タイトル

第34回 表

北の至宝。静寂の詩人、ハマスホイ

作家 多胡吉郎

 20年ほど前――、衛星放送でスカンジナヴィアの特集を担当したことがある。1週間、様々な番組で北の風土や文化を紹介した。アンデルセン、イプセン、グリーク、ムンク……そうした巨匠たちについては触れる機会があったが、この人についてはスルーしてしまった。私の不勉強もあろうが、当時は北欧関連の本をいくら読んでも、この人をまともにとりあげたものなど皆無だったのだ。
 ヴィルヘルム・ハマスホイ(1864〜1916)――。デンマークの画家。生前はそれなりに名声もあったが、その後長く忘れられていた。21世紀が近づく頃からにわかに復活、その天才ぶりが世界の美術ファンを唸らせる風雲児。その名前の表記すら、日本ではハマーショイだったり、ハンマースホイだったりと、しばらくは定まらなかった。
 ハマスホイはよく、「静寂の詩人」「北のフェルメール」などと言われる。確かに、多くの室内画を残し、そのどれもがとても静かで柔らかく、窓辺から淡い光が部屋に射し、日常を流れる時を詩情豊かに紡いだ。
 ここに紹介する『室内―開いた扉、ストランゲーゼ30番地』と題された絵も、いかにもハマスホイならではの作品だ。1905年に描かれ、コペンハーゲンのデーヴィズ・コレクションが所蔵する。
 19世紀後半、デンマークでは室内画が流行した。市民階級が台頭して、生活の場に目が向けられたのと、冬の長い北国ならではの、室内の居心地のよさを大事にする意識が影響している。今でも北欧の家庭を訪ねると、ゆったりとした空間に、シンプルながら趣味のよい調度品が置かれ、コンフォートを感じる。ごちゃごちゃと並べ立てたりしない。かつ、高緯度で冬は日照時間が少ないからであろう、光をとても大事にする。そういう北欧風のインテリアは、ハマスホイの絵にも勿論生きている。
 ただ、そういう風土性や、かの地の絵画史に一応の理解をもちつつも、この人の絵は図抜けている。モノトーンに近い、色彩的には極めて抑制された緊張の中、絵画に吸い込まれてしまいそうな強い磁力を有している。
 この絵は、誰もいない部屋を描いている。舞台は、画家自身が10 年間暮らしたコペンハーゲン市内の家だ。ハマスホイの室内画に最も多く見られるのは、地味な黒っぽい服を着た妻のイーダが、調度品に溶けてしまうように後ろ姿や斜め横の姿をさらしているというものだが、ここでは妻さえもオフに扱われている。
 誰の姿も見えないとはいえ、扉の先にある部屋の奥には、イーダがいるのかもしれない。少なくとも、誰かがいた気配は濃厚に感じられる。人のぬくもりの痕跡のようなもの、過去の記憶を秘めている。静けさの中、風の音が聞こえてきそうだ。風に乗って、そこでかつて交わされた家族の会話までが流れてくる気がする。
 「覚えてる? わたしが結婚指輪をなくして大騒ぎしてた時、あなたがあの部屋の窓の下で見つけてくれたのよね」「うん、窓掃除の時に外しちゃったんだね、花瓶の陰に落ちてて見えにくかったさ」……「市場で買ったアイリスの花束を食卓に飾ろうとしたら、あなたにダメだって言われて、わたし泣きそうになっちゃったわ」「ああ、でも次の間のサイドテーブルならばっちりだった。きれいな花だったね」……「あの部屋よ、わたしがぼんやり窓外を眺めていたら、あなたが急に後ろから抱きついてきて言ったの、子供がほしいねって。でも結局、子供はできなかったわ」「うん、その時の窓からの景色まで鮮明に覚えてるよ」……。
 あの日あの時、あの部屋、あの扉の向こうで、といった思い出の絵葉書が、何枚も積み上げられ、心のアルバムになり、しまわれている。限りなく私小説に近いのだが、その深さは宇宙に通じている。
 わかりやすく言えば、引っ越しの日、既に荷物を出した後の、最後のチェックだと思えばよい。そこに暮らした歳月が改めて思われる。胸に帰趨される楽しい記憶、悲しい出来事。微笑み。涙。笑い声……。ハマスホイは、まだそこに住んでいる渦中にさえ、そのような眼差しと感性を持ち得る人だったのだ。
 「古い部屋には、たとえそこに誰もいなくても、独特の美しさがある。誰もいない時にこそ、美しいのかもしれない」――ハマスホイ自身の言葉だが、その美しさとは畢竟、住まいに沁みついた人の記憶、彼の場合なら、妻イーダの肌のぬくもりだったのではなかろうか。

(文中の夫妻の会話は私の拙い幻想ですが、ハマスホイに子供がいなかったのは事実です)