第51回 表

哀しくもいとおしき街  〜シーレの描いたクルマウ~

作家 多胡吉郎

 人間の内面まで暴き出すかのような赤裸々な裸体画のイメージが濃いエゴン・シーレ(1890~1918)――。だが、実はシーレは風景画もよく描いた画家だった。
 最も多く描いたのは、モルダウ川沿いのクルマウの街。当時はウィーンに都をおくハプスブルク帝国の領内であったが、今はチェコの南ボヘミアに属し、チェスキー・クルムロフと呼ばれている。この町はシーレの母の故郷で、そのためもあり、1910年に初めて訪れて以降、シーレは数次にわたって足を運んだ。
 1911年、シーレはモデルのヴァリー・ノイツェルと出会って意気投合し、クルマウに移り住んで同棲を始める。だが、放縦な彼らのライフスタイルは保守的なクルマウの人々から歓迎されず、少女を家に引き入れて裸体画を描くことなどへの反発が強まった。結局、彼らはクルマウでの暮らしを放棄せざるを得なくなるが、その後も、シーレはこの町を好んで訪れ、城山から俯瞰した対岸の街の景色を描き続けた。
 『クルマウ、三日月型の家々 Ⅱ(島の街)』(1915 レオポルド美術館)は、シーレが描いたクルマウの風景画のなかでもよく知られた作。湾曲するモルダウ川に囲まれ、孤島のように浮き上がる街の風景は、シーレの定点観測と言えるほどに、しばしば画面に登場した。
 「三日月型の家々」とタイトルにはあるが、島のような街区の家々が三日月型に連なり、押し合いへし合いするように櫛比しっぴするさまは、フォルムとしても画家の関心を惹いたのだろう。シーレは、キュビズムを思わせる手法を用いて、積み木か箱を重ねたように街を描いている。
 だが、シーレのクルマウの絵は、物体(姿)としての景色に惹かれ、それを写そうという意図だけによって生まれたものではなかった。シーレは孤独な自分の心象風景を、家々の造形に重ねて描いていたのである。
 リアリズムの比較で見れば、シーレの省略も明らかになる。例えば、対岸にたつ教会堂をシーレは描いていない。また、川をまたぐ橋も無視している。U字型に曲がった川の流れがぐるりと家々を囲み、あたかも孤島であるかのように隔絶させるには、橋などは邪魔なだけだったろう。
 シーレの描いたクルマウの絵のすべてに言えることだが、その風景には、いっさい人が登場しない。通行人も、窓辺に顔を出す人も、犬や猫さえ、全くの不在である。もぬけの殻のような、死んだ街のような建物群だけが描かれる。
 ただ、手前の通りに面した家には、部屋のウィンドウを開けているところがある。人の気配はそれなりにあるのだ。別の絵では、洗濯物が干されていたりもする。
 シーレは裸体をよく描いたが、それは「nude」ではなく「naked」なのだと、海外のサイトでそのような評を見て大いに納得したことがある。自画像も裸が多いが、うわべの衣装をはぎとり、いっさいの虚飾を排して自己の内面を鋭く凝視する姿勢が顕著だ。風景を見つめるシーレの眼差しも、一貫しているかに思われる。つまり、この町も「naked」なのだ。
 町にも、衣装のようにまとうものがある。市場や郵便局、レストランにカフェ、酒場……。人々の暮らしは、この箱庭のような小街区にも、日々の所行を繰り返し、喜怒哀楽を折り重ねている。
 シーレの絵画においては、人々の営み――、あからさまに言えば、人間の欲望や駆け引き、さや当て、誘惑に騙し合いなど、それらが裸にされ、剔抉てっけつ濾過ろかされて、抜け殻のような建物群だけに凝縮される。シーレの心が虚ろであるのを反映して、街もまた、虚ろにたたずむしかない。
 それでも、この絵には様々な色がある。街路樹は色づき、川沿いに生命の息吹を重ねている。クルマウを描いたシーレの絵には、モノトーンの作品もあるが、この『島の街』では暖色系の色どりも多く、生と死が互いにせめぎ合い、晩秋の日を浴びて最後の輝きのなかにたたずむ感がある。
 この絵を描いたシーレは25歳――。若さの盛りにあっても、精神世界としては、既に「晩年」を生きていた。若くして「晩年」を知ってしまった芸術家の、孤独や嘆き、絶望の奥に、人恋しさや憧れ、希望が、まるで地球最後の日を迎える朝のように、漂い、揺れている。

▲ 第51回「奥」を読む