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第52回 表

東アジアの激動に揉まれて  〜陳澄波、悲劇の画家の目ざしたもの~

作家 多胡吉郎

 コロナ前に訪ねた台湾旅行で、嘉義駅から阿里山に向かう登山列車に乗った。嘉義は台湾中部の町だが、その名を聞いて、1931年の夏の甲子園大会で準優勝を飾った嘉義農林を想起する人もいることだろう(『KANO』という映画にもなった)。
 乗車の前、駅前の広場に立つと、日本敗戦から2年後に起きた悲劇が胸に迫った。才能豊かなひとりの画家が、罪なき罪によって、そこで無残にも銃殺刑に処せられたからだ。
陳澄波ちんちょうは(1895~1947)――。日本統治下の台湾に育ち、1924年、30歳にして上京、東京美術学校に学んだ。美術学校3年生の時、故郷・嘉義を描いた風景画により、台湾人として初めて帝展に入選、早くも才能を世に認めさせた。
 陳はゴッホに憧れ、自分は台湾のゴッホになるのだと、夢を語っていたという。美術学校の卒業前に描かれた自画像が残されているが、背景をひまわりの花で埋めるなど、一見してゴッホの影響は明らかだ。
 自画像の中の陳は、まなこを見開き、唇を結んで、きりりとした表情の内に、純な意志の力をみなぎらせている。ゴッホから受けた影響は、絵画技法に留まらず、その道ひと筋に突き進む熾烈な生き方でもあったのだろう。東京という異郷の大都会にあって、陳のひたむきさは、己への眼差しを研ぎ澄ませ、問いかけを深くしてゆく。自分は何者なのか、自分の絵はどこに根をもち、いずこへと幹を伸ばし、枝を広げてゆくのか……。
 東京美術学校を卒業した陳は、1929年、上海に向かう。美術学校で洋画を教えながら、中国の絵画伝統に触れ、元末の倪雲林げいうんりんや明末から清初の八大山人はちだいさんじんといった画家の作品に親しんだ。華人としての意識の洗礼であったことは間違いなかろう。
 長い旅路を経て、1933年に台湾に戻った陳が、好んで描いた場所があった。北辺の港町、淡水である。ここで彼は12点の風景画を描いたが、独自の世界が満を持して花開いた感がある。『淡水夕照』(1935)はその中の代表作。屋根をそ反らせた風土色の濃い家々――、屋根は赤茶色、壁は白く、木々の緑とのコントラストが鮮やかだ。台湾土着の素材を、洋画の筆がダイナミックに描いている。
 彼方に洋風の砦の跡が望まれ、手前に尖塔の聳える教会が見えるのは、この街がかつてオランダ人によって拓かれ、後にはイギリス人も居住するなど、古くから東西の出会いの地であったことを物語る。広がる海の描き方には、どこか日本的な味わいも感じる。陳の辿った東アジア各所での研鑽が、クレオールのような混合的魅力を発光させながら、台湾の美を描ききっているのだ。
 1945年、日本の敗戦により、台湾は中国に復することになった。「祖国」復帰を、陳は歓迎した。だが、台湾に進出した国民党の為政者たちは、「旧日本人」に対し冷たかった。期待を裏切られた台湾人の間に新たな支配者への失望と反発が広まり、1947年2月28日、全島的な抵抗運動へと発展した。
 嘉義にもその波が押し寄せた時、中国滞在の経験もある陳は、現地住民との間の仲介者になろうとした。だが、問答無用で逮捕され、3月25日に、嘉義駅前で公開銃殺された。作品は当局によって禁じられ、未亡人は陳の絵を額から外し、屋根裏に隠して守り抜いたという。
 画家・陳澄波が復活するのは、1990年代、李登輝総統の時代に進められた民主化によってだった。今では、台湾モダニズムの先駆者として高く評価され、嘉義の街には、陳の作品パネルが各所に飾られている。昨年には、全18巻に及ぶ『陳澄波全集』も出版された。陳は不死鳥のように蘇ったのである。
 台湾のゴッホを目指した陳澄波の模索の旅路――それは、悲劇的最期も含め、台湾のアイデンティティの歴史そのものである。まだ日本では知る人が少ないが、これから注目を集めることだろう。その画業が日本との懸け橋にもなるに違いない。52年に及んだ人生のうち、最後の2年を除いた50年間は、「日本国民」として生きた陳なのであるから……。