タイトル

第39回 表

アメリカの孤独、大地に生きるひそやかな息遣い  〜ワイエス、ヘルガ・シリーズ〜

作家 多胡吉郎

 20世紀を牽引し、今なお世界に君臨する超大国アメリカ。ホワイトハウスに摩天楼、NBAや大リーグ、ディズニーランドやハリウッドetc……、ジャイアントで華麗なイメージが巨像のようなこの国を彩る。
 だが、広大なアメリカを旅した人なら、誰しもが気づくはずである。晴れ舞台の背後に、地味で、退屈で、漠たる日常の覆う、何もないアメリカが控えていることに……。
 その何もなさから生み出された、ひそやかにして熱い、生命いのちの息遣いを感じさせる一連の絵画がある。
 アンドリュー・ワイエス(1917〜2009)の『ヘルガ・シリーズ』――。  まるで現代の神話のように、そのシリーズは生まれた。モデルとなったヘルガ・テストーフはドイツ系の移民で、ワイエスの自宅のあるペンシルバニア州チャズフォードの近隣に暮らす平凡な主婦だった。
 この田舎町の子持ちの中年女性との間に、1971年から85年まで、ワイエスの妻やヘルガの夫を含む他の誰にも知られることなく、画家とモデルの密なる関係が続き、240点あまりもの作品が生み出されたのである。ふたりが出会い、秘儀にも似た創作活動が始まった時、ワイエスは53歳、ヘルガは38歳だった。
 殆どの場合、ヘルガは金髪を三つ編みのお下げにした髪型をしている。その昔、『大草原の小さな家』という開拓時代の家族を描いた人気ドラマシリーズがあったが、その主人公、ローラ嬢を髣髴とさせる。アメリカのどこにでもいる少女が、そのまま大人になったような普通の女性なのだ。もちろん、ヘルガにモデル経験などなかった。
 「平凡なことがいい。だが、それを見つけるのは容易ではない。平凡なものに信頼をおき、それを愛したら、その平凡なものが普遍性をもってくる」――
 このワイエスの言葉通り、三つ編みのお下げ髪をした、垢ぬけぬ、何もないアメリカの象徴のようなヘルガが、真実の高みへと飛翔する天使となったのだった。
 ワイエスの描いたヘルガ像のうち、かなりの点数がヌードである。それがまた濃密な関係をいろいろに憶測させるわけでもあるが、このヌードのヘルガが実にいい。
 ヴィーナスのような蠱惑の美を放つわけでも、ファム・ファタル然とした嫣然たる媚を売るわけでもない。ただ、人間存在が、いっさいの虚飾――その衣裳や覆いとなるものをすっかり剥いで、天下にひとりしかいない全くの個の存在として、偽りのない肉体をさらしている。
 その肉体が、やや衰えを見せてもなおも白く輝き、ひっそりと、しめやかに、大地や自然、宇宙と呼吸を重ねながら、みずみずしい生命の息づきを紡いでいるのが、とても雄弁なのだ。
 『排水路』は1978年の作、ワイエスが好んだドライブラッシュ技法(水気を絞った絵筆で描く水彩画の技法)によって描かれている。「排水路」は原題では「Overflow」だが、窓外に流れが見えている農場の水路のことをいう。
 静かな、しかし実に大胆な作品であると思う。裸でまどろむヘルガ。クロールの泳ぎのような不思議な恰好の寝姿だが、窓の外には木々が茂り、水が流れる。部屋は何も飾られず、不愛想な壁がどこか牢獄を思わせ、しかし穿たれた窓から木や水の生気が忍びこみ、夢のなかを逍遥するヘルガと息を交わし合う。
静かな寝息は水音と溶け合い、月光であろうか、窓越しに注ぐ柔らかな光が彼女の体を包み込む。
 「私は静かに瞑想しながら考える。人はみな孤独だと。人がいつも感じるものは哀しみだと。それは私たちが孤独に生きる術を失ったからだろうか?」――
 人間の孤独をそう語ったワイエスは、自宅のあるペンシルバニア州チャズフォードと別荘のあるメイン州クッシングを往復するだけで、それ以外の土地を訪ねることをしなかった。
 広大なアメリカの片隅に息をひそめるように暮らす平凡なひとりの女性……。ワイエスは、ヘルガを見つめ描くことで、孤独のなかにもしっかりと根を張って生きる、したたかな人間の生の復権を試みていたのかもしれない。