第48回 表

『坊っちゃん』の功罪?
ターナー風景画の傑作、『チャイルド・ハロルドの巡礼』

作家 多胡吉郎

 エリザベス女王のプラチナ・ジュビリーの祝賀行事を見ていて、10年間暮らしたイギリスを懐かしく思った。そのノスタルジアの感情の中から、ひとりの英国人画家が浮かび上がってきた。
 ジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775~1851)――。風景画を中心に膨大な作品を残したが、今日この絵をとりあげるのは、日本人には深い縁で結ばれ、かつ知っているようで知らないという、奇妙な親近の矛盾を抱える作品となっているからである。
 仕掛け人は夏目漱石。人気作『坊っちゃん』が問題を投じた。
――「あの松を見たまえ、幹が真直まっすぐで、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だにいうと、野だは「まったくターナーですね。どうもあの曲がり具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙っていた。――
 教頭の赤シャツとお追従ついしょう屋の野だ(野だいこ)が、スノビズム丸出しの嫌らしさで、松山沖の四十島の松をターナーのようだと口にする。この場面のせいで、ターナーの絵を一点も見たことのない者までもが、その名を、しかも困ったことに、マイナスイメージとともに記憶する。
 美術専門書は別として、一般人の読む小説本の類にターナーが登場したのはおそらく『坊っちゃん』が初めてであろう。ターナーは損な役割を負わされたものだ。小生なども、その作品に接する遥か以前から、ターナーとは英国の偽善家どもが称揚してやまない、貴族趣味に毒されたスノッブな輩なのだろうと、とんだ先入観を抱いてしまった。
 それが、いかに大きな間違いであったことか――! まず彼は貴族階級の出身ではなかった。父は床屋という労働者階級の出で、下町訛りのコックニーが生涯抜けなかった。粗野な素行が目立ち、体型的にも小太りで、社交術に乏しく、スマートさや洒脱さとは無縁だった。結婚は一度もしなかったが、子をなした女性もおり、女性関係は通常のモラルから外れていた。それでいて、絵に関しては誰にも負けぬほどに、真剣かつ熱心だった。『坊っちゃん』で言うなら、赤シャツの天敵にして、坊ちゃんが親しんだ山嵐に近いキャラの人物だったのである。
 漱石が筆にしたターナーの松の絵は、ロンドンのテート・ギャラリーが所蔵する『チャイルド・ハロルドの巡礼』――。画家のイタリア訪問によって描かれ、1832年にロイヤル・アカデミーに初出品された。たいそうな人気を博したという。タイトルは、一世を風靡したバイロンの長編詩集からとられている。
 日本の松に見慣れた目からは、ひょろ長で頭に傘のような葉をひろげた松は珍奇に映るが、私自身、ローマを訪ねた際に、多くのこの手の松に出会った。
 ターナーはこの絵を初めて公開した折、バイロンの詩集から次の下りを添えた。「おお、素晴らしきイタリアよ。汝は世界の庭。汝の残骸は栄光、廃墟は雅として輝ける。穢れなく、衰えを知らぬ魅力とともに」――
 バイロン同様、ターナーもイタリアの美に感動し、訪問を契機として、画風を変えることになった。前半生、彼は波濤逆巻く荒々しい海洋風景を劇的に描いたが、イタリア訪問後、次第に空気や光、風や雲などの存在を重んじて描くようになる。印象派の先駆者のような画風が確立した。
 この絵でも、背景の描き方には、そうした朦朧とした感じが現れている。その中に屹立して聳える松の木は、朽ちることのない生命力の象徴なのだろう。永遠の美そのものである。
 漱石の名誉のためにひと言加えよう。『坊っちゃん』ではターナーをおちょくったような漱石だったが、『文学論』では、朦朧とした晩年のターナーの画風を評して、次のように記している。
――吾人はここに確乎たる生命を認むるが故に、彼の画は科学上真ならざれども文芸上に醇乎として真なるものと云うを得るなり。――

▲ 第48回「奥」を読む