地方の美術館で、思いがけぬ西洋絵画に出会うことがある。収蔵に至る道のりは様々であろうが、そのプロセス、絵のたどった運命を知ることで、作品への興味が俄然高まる場合がある。
ここに紹介する作品などは、まさにその好例となろう。ピエール・ボナールの『パリの朝』(1920年頃)――。北九州市立美術館が所蔵する。
ポスト印象派を代表するフランスの画家・ボナール(1867〜1947)は、ナビ派の一員として画業をスタートさせた頃、「日本かぶれのナビ」とも呼ばれていた。
その事実を承知した上でも、作者自身の手でこの絵に描きこまれた献辞を知れば、「えっ、どういうこと?」と思わず膝を乗り出さずにはいられない。画面左下隅をとくとご覧いただきたい。「Pour Kusumé 」=「クスメに」と、献呈する日本人の名前がはっきりと読める。
楠目成照――。北九州小倉の出身で、東京美術学校の西洋画科に学ぶ。同級に佐伯祐三がいた。在学中の1919年と20年に開かれた帝国美術院展覧会(帝展)で、連続入賞を果たし、その勢いを駆ってパリに留学、アカデミー・ロンソンでボナールの教えを受けた。モンパルナスのアパートを訪ねた人の証言によれば、部屋の書棚はボナールに関する書籍でぎっしりと埋まっていたという。
楠目が一方的にパリ画壇の寵児、ボナールに憧れたというだけではなかった。「ピエール・ボナールは、パリでの楠目成照の仕事に深く印象づけられ、この若く有能な日本人アシスタントを自身のアトリエに抱えた」と、ヘンリー・スコット・ストークスは書いている(1982年3月15日、ニューヨーク・タイムズ)。
ボナールにとって楠目は、アカデミー・ロンソンで教える一生徒という関係を超えて、製作をアシストしてもらう愛弟子だったのである。だが、楠目は胸を病んでいた。やがてパスツール病院に入院、さらにはパリ郊外のサンクルーにあった結核療養所に入院を余儀なくされた。
結局楠目の病は癒えず、危篤となってパリに移され、そこで死んだ。まだ20代半ばの若さだった。遺体は火葬され、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。ショパンやモディリアーニなど著名人の眠る墓地である。
ボナールは入院中の楠目を訪ねた。その時に携えて行ったのが『パリの朝』の絵である。お見舞い品として、楠目に贈呈された。
描かれているのは、パリ市内の小学校(女学校?)の校庭らしい。朝の太陽が画面の左から射して、子供たち(少女たち)に注がれる。早朝のひんやりとした空気に、日光のもたらすぬくみが混じる。空と地、その間の空気までが混然一体となって、色彩の小シンフォニーを奏でる。
地に伸びる長い影が何とも印象的だ。いまだに夜の闇を引きずるような長い影だが、やがて太陽が中空にのぼるにつれ、影は溢れる光のなかに吸い込まれ、縮んでゆく。あたかも、雪や氷が春の陽射しを浴びて溶けゆくように……。
ボナールはそういう影を楠目の病に重ね、快癒を祈念したのかもしれない。朝の光を浴びるのが子供たちであるのは、ボナールの目に映った楠目という人間の無邪気さや純粋さを表してもいるのだろう。影はなおも蛇のように地を這うが、朝の陽光は希望に満ちて輝くと、そのように見てもよいだろう。
いずれにしても、色彩の魔術師と呼ばれるボナールならではの豊かな光彩のなか、愛弟子の健康を気遣う画家のやさしさが絵全体をあたたかく包んでいる。
楠目の没後、ボナールから贈られたこの絵は、故国の遺族のもとに引き取られた。そして、70 年ほどの後、1996年になって、北九州の市立美術館に寄贈されたのである。
1920年代のパリは第1次世界大戦後の黄金期にあたり、国際色豊かな芸術文化の華を咲かせた。ボナールと楠目の国を超えた友情も、その時代の光のなかから、揺るぎない絆を築きあげた。
師弟の絆の証である『パリの朝』は、清新な朝の光を、時代を超えた永遠の輝きに昇華させる。ボナールの描いたパリの朝景色が、愛弟子・楠目の故郷である北九州の美術館で、不滅の友情の物語を今も語り続けるのだ。