だが、カミーユが患って以降、モネはオシュデ夫人のアリスと深い関係となり、エルネストは家を出、そうしたことがカミーユの病状をさらに悪化もさせた。
 1879年にカミーユが死去すると、その後は、アリスが実質的にモネのマネージャー兼夫人の役割をつとめるようになる。1883年にはアリスとその子供たちを伴い、ジヴェルニーに転居、終の棲家に暮らし始めた。1891年にエルネストが亡くなり、モネとアリスは結婚した。ややこしいことに、1897年には、カミーユとの間の長男ジャンが、アリスの娘のブランシュと結婚している。
 カミーユと違い、アリスはモネのモデルはつとめなかった。しかし、社交的で人脈ももっていたため、モネの絵の売り出しには強い力を発揮した。印象派の巨匠として、モネの名が世に広く知られるようになるのは、それからである。
 カミーユの死後、モネは1886年になって、『日傘をさす女』というタイトルで、同工異曲の絵をふたつ描いている。
 純白の服に身を包み、緑色のパラソルをさした姿は、生前のカミーユを描いた絵と同じだが、死後の絵には、顔の表情が描かれていない。のっぺらぼうの幽霊のごとくである。
 モデルはアリスの娘のシュザンヌがつとめたというが、モネの胸中では、カミーユを追慕する思いから筆を執ったのに違いなく、その意味では、カミーユの亡霊を描いたとも言えるだろう。
 カミーユは生前も、臨終の時も、そして死後さえも、モネのモデルをつとめ、ミューズとなったのである。
 このことを知ると、モネが晩年、ジヴェルニーの池の水蓮を繰り返し描いたのも、水面に展開する光の多彩な無言劇に感動し、その印象を画布にとらえることに意欲を燃やしたこともさることながら、その心模様の底流には、常に夭折した糟糠の妻カミーユに対する喪失感や贖罪感が渦をなしていたのではないかと思えてくる。
 カミーユを忘れることのできない思慕の情と、愛妻を若くして逝かせてしまったことへの悔悟の念とが、画家の胸に埋め戻せぬ穴を穿ち、池の水蓮を眺めることで辛うじて慰藉されていたという部分もあったのではないだろうか。
 光の画家、印象派の大家として称揚されるモネだが、カミーユへの思いを軸に、その画業と人生をとらえ直すことが求められているように思えてならない。
 モネは水蓮ばかりにあらずと、先に声を大にしてもの申したが、モネが水蓮ばかりを描くに至った心の軌跡を、もうひとつ別の観点から、大局的に追ってしかるべきだと信じてやまないのである。


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