第54回 表

戦争への嘆き、怒り、痛み、そして祈り。  〜ルオーの版画『ミセレーレ』シリーズ~

作家 多胡吉郎

 マティスを見続けているうちに、その反動のように、この人の絵が見たくなった。ジョルジュ・ルオー(1871~1958)。同時代に生き、しかも個人としても近しい関係であったにもかかわらず、実に対照的なふたりの絵だ。
 片や、抽象画ではないものの、誰が見ても20世紀の絵だ。片や、全く知識を持たぬ人が見た場合、中世の絵ではないかと誤解しかねない世界が描かれる。マティスの感覚的なきらめきに対し、ルオーは精神的で内省的。キリストが描かれるような宗教的テーマも多い。東京のパナソニック汐留美術館は、殆どルオー美術館と言えるほどに、多数のルオー作品を所蔵する。ちょうど、開館20周年記念展としてルオーの特別展が開催中だったので、足を運んだ。
 ルオーの特徴のひとつに、黒の多用がある。多彩な色使いをもつ絵画であっても、人体の輪郭や目鼻立ちなどに、太い黒の線が用いられる。しかも、単に輪郭線の強調ではなく、黒に主張がある。どこか、墨絵のようにも感じる、この画家は黒を知っているなと、いつも唸らされる。
 パナソニック汐留美術館には、既に何度か訪れている。そのたびに、ルオーを堪能する。街に溢れる「アート」とは質を異にする「芸術」に出会った気になる。美術が視覚の興奮に留まらず、魂の感動に至るものであることを思い知らされる。
 その日も、ルオー展の会場に足を踏み入れた瞬間から、ルオー・マジックが心をひたし始めた。ところが、あるコーナーの前に立つや、これまでのルオー体験とは異なる衝撃が全身を貫いた。まぎれもないルオーの作品でありながら、いつものルオーとは異なる、強烈な社会的テーマ性に打ちのめされたのだ。
 『ミセレーレ』シリーズ。すべてモノクロによる銅版画である。1912年から15年間にわたって制作され、全部で58点ある。2部構成をとり、父の死をきっかけに始められた前半は文字通りの「ミセレーレ(ラテン語で「憐れみたまえ」の意)」がテーマ。1914年、第1次世界大戦が始まって以降の後半は、「戦争」をテーマにする。
 それらの戦争をテーマにした作品群が、まさに時宜を得たというか、今のウクライナ戦争と響きあって、強烈なオーラを発する。ルオーの心を襲った衝撃や苦痛が、見る者の心を鷲づかみにしてやまないのだ。
 ここにとりあげた2点の作品は、『ミセレーレ』シリーズの34と42にあたる。34は戦争をテーマに展開するシリーズ後半の扉絵となるもので、『廃墟すら滅びたり』と題される。最上部に掲げられた「GUERRE」の文字は、フランス語で「戦争ゲール」を表す。そのすぐ下に光輪に包まれたイエス、その下にはやつれ果てた兵士が描かれる。
 人々の罪を一身に背負うように自らを犠牲にしたイエスは、その後2千年近い歳月を経て、なおも破壊と殺戮を繰り返す人間の愚かさを、どのように見つめるのだろうか……。イエスの慈悲は、戦場に疲弊し、斃れる個々の兵士の悲劇にまで及ばないのだろうか……。出口のない煩悶が渦を巻く。
 42は、『母親に忌み嫌われる戦争』と題される。聖母子をも思わせる母と子。子を抱きとめつつ、憂いに目を伏せた母の哀しみが胸を打つ。戦争など、母の愛にとっては最も忌み嫌われる愚行蛮行でしかない。
 作品には、硝煙が吹きあがる戦場を描いたものや、骸骨やしゃれこうべが登場するおどろおどろしいものもあるが、凄惨な死の現場を描いたものよりも、悲劇を前に苦悩するイエスや、子を前にうなだれる母の哀しみを描いた静かな作品の方に、私はより惹かれる。嘆き、怒り、痛み……祈ることしかできないルオーの苦悶が、世紀を貫き、現代人の心に共振してやまないのだ。
 黒を知り尽くした画家の手がけた極限のモノクロの世界――。人間の野蛮や残酷さ、愚かさを前に、色彩は吹き飛んでしまうのかもしれない。黒の濃淡のみで構築された世界の奥に、光をこいねがう気持ちの切実さが波のように揺れている。

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