第52回 奥

画家・陳澄波の旅路。かく生き、かく描きたり。

作家 多胡吉郎

 1937年(昭和12年)に台湾新民報社が出した『台湾人士鑑』は、当時台湾で活躍した名士たちを、日本人、台湾人の区別なく掲載した一種の「紳士録」だが、この本に陳澄波が載っており、その時点での彼の経歴が詳述されている。
 「明治二十八年」(1895)2月2日、嘉義での出生に始まる前半生の記録な訳だが、東京に留学するに至る経緯を次のように書いている。国語学校師範部を卒業後、「嘉義公学校、水上公学校、湖子内分校等訓導ニ歴任シ 其ノ間生来ノ画才ニ加ヘテ日夜洋画ニ精進シタルモ勃々タル向上心抑ヘ難ク竟ニ職ヲ辞シテ上京セリ」――
 なるほど、台湾のゴッホになると決心した陳の若き日の姿を彷彿とさせる。絵画への情熱は傍目にも明らかすぎるほどに明らかだったということだろう。「勃々タル向上心抑ヘ難ク」というくだりが、胸に突き刺さる。
 精進の甲斐あって、1926年には油絵で故郷の街を描いた『嘉義街外』(嘉義の街外れ)が帝展に台湾人として初の入選を果たす。この時の入選作は、今では散逸してしまっているが、翌年、同じタイトルで描いた作品が再び帝展に入選し、こちらは現存している。
 『嘉義街外』(1927頃)――。まっすぐに伸びた白い道が印象的な絵だ。白く見えるのは南国の燦々たる陽射しを浴びているからだろう。道を歩く住民たちも描かれているが、まるで大型車両が通るのをよけるかのように、道の左右の脇を往き来する。なので、人々の印象は弱い。
 代わって目を引くのが、道に沿って並び立つ電信柱だ。近代の象徴であるかのような電信柱は、植民地台湾をべる律法のようなものだったろうか。電気とともに、日本の敷いた文明が全島を駆け巡る。人々の印象が薄いのも、日本統治下にあって「主役」にはなれないからなのか……。
 だが、絵全体としては、いかにも長閑、平和なのである。少しも暗さがない。ただ、南国の明るく、光溢れた世界に、不思議なアンニュイが漂う。それはうだるような暑さのせいばかりではないのだろう。
 幾層にも時代層社会層を抱えて街は呼吸する。その真中を貫いて伸びるひと筋の道は、画家自身の人生への覚悟なのであろうか……。
 同じ1927年に描かれた『夏日街景』も、故郷嘉義を描いた作品だが、私の眼には帝展入選作以上の力作に映る。
 この絵も、夏の陽射しを浴びた街の風景だ。中央に電信柱を配する大胆な構図がまずは目を引く。道はロータリーのような広場に続き、前面には、左側に母と子、右側に少女の姿がある。日傘をさしているのがモダンだ。少年の麦わら帽子も時代の風俗であろう。そして、皆が後ろ姿であるのが、不思議な感覚を生む。
 ロータリーを囲む豊かな緑を縫うように、ベンチなどに腰かけて憩う人々の姿も散見される。その奥にはところどころ、西洋風の近代建築も遠望される。画面右端には鉄塔も描かれる。
 時が静止したような静かな風景だが、そこに近代が時を刻んでもいるのだ。嘉義は決して大都会ではないが、ここにもモダンライフは浸透してきている。
 いくつもの要素がごった煮のようにひとつに交じり合い、それなりにおさまりを見せている。大日本帝国の一隅を生きる嘉義。クレオールとしての台湾が、まさにここに時を重ね、静かな鼓動を響かせている。


 『台湾人士鑑』は1937年の発行なので、東京の美術学校を卒業した陳が上海に向かったことにも触れている。
 「昭和四年春新華芸術大学及昌明芸術専科学校ノ太西画主任トシテ奉職シ 傍ラ上海芸苑教授ヲ兼ネタルコトアリ」 ――この記載からは、当時、日本統治下にあっても、台湾人画家が上海に渡り、そこで教えることが、タブーではなかったことが窺われる。
 陳が上海で中国画の伝統に触れたことは先にも述べた通りだが、当然ながら、自身の作品にも大陸を舞台にしたものが現れた。1929年、上海に渡った年に描かれた『清流』(『西湖断橋残雪』)では、湖水にかかる太鼓橋や湖面に浮く舟がいかにも中国風で、陳が母の懐に抱かれたかのようなぬくみの中にいることを伺わせる。西湖は杭州西郊にある湖だが、白居易が詩に詠むなど、昔からの景勝地であった。
 それでも熟視すれば、ここにも電信柱が橋の背後に並んでおり、また洋館風の建物も散見される。陳の関心は、あくまでも現代の風景としての西湖にあるらしい。それゆえであろうか、風景の処々に、人の姿もある。ただし、後ろ姿で表情は見えない。冬景色のなか、背を丸めながら、何かを耐えるようにして、そこにいる。
 上海滞在中に、自身の家族を描いた自画像の延長のような作品も生まれた。『我的家庭』(『私の家庭』)――、1931年の完成とされる。
 ユニークな絵であると思う。家族の描き方が、どこかフォークロア調を帯び、私は初めにこの絵を知った時、1930年代初頭に藤田嗣治がフランスを離れ、中南米を訪れて描いた人物画に似ているように感じてならなかった。洋画でありつつ、西洋画の正統を抜け出そうとする意識を強く感じる。画面左端の陳自身の姿は、ボヘミアンというか、極めて無国籍風だ。
 ミステリアスな要素もある。家族たちの影は顔の左側にあり、光源は画面の右にあるように思われるのだが、彼ひとり、影を右側に抱える。家族一緒にテーブルを囲んだ和みやぬくもりもあるには違いないが、どこか不安で厳しいものが奇妙な影となって重なり合う。家族たちの表情も、何かに驚いたかのように、まなこを見開いている。
 テーブルに置かれた本も意味深長だ。画面左手前に置かれた本には、日本語で『プロレタリア絵画論』というタイトルが記されている。永田一脩によって書かれ、1930年に出たばかりの本であった。台湾からも、日本からも離れた上海という中国の大都会で、陳はこのような本にも接していたのである。
 先祖返りのように中国の伝統に回帰するだけでなく、陳にとって上海は自由な異郷の地として、自らを振り返り、その足元を確かめる、鏡のような場所になったように思われる。


 1932年に上海事変が勃発したのを機に、陳は翌年には故国台湾へ戻った。台湾北部の港町・淡水の風景を好んで描いたのは、上海から帰国して後、1935年前後のことだ。
 先に紹介した『淡水夕照』と同じく、1935年に描かれた『淡水風景』――。緑の木立を所々に抱えながら、にょきにょきと並びたつ赤いレンガ屋根の家々。反り返る屋根のつらなりは、鳥の群れが羽を広げたように動的で、歓びの讃歌でも踊るように、活き活きとしている。
 その闊達さは、ふるさとを見つめ直す、台湾再発見につながるものだったろう。4年近くに及んだ大陸での日々を経て、故国へ戻ってみると、そこには、中華の流れをくむ赤レンガの建物があり、かつ洋風建築もあって、それらが等しく陽光を浴び、緑や海とも響き合って、独自の調和をつくりだしていた。
 さまざまな潮流が混ざり合い、融合してひとつ時を刻んでいる。その多層なさまが互いに響き合い、奏で合う重奏こそが、他でもない、故郷・台湾のうたなのだ。その詩を、ポエジーを、画布にとらえることが、画家・陳澄波の道なのである。
 『淡水夕照』と『淡水風景』が、ともに水を得た魚のように活き活きとし、また堂々と自信に溢れて見えるのは、長い旅路の果てに陳自身が行き着いた意識の熟成や悟達があったからに違いない。
 例の『台湾人士鑑』では、台湾に戻って以降の陳について、「現在ハ専ラ同志ト相謀リテ台陽美術協会ヲ組織シ以テ相互ニ画道ニ精進シ毎年一回島内各地ニ移動展ヲスルコトトセリ」と、その活躍ぶりを伝えている。
 台陽美術協会は、1934年に陳澄波ら台湾人画家らによって設立された。民族主義的な傾向をもちつつも、台湾生まれの日本人画家・立石鐡臣をもメンバーに加えるなど、決して閉鎖的な集団ではなかった。「種まき」を自覚しつつ、台湾各地で巡回展を開くなど積極的な活動を展開、台湾での美術振興につとめた。陳はその主要メンバーだった。
 淡水を描いた作品で見せた成熟と充実は、故郷の街・嘉義を描く作品にも現れた。1934年に描かれた『嘉義街中心』――。例によって白い道があり、電信柱が連なり、緑の樹木があり、家々があり、人々がいる。
 ここでも、多層性=クレオール性を確認することはたやすい。中央左手の店の看板には、日本語で「高砂生ビール」とある。1919年に日本の業者によって設立された高砂エール株式会社の醸造になるビールは、当時「高砂生ビール」と呼ばれ、その名で販売されていた。
 後世の眼からすれば、歴史の証言となる、そうした時代風俗をも視界に含めつつ、陳は生まれ故郷のまごうかたなき現実を活写する。
 とはいえ、絵が湛える世界は、相変わらずの、何ということもない日常の一風景、静かな午後の陽だまりに息をする長閑な街の姿である。しかし、この絵が描き出す街は、帝展入選の頃の嘉義を描いた作品とは微妙に異なる。
 道はなおも溢れる陽光に白く輝くが、そこに立ち現れた人々は、後ろ姿だけでない。前を向き歩いてくる人々もいる。屋台があり、物売りの人たちもいる。親に手をひかれた子供たちも姿を見せる。犬までが遊弋ゆうよくする。街のロータリー広場の中央には噴水もある。広場の角では、客待ちの人力車が並んでいる。
 つつましく穏やかな世界に、どこか祝祭的気分が漂う。バラエティに富んだ色彩が、豊かなハーモニーを紡ぐ。土地の言葉が飛び交い、土臭い微笑みを交わし合うようなぬくもりが、街を覆うのだ。それは、ヒューマニズムに裏打ちされた生命いのちあるものへの愛でもあるのだろう。
 この絵を凝視しているうちに、私は、『恋恋風塵』や『悲情城市』などで知られた台湾の映画監督、侯孝賢ホウ・シャオシエンの作品の一景を見るような気分になってきた。波風のたたない、一見した平凡さの装いの奥に、非凡さが輝くのである。
 社会の仕組み、政治体制がどうであれ、今日という日、今という時間を、懸命に生きるしかない人々を、陳は深い愛情をもって見つめている。その眼差しのやさしさは、この人の天性の資質でもあろうが、東京から上海へと続いた長い旅路によって磨かれ、深められたことは間違いないだろう。


 1945年8月15日、台湾でも終戦の詔勅を告げる玉音放送が流れた。敗戦した日本はポツダム宣言を受け入れ、結果として台湾は日本統治を離れ、中華民国の統治下に入った。
 『慶祝日』(1946)は、日本統治から解放された嘉義の様子を描いた作品である。嘉義警察署の屋上に中華民国国旗である青天白日旗が翻り、人々はそのさまを仰ぎ見る。台湾は一度も中華民国になったことはなかったが(台湾が日本に割譲された時、中国はまだ清国だった)、台湾人の多くは「祖国」復帰を喜んだ。
 だが、ほどなく国民党政府軍が台湾に上陸するに及んで、人々の喜びはたちまち萎み、失望へと変わった。新たな為政者たちが粗野で、台湾人に対し横暴を極めたからだった。
 失望はやがて怒りへと転じ、1947年2月28日、タバコ売りの婦人が官憲に殴打されたのを機に、全島的な抵抗運動に発展した。陳はこの時、嘉義の市会議員をつとめていたが、大陸経験もあることから、民衆との仲介役を買って出ようとした。だが、他の知識人人士たちとともに即座に逮捕され、裁判にもかけられぬまま、3月25日、嘉義駅前で公開銃殺されてしまったのである。
 陳の絵も危機に晒された。未亡人はすべての絵を額から外し、額を火にくべた。絵は束ねられ、官憲の目を逃れて屋根裏部屋に隠された。今ある陳の絵は、未亡人の機転によって守られたものなのである。
 台湾から東京、そして上海を経て再び台湾へと、旅路とともに熟成を重ねた陳澄波の画業は、東アジアの激動の嵐に揉みしだかれた挙句、政治の暴力によって踏みつぶされてしまった。
 しかし、やがて台湾が独裁政治を脱し、李登輝総統時代に民主主義が社会に定着するにつれて、陳は復活を果たす。今日、台湾人のたどった運命の象徴的な存在として、アイデンティティの確認の意味からも、画家・陳澄波はますます評価を高めつつある。
 中国(大陸)でも、陳澄波の作品は受け入れられている。2007年に香港で開かれたオークションでは、『淡水夕照』(1935)が台湾人画家の手になる油絵作品としては過去最高の値がつき(2億台湾元=7億4400万円強)、大いに話題を呼んだ。近代が生んだ中華圏最大の芸術家の傑作として認知されたのである。
 日本から、陳澄波再発見の報がもたらされもした。2015年、山口県の防府市立図書館の倉庫から、陳の描いた『東台湾臨海道路』という作品が「発見」されたのである。
 これはもともと、第11代台湾総督であった上山満之進(任期は1926年から28年)が、退任にあたって陳に作品を依頼し、1930年に制作されたものである。完成した絵は上山に届けられ、上山没後の1941年に、遺族から故郷の防府市に寄贈された。
 2015年の「発見」の報せを受けて、台湾から画家の孫にあたる陳立栢氏が来日、真作であることを確認した。陳家ではこの絵は長くモノクロ写真だけが残されていて、完成作品の所在が分からなかったというが、ようやく実物のありかが明らかになったのである。2021年には台湾に「里帰り」して、国立台北教育大北師美術館で3か月間、公開展示された。
 『東台湾臨海道路』に描かれたのは、台湾の東海岸、花蓮付近の景色である。湾を囲むように突き出た岬は、ごつごつと盛り上がりうねりを重ねた形状も、海に向かって滝のようになだれ落ちる豊かな緑の流れも、実に力強く印象的だ。
 空の青、雲の白を映して深々と湛えられた海には、漁をする小舟が一艘浮いている。画面左手の手前には、道行く人の姿もある。この地域では多くが暮らすタイヤル族の親子である。作品を依頼した上山は、当時「高砂族」と呼ばれた先住民族たちへの関心が高かったので、描きこまれたとも言われる。額もまた、先住民の伝統模様をあしらったユニークなものだ。
 台湾のもつ多層性を考える時、これら先住民たちの存在を忘れるわけにはいかない。陳の描く絵に於いても、またひとつ、新たな、そして最古の層を獲得したことになる。
 クレオール性は、今に至るまで、台湾が歴史的結果として維持する特徴である。台湾の画家、陳澄波もまた、その宿命的性格を意識し、画布に展開させた。
 没後76年――、その最期はいかにも悲劇的であったが、奇跡のように残され、伝えられた作品群を、台湾、日本、中国(大陸)というトライアングルの中からとらえ直す試みが続けられている。
 時代に揉まれつつも、真摯に、そして純粋におのれの絵を磨き続け、画業を積み上げたひとりの芸術家の軌跡を、皮相な政治的次元、そして国という概念をすら超えて、文化と人間の次元で把握することが求められているのである。


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