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第39回 奥

モンパルナスのキキ  〜天使降臨、史上最強のモデル〜

作家 多胡吉郎

イエスのヘルガ・シリーズは、誰の目にも触れられることなく、14年間にわたってひとりの画家がひとりの女性を描き続けた結果、生まれたものだった。
 ヘルガは一般女性で、所謂モデルではなかった。ワイエスの近くに住むことがなければ、ヘルガが絵のなかに永遠の姿を刻むことなど、ありえなかった。画家とモデルの関係性を考える時、極私的秘儀に徹したワイエス・ヘルガ組は間違いなく一方の雄であろう。
 そして、その対極に立つ、多くのアーティストたちに囲まれ、絵画や彫刻、写真のモデルをつとめたのみならず、彼らから愛され、賞讃を受け、時代を画する芸術運動のシンボルのように、輝き君臨した女性がいた。
 「モンパルナスの女王」と呼ばれた、アリス・プラン(1901~1953)――。本名での知名度は低いが、「モンパルナスのキキ」という愛称の方は、一世風靡したヒロインの眩いばかりのオーラを、時空を超えて放ち続けている。
 時代は1920年代、舞台は花の都・パリ――。当時パリは、第1次世界大戦やスペイン風邪の猖獗しょうけつといった暗い時代を経て訪れた自由を謳歌し、享楽を満喫していた。解放感あふれる自由の風に憧れ、世界中から若い芸術家たちがパリを目指した。
 モディリアーニ、シャガール、キスリング、パスキン、スーティン、フジタ……彼らはセーヌ川左岸の下町、モンパルナス地区を拠点に、「エコール・ド・パリ」と呼ばれる新たな芸術運動の花を咲かせた。「あの時、芸術の太陽はモンパルナスだけを照らしていた」とシャガールに言わしめた、黄金時代が現出したのである。
 その時代の高揚感を一身に背負って生きたのが、モデル、歌手、ダンサーのキキだった。コスモポリタン都市の闊達な時代精神の花形であり、自由の風そのもののような美神となった。
 アリス・プランは、ブルターニュ地方のシャティオン=シュル=セーヌの町に私生児として生まれ、12歳の時にパリに出た。しばらくは既にパリにいた母とともに、都市が抱えた最下層の貧しい暮らしを送る。
 ブルターニュ地方はフランスの北西部、ドーヴァー海峡を隔ててイギリスと向き合う荒蕪地として知られた。ブルターニュからパリに向かう汽車の終着駅がモンパルナスで、キキがやがてその界隈で時代の寵児となり、華と咲いたのも何がしかの巡り合わせを感じさせる。
 運命の大八車が大きく回転を始めたのは、14歳の頃にある彫刻家のモデルをつとめたことがきっかけだった。やがてこのポッと出の田舎娘は、画家や彫刻家など、アーティストたちに囲まれて生活するようになる。伝統に縛られない彼女の強い個性が、水を得たように、活き活きとしたおのれの場を見出したのである。
 田舎出身のキキを囲んだ若き芸術家たちが、殆ど皆、世界各地からのお上りさんであったのも面白い。モディリアーニはイタリア、シャガールはロシア、キスリングはポーランド、パスキンはブルガリア、スーティンはロシア(ベラルーシ)、フジタは日本といった具合で、しかもユダヤ系が圧倒的に多かった。はぐれ者同士、新しい時代の息吹のなかで、気勢を上げることになったのである。
 さて、キキをモデルにした画家たちのなかでも、最も多くのキキの作品を描いたのがキスリングだった。キキをモデルに100点以上の絵画を描いたと言われる。
 『モンパルナスのキキ』(1925)は、その中でも特に有名な作品。一見しての印象の鮮やかさ、強烈さという点では、キスリング作品の白眉でもあろう。
 大きな瞳。短くカットされ、撫でつけられた髪。こざっぱりとした赤いセーター。青をあしらった花柄のスカーフ。唇の赤はセーターに呼応し、つぶらに見開かれた瞳の青みがスカーフと響き合う。すべての印象的な要素は大きな瞳に収斂するが、その瞳が何をみつめているのかは漠然としていて定まらない。
 キキは時代の寵児である。しかしこの絵は、それほどスーパースターの感じがしない。いまいち、マドンナ的でない。聖性と無縁なところに生を刻んでいる。ヴィーナス的な妖艶さからも遠い。カフェで出会うこじゃれたお嬢さんで通じる。酒やドラッグで身体をもちくずすデカダンスな女には見えない。大正時代か昭和初期の軽井沢にいたって何ら不思議はない。
 モイズ・キスリング(1891~1953)はポーランドの古都・クラクフ出身のユダヤ人。1910年、19歳の時にパリに出、1913年(12年とも)からはモンパルナスに移った。
 モディリアーニを筆頭格に、破天荒で無頼、放蕩の限りを尽くす破滅型のイメージの強い「エコール・ド・パリ」の画家たちのなかにあって、キスリングは紳士的というか、穏健で自堕落なところが薄かった。
 キキを描いたこの絵にも、そういうキスリングの品のよさがよく出ている。キキはセックスシンボルから最も遠いところで捉えられ、描かれている。
 いや、単なる品の良し悪しの問題ではあるまい。ポーランド生まれのユダヤ人が、同じ根無し草として、ブルターニュの田舎出身の私生児に共感を寄せているのだ。モンパルナスが抱えたコスモポリタニズムが、キキという陋巷に降臨した天使との共鳴によって、真骨頂を奏でている。
 多くの画家、アーティストの前で、キキは惜しげもなく裸身をさらした。キスリングもまた、多くのキキのヌードを描いた。
 1927年に描かれた『キキの半身像』は、そのなかでも代表的な作品となろうが、着衣の時の印象に比べふくよかな肉体は、少しも扇情的でない。どっしりとした存在感を放つ一方で、強く抱き締められれば押しつぶされてしまいそうな、脆くも無垢な白い鳩を見るような気にもさせられる。
 身体の丸みによく調和した両手のポーズは、どこか仏像のような、或いはもっと原始的な土偶のようなイメージを醸し出し、不思議な宗教性さえ帯びている。
 キキを最もよく描いたキスリングの目と筆は、世間が抱きがちな紅灯の巷の浮かれ女といったイメージを、よい意味で裏切ってくれる。

キのもつ華やかなイメージを不滅のヒロインとして定着させたのは、アメリカから来た写真家のマン・レイ(1890~1976)であったろう。
 交響詩『パリのアメリカ人』(1928)を作曲したガーシュインや、『日はまた昇る』(1926)を著したヘミングウェイなどと同じく、彼もまた1920年代のパリの自由な空気を体験したアメリカ人であったわけだが、もとはロシア系ユダヤ人の移民の子で、本名はエマヌエル・ラディンスキーと言い、やはり故郷喪失者であった。
 パリにやって来たのは1921年、ほどなくしてモデルのキキと恋仲になり、同棲を始めた。
 写真家としての名を決定的にしたのは、1924年に発表した『アングルのヴァイオリン』であった。キキの裸の背中をヴァイオリンに見立て、f字孔を上書きしている。
 ここで言うアングルとは、新古典主義の画家、ドミニク・アングル(1780~1867)のことで、その代表作のひとつ『ヴァルパイソンの浴女』(1808)の後ろ向きのヌードの女性がターバンを頭に載せているのを踏まえ、キキにも同じようなターバンをかぶせたのである。
 旧時代の絵画の傑作に、新時代の写真が接ぎ木をする。そのつなぎ役にキキの背中が用いられた。ここでは、新しい時代が凱歌を奏でるように、誇らしげに、キキの裸身が女王然と鎮座している。
 女性の身体の後ろ姿をヴァイオリンに見立てるのはマン・レイ独自の発想ではなかったが、官能性の象徴のようにf字孔を描き加えたところが実に斬新で、圧巻の印象を与える。f字孔を加筆したマン・レイの気分は、どこか刺青師に似ていたかもしれない。
 もう1点、マン・レイがキキを撮った斬新さの際立つ写真がある。『黒と白』(1926)――。アフリカの仮面とキキの顔を配した組み合わせ、そして縦と横に置く構図がなんとも絶妙だ。
 黒い仮面にキキの白い肌、そして濡れるような黒髪……黒と白のコントラストは、対立だけでなく調和のハーモニーをも奏でる。土俗性と共振する都市の華とでも言おうか。
 ハーモニーを生む揺り籠は、パリとアフリカ、世界を結ぶコスモポリタニズムだった。その頌歌が、まどろみのなか、子守唄のような安らぎとともに流れるのだ。キキという妖精は、人種や民族の壁など容易に飛び越えて、すべての異物と溶け合う包容力と解放性を備えていた。
 もっとも、私の目には、マン・レイが撮ったキキの写真には、どこか谷崎潤一郎の小説のような、性愛にまつわるサドマゾのような気配がそこはかとなく漂う気がする。この魅力あふれる美しき女性の肉体を自分は知り尽くしているのだという男の自負やエゴが透いて見える気もする。裏返せば、キキに熱い視線を浴びせる他の男たちへの嫉妬すら感じることがある。
 マン・レイの作品のなかのキキは、「モンパルナスの女王」の称号をもって讃えられる絶対的な美神だった。美しいのみならず、名声や人気と不可分の女神だった。
 私生活上の蜜月から生まれた作品ではあったが、キスリングの描いた等身大の女性としてのキキ像とは異なり、マン・レイが撮ったのは、あくまでも栄光に彩られた「モンパルナスのキキ」の晴れ姿だったのである。
 1929年、マン・レイとキキは破局を迎えた。不滅のキキに魅せられつつ、マン・レイの心はアリス・プランという生身の女性からは離れてしまったのだろう。
 奇しくも、この年はアメリカを皮切りに、世界大恐慌の始まった年でもあった。黄金のパリに花開いた寵児の愛は、忍び寄る時代の影とともにしぼんでしまったのである。

「エコール・ド・パリ」の画家たちのなかで、キキを最も有名にし、また逆に、キキによって最も有名になったのは、おそらくこの人であったろう。フジタ――。日本人、藤田嗣治(1886~1968)である。
 フジタがパリにやって来たのは1913年、運命の赤い糸に導かれるかのように、相前後してキキもブルターニュからパリに出てきた。
 キキが貧しい暮らしを送ったのと同じく、フジタもまた、意気込んで芸術の都にやって来たものの、なかなか芽が出ず、経済的苦境に耐えつつ、絵の道に打ち込んだ。
 フジタをパリ画壇に押し上げたのは、白い裸身を惜しげもなくさらしたヌードのキキを描いた絵であった。1921年に描いた『横たわる裸婦と猫』が、出世作となったと言われる。
 日本画で使われる穂先の細長い面相筆めんそうふでで引いた、流れるような黒の細い輪郭線。その内側に、女性の肌がほの白く輝きながら浮かびあがる。絵具を重ねるぼったりとした厚塗りではなく、滑らかな透明感をもち、まるで内側から発色しているかのような艶のある光沢が、人々の目をとらえてやまなかった。
 それまで誰の手によっても描き出されたことのなかったこの肌色は、「素晴らしき乳白色」と評判を呼び、絶賛を浴びた。
 世界を驚かせた乳白色がどのようにつくられたのか、当初は秘密とされたが、今では、シッカロールに含まれるタルク(滑石という白い鉱石の粉)のなせる業であったことが判明している。土門拳が撮った制作中のフジタの写真に、シッカロールを脱脂綿で画面に擦り込む姿がとらえられていたのだった……。
 フジタは一躍、パリの寵児へと飛翔する。独自の乳白色を最大の武器に、次々と女性のヌードを発表、人気を不動のものとした。
 とりわけ、『寝室の裸婦キキ(ジュイ布のある裸婦)』(1922)は、フジタの代表作ともなり、彼がキキを描いたうち、最もよく知られた作品ともなった。モノトーンに抑えられた全体の色調のなかで、乳白色の肢体が堂々と輝く。
 1925年にはレジオン・ドヌール勲章を受章。「エコール・ド・パリ」を代表する画家となったばかりでなく、フランス国が認める社会的名士にものぼりつめた。
 フジタとキキの絆の深さを語る逸話が伝わっている。彼がまだ無名の頃、冬の日にキキを訪ねると、風邪をこじらせて高熱を出し、ぐったりとして寝込んでいた。薬を買う金もなく、食事もしていないという。フジタも床板や画架を燃やして寒さを凌がねばならぬほどに貧窮していたが、自らモデルのアルバイトをして小金を稼ぎ、キキの医者代にあてた。キキはフジタに感謝し、進んで彼のモデルをつとめ、ヌードになったという。
 そのヌード画が「素晴らしい乳白色」によって絶賛され、高い値で売れた時には、フジタは札束をもって一目散にキキを訪ねた。
 「あたたかいものを食べに行こう。おいしいものをたっぷりとご馳走しよう」――
 キキはフジタの申し出を喜んだが、外出しようとしない。実はコートの下には、着る服さえないありさまだった。モデル料もとらずにヌードになっていたので、困窮が続いたのである。フジタは改めてキキに詫び、キキは病気の自分を救ってくれた礼を言った。その睫毛には真珠のような涙が光っていたという。
 フジタの著書『地を泳ぐ』に登場するエピソードで、若干出来すぎの感がなきにしもあらずだが、格別の絆がふたりを結びつけていたことは間違いない。マン・レイの恋人となり、他の芸術家と浮名を流したこともあるキキだが、フジタとは魂の琴線のようなところで響き合うものを抱えていたのだった。
 それにしても、自由の代償のように貧しく、衣食にも事欠くほどのその日暮らしで、刹那的というか、無欲の極みの生き方を貫き、まるでどぶ水にでも湧くぼうふらのようなあてどなさだが、反面、常識では考えられぬほどにピュアで、切なく、人情味たっぷりのモンパルナスなのである。フジタとキキのこのエピソードこそは、モンパルナスの栄光の神話のエッセンスそのものであろう。

キをモデルにした他の作家たちの作品のうち、比較的よく知られたものを以下、紹介しておこう。
 グストー・グヴォデデキ(1880~1930)の描いた『モンパルナスのキキ』(1920)――。グヴォデデキはポーランド・ワルシャワの出身。アメリカでの活躍が長く、この絵を描いた時期には、ニューヨークをベースに、機会があるごとにパリを訪れていた。
 ヘルメットでもかぶったような短髪のアールデコ調のキキが、きりりとした強い印象を与える。俯き加減に閉じられた目の半月型のアイシャドウが、ショートカットの髪の円みと呼応し合い、仮面のような雰囲気を醸し出す。
 ヘミングウェイはキキについて、「(英国の)ヴィクトリア時代にヴィクトリア女王が君臨した以上に、モンパルナスのその時代を支配していた」と述べたが、グヴォデデキが描いた仮面のようなキキは、1920年代という黄金の時代とモンパルナスという解放区に君臨した自由の女王の神々しさを、楯か鎧のようにまとっている。
 キース・ヴァン・ドンゲン(1877~1968)が描いた『タバコを吸う女の肖像(モンパルナスのキキ)』(1922~24)も忘れがたい。ドンゲンはオランダ出身の画家で、フランスで活躍した。野獣派に傾倒し、やがて「エコール・ド・パリ」派に移った。多くの女性像を描いている。
 ヴァン・ドンゲンのキキは、黒い毛皮をまとい、ショートヘアの黒髪など、黒の広がりのなか、唇の赤と半開の瞳の青との、抑制的な色使いが印象的だ。ちょっと風俗画っぽい印象で、ロートレックや竹久夢二にも似ているように思った。実はヴァン・ドンゲンの『黒猫を抱く女』が夢二の代表作『黒船屋』に影響を与えたという事実があるので、或いはその関連から、このキキの絵も、どこかそうした響き合いを感じさせるのかもしれない。
 最後に、キキをモデルにした彫刻作品をとりあげよう。
 パブロ・ガルガーリョ(1881~1934)の『キキ・ド・モンパルナスのマスク』(1928)――。スペイン出身の彫刻家・ガルガーリョは、ピカソの友人であり、パリに出て、キュビズムの影響も受けた上で、金属を用いた彫刻によって独自の道を開いた。
 時代のイコンとしてのキキを特徴づける短髪の円みや切れ長の大きな目などが、極端にデフォルメされて、20世紀の天使らしく、金属の球体に刻された。ユーモアを感じて頬が緩みもするが、やがて、その空洞の部分が気になり始める。
 グヴォデデキが描いたキキの絵を語る際に、「仮面(マスク)」という言葉を私は用いた。ここでは、彫刻の作品名そのものに「マスク」という言葉が冠されている。
 時代に君臨した「モンパルナスの女王」の輝きの下に、アリス・プランというひとりの女性の素顔が控えていることを、この彫刻の空洞が物語っているように感じる。徳島県立美術館が所蔵するこの彫刻作品が製作されたのは1928年だが、その後のキキの運命を予感しているかのように思えてならない。
 世界大恐慌の始まった1929年にキキがマン・レイと別れたことは先に記した。翌30年にはパスキンが自殺、さしもの「エコール・ド・パリ」にも、明らかに影が立ち始める。
 軌をひとつにするように、キキの人生も下り坂に向かった。櫛の歯が欠けるように芸術家たちがモンパルナスを去り、キキは抜け殻のような後半生を生きる。
 ヒトラー・ドイツによるパリ占領のような受難期を経て、パリは解放され、平和が戻ったが、キキはアルコール依存症と薬物中毒で自滅して行く。
 1953年、キキは52年の生涯を閉じた。その昔、パリに出てきた頃と同じように、極貧のなかで逝った。
 かつてモデルとしてキキの世話になった多くのアーティストのうち、その葬儀に出席し、棺とともにティエスの墓地まで付き添ったのは、フジタとドマンゲだけだったという。