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第45回 表

ああドラマティック!
大原美術館の至宝、エル・グレコ『受胎告知』

作家 多胡吉郎

 高校を卒業して大学に入るまでの春休みに、倉敷へ旅をした。もう45年も前のことだ。水辺に映える白壁の美しい街並みの風情を楽しんだ後、大原美術館に足を運んだ。美術作品への関心よりも、観光名所を訪ねる気分だった。
 しかし、中に入るや、能天気な観光気分は吹き飛んだ。一枚の絵に、天地がひっくり返るほどの感動に襲われたのである。エル・グレコ作『受胎告知』(1590頃〜1603)――。1922年にパリで購入されて以来、大原美術館の西洋絵画コレクションの目玉となっている。
 キリスト教、西洋絵画について詳しい訳ではなかったが、聖母マリアの処女懐胎くらいは、当時も一応の知識を有していた。しかし、天使ガブリエルが降臨し、精霊によるキリストの宿りをマリアに告げるその場面が、これほどドラマティックに描かれることに驚愕した。絵画芸術の深遠さ、人の魂を揺さぶる力強さに、目を瞠らされたのである。
 緊張感に富む構成の巧みさもさることながら、画面中央奥の天空を割って降り下る光の帯に、天地に轟く雷鳴を聞く思いがした。瞬間に秘められた爆発的なエネルギーとそこに輝く神々しさは、若き心を鮮烈な感銘で満たした。
 それまで美術展に足を運んだことがない訳ではなかったが、倉敷での体験は、私にとっては真の意味での美術との出会いとなった。知識や情報としてではない、眼前の絵と直接に対峙することで受ける感動の醍醐味と至福を、強烈に悟らされたのである。
 作者のエル・グレコ(1541〜1614)の名は、その時以来、私の脳裏に刻まれた。その名前が「ギリシャ人」を意味するイタリア語で、つまりは通称であり、本名はドミニコス・テオトコプロスということは、だいぶ後になって知った。
 また、他の作品を知るにつれ、この画家が西欧美術史においてかなり特異な位置を占めることも知った。知れば知るほど、この人の絵には他の画家とは異なるものを感じた。何がしかが、違う。しかし、異質でありつつも、まぎれもない絵画芸術の王道を行く、絶妙の作風なのである。
 例えば、黒色の多用はグレコにあっては特徴的であるが、彼の筆にかかると、まるで東洋画の墨のように感じられる。宗教画でそこに金色が加わった時など、私の目には浄土真宗の仏壇のように見えることすらある。技法だけではない。そもそもの絵を描く目的が、単に美しいものを描くということとは違う次元にあるように思えてならないのである。
 エル・グレコはギリシャのクレタ島の生まれ。20代前半でイタリアに出、ヴェネツィアで巨匠ティツィアーノのもとで学び、ローマでも修業を積んだ後、30代半ばでスペインに渡って、トレドを生涯の活躍の場とした。
 クレタ島時代、既に絵画製作の道を歩み始めたが、そのキャリアの初めは、ビザンチン様式によるイコン画家としてであった。私はこのことを知って、墨のような黒の用い方を始め、泰西名画の流れに異光を放つ、謎めいた彼の画風がすとんと腹に落ちる気がした。彼はスタートの時点から、東の世界との架け橋となる宿命を負う男だったのだ。
 興味深いことに、日本でのエル・グレコ受容の歴史は早く、大正時代に白樺派が西洋美術を盛んに紹介した際にも、エル・グレコはレンブラント同様の大きな扱いを受けた。画家の死後、西洋では長く忘却の時代が続いたが、近代に入って、ドイツを中心に表現主義の先駆者として再評価が進み、それを受け、日本では初めから巨匠として紹介されたのだった。
 1916年、木村荘八が著した日本初の本格的グレコ紹介の本となった『エル・グレコ』に、次の一節を見つけた。「悉く描かれているものが確実な霊魂そのものだと云う気がする。此の意味に於て誠にグレコは魂の画家だ。純精神的なる程度に於て彩描に徹した人だ。色彩に於て神を見た美そのものの人格だ」――
 エル・グレコの絵画に、日本人は魂の芸術を見た。18歳の私が、大原美術館でエル・グレコの『受胎告知』に感銘し、美術開眼にあずかったのも、日本人のエル・グレコ受容史の流れに重なるものだったのだろう。