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第5回 表 マグリットは「禅」である!

作家 多胡吉郎

 30年近くも前になるが、「日曜美術館」(NHK)の制作班にいたことがある。若手ディレクターとして最初に登板し採りあげたのが、ベルギーのシュールレアリスム画家、ルネ・マグリットだった。スタジオゲストとして、グラフィック・デザイナーの福田繁雄氏にご登場願った。氏のマグリット理解が何とも新鮮で小気味よかった。
 それは、コミュニケーションする画家ということだった。絵を見る者に驚きを与え、「どうなっているの?」と問わしめる。人は謎かけを挑まれたごとくに、「ひょっとして、こういうこと?」と、独自に答え探しを始める。コミュニケーションの誕生だ。福田氏からは「トロンプ・ルイユ」という言葉も教わった。「だまし絵」――。福田氏自身が得意とする手法でもあり、マグリットもその系譜に連なる。現代のポップアートへの影響も計り知れないと教わった。
 その後、ポスターやテレビ・コマーシャルでマグリット的発想を目にするたびに、福田氏の言葉を思い返した。コンピュータによるデジタル合成技術が容易になると、マグリットが絵筆でなしたことはますます日常化した。山高帽の男が何人となく空に浮くようなことは、デジタル技術なら難なく可能なのだ。マグリットはまさしくデジタル・アートの先駆者だったのだと納得した。
 この4月、国立新美術館で開催中のマグリット展に足を運んだ。久しぶりに対面したマグリットは、実に新鮮に、かつ根源的な問いかけをもって迫ってきた。まさに「目からうろこ」であった。福田氏の卓見のみに引きずられ、私のマグリット理解は長い間、事実上の思考停止に陥っていたのだった。
 『ガリヴァ―旅行記』を著したスウィフトの言葉に、「ヴィジョンとは、見えないものを見ることだ」というものがある。いかにも、マグリットこそはヴィジョンの人だと感じた。習慣化した眼差しでは見えてこないものを、つまり表層からは隠れた本質を、剔抉して開陳する。専門用語では「デペイズマン」と呼ばれる。「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい」と綴ったロートレアモン伯爵の詩が原拠となった手法だが、元来はあり得ない組み合わせや、ある物を本来の場から移すことによって衝撃や異和を生じさせることをいう。
 なるほど、ガリヴァ―が巨人国や小人国を訪ね、サイズの常識をひっくり返すことで人間の隠れた本質を白日の下に曝したのも、デペイズマンなのだ。マグリットにも、巨大なりんごが部屋いっぱいに置かれた絵や、一枚の葉が木よりも巨大な絵など、大きさを逆転した絵がある。無論、ずらすべき物差しはサイズだけでない。空間や時間、すべての常識が懐疑と攻撃の対象となる。形骸化した認識では捉えられなかった新たなヴィジョンの模索である。
 もうひとつ、会場で痛感したのはマグリットにとっての言葉の大切さだ。画面に書き込まれた言葉や、タイトルとして付与された言葉が、不思議世界に漂い始めた心に、楔を打つように突き刺さる。白い雲を浮かべた青空の何の変哲もなさが、「呪い」というタイトルによって撹拌される。オブジェ、イメージ、そして言葉。この三角関数をいじることで、常識は非常識となり、不可視が可視となる。時に遊戯的ポーズをまといながら、その実、マグリットは過激なほどの生真面目さで真実に至る扉を開こうとしているのだ。
 「これはパイプではない」という言葉が添えられたパイプの絵は、「イメージの裏切り」と題される。殆ど禅問答のようだが、マグリットの核心がここにある。禅問答とは言葉の比喩だけではない。そう、マグリットはいかにも禅なのだ。鋭く問い、知性と感性を総動員して答えを模索させる。常識を脱し、真理に達しようとする悟達への門が、マグリット絵画なのではあるまいか。
 「旅の思い出」という、人もライオンも部屋の中のすべてが石にフリーズしてしまった絵がある。旅の記憶の時間の流れが瞬間に閉じ込められ、石に固められた。川の流れや波濤を石で表現した枯山水の庭園と、発想は極めて近い。実際に禅の書を読んでいたか、といった次元の話ではない。シュールレアリスム運動の流れに身を置きながら、マグリットはオブジェとイメージと言葉の三角関数を自在に変化させつつ、禅問答に匹敵する根源的な問いかけによって、宇宙の真理に至るヒントを掴もうとしていたのである。
 21世紀の今日、私たちの日常を取り巻く常識の皮相的な虚ろさを思えば、歳月を超えてマグリットが突きつけてくる匕首(あいくち)は、貴重な上にも貴重である。