第35回 表

白夜に舞う狂おしさ 〜ムンク『生命のダンス』〜

作家 多胡吉郎

 世界の大都市が抜け殻のような外観に変わった。ロックダウンはSF小説もどきの白昼夢を現出させ、日常や常識の尺度をかしがせた。今回は人為的な非日常が現れた形だが、自然界には「日常のなかの非日常」とでも言うような摩訶不思議な時間が演出されるケースがある。夏の盛りの北欧の白夜だ。
 高緯度のため、太陽がなかなか沈まない。北極圏なら日がな1日地平線の下に降りて行かない。時間は夜でも明るさで言えば昼の延長である。時間の感覚がずれ、生のリズムを定めてきたネジが外れてくる。
 ノルウェーの画家、エドヴァルド・ムンク(1863〜1944)の『生命のダンス』(『The Dance of Life』1899〜1900)にも、そういう物狂おしさが画面いっぱいに舞っている。
 一見して、夏至祭のような夏の夜の踊りが描かれている。「生命の」という日本語のタイトルからは、永遠なる豊穣さのようなイメージが喚起されるが、この絵の本質を見誤らぬためには、「Life」を「生命」よりも「人生」と訳した方がよいかもしれない。
 夏の夜に踊るカップルが幾組も描かれているが、穏やかな幸福にいる者はいない。身も心も灼きつくし、魂を腑抜けにさせるような情熱と欲望に、毒をあおったように酔いしれ、果てなき白夜に殉ずるかのように、いつまでも踊り狂うのである。
 誰の目にも明らかなように、中央の踊るカップルの左右に、対になる単身女性が佇む。左の白い服の女性は、純潔や若さ、美しさを表し、右の黒服の女性は老いや衰え、醜さを表す。要は、生と死の対比を象徴しているのだ。
 中央の女性の赤いドレスは炎のような情熱と欲望を表し、髪の毛やドレスが踊る相手に吸いつくようになびき、男を包みこんで、虜にしてしまう。すっかり魂を抜かれた男ののっぺらぼうな顔の表情と、それに反して奇妙に突き出た尻のエロティックな滑稽さが、哀しいまでの救いがたさを見せる。
 この男が、ムンク自身を投影した像であることは容易に想像がつく。左右の女性に佇む女性の顔立ちは、ムンクが当時交際していた女性、トゥラ・ラーセンの面影に似る。中央の踊る女もそうだという評者もいる。結婚を望んだトゥラにムンクは応ぜず、愛憎の果てに、トゥラが自殺すると言って持ち出したピストルがふたりで揉み合ううちに暴発、ムンクの左手中指を撃ち抜くという惨事に発展した。その後、トゥラは若い男と結婚し、ムンクの嫉妬を掻き立て、絶望に陥れた。
 この絵のなかの男たちは皆、そのような「愛」に駆られ、翻弄されて踊り狂う。男たるもの皆、女の魅力、魔力から逃れがたいと解釈することもできるし、ひとり(自己)の人生における、悪夢と知りつつも麝香のような女の色香に溺れてしまう、その繰り返しの愚の宿命を描いたと見ることもできる。中央から右手の、目を見開いて女にもたれかかる男は、猛る欲情を剥き出しにしたあさましさだが、これもまた偽らざる己の姿、「人生のダンス」の一景なのだ。
 不思議なのは、ダンスの躍動に満ちたはずの絵が、狂うほどに踊りつくした果てに、死んだように息を止め、動きを静止していることだ。白や赤などの明るい色彩がありながら、どこか影絵を見るような気にもさせられる。
 それは白夜の不思議さに通じる。昼のまま、夜になるのだ。明るさを失わぬまま、夜が次の日の昼となる。休みなく続く徹夜明けだ。生のエネルギーに溢れて見える一方で、どこか虚ろで、死の影を背負う。
 この「愛」をめぐる生と死の宿命劇の司祭役をつとめるのが、沈まぬ太陽の放つべろ(舌)のような光の帯だ。ムンクの絵にしばしば現れるこの光の帯は、男性器のようでもあり、イエスが磔刑にされた十字架のようでもある。月光の場合もあるが、白夜の絵では沈まぬ太陽と解したい。そうなって初めて、「生命のダンス」としての意味ももつ。
 ムンクは魂の苦悩を正面に見据えた、最も20世紀的な芸術家のひとりだった。代表作『叫び』があまりにも世に知られ、ポップアートを始め、色々なところで応用されるため、むしろ画家としての真価が正しく評価されないというジレンマを抱えることにもなったかと思う。
 白夜の不思議な時間に、人生の狂おしさを重ねたムンクのこの絵は、北欧という風土を超えて、また絵画芸術という枠にさえ留まらず、哲学や文学とも呼吸を交わし合いながら、あまねく人間の生の本質の謎に鋭く挑み、迫っている。

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