第34回 奥

ハマスホイ。静寂の奥にひそむ濃密な気配

作家 多胡吉郎

 例えば、お初、徳兵衛といった、文楽人形の男女の頭が左右に並ぶような2人である。
 『画家と妻の肖像、パリ』(1892)――。
 この絵1点だけならば、傑作として世に残ることはなかったであろう。タイトルにもある通り、この絵はパリで描かれた。1891年の秋に、画家仲間のピーダ・イルステズの妹イーダと結婚したハマスホイは、新婚旅行で訪ねたパリに、翌年の春まで半年ほど滞在し続けたのである。
 私が冒頭に、文楽人形のようなと形容し、しかも近松の『曽根崎心中』の主人公たちの名前まで引いたのは、顔を中心としたアップサイズであることにもよるが、その並び方が均等で、切っても切れない、宿命の男女の絆を感じるからである。
 27歳で結婚し、新婚旅行の旅先で、既にハマスホイは、妻のイーダがこの先の自分の画業にとって、なくてはならない存在であることを知悉してしまったかに見える。実際、この先、イーダは彼の作品の多くに登場し、殆ど唯一と言ってもよいほどの女性モデルとなる。
 古今東西、絵画芸術の世界にあっては、自分の愛する女性にインスピレーションを受け、ミューズとして作品に描いたケースはいくつもある。しかし、そのような場合、普通は愛する女性を流行のモード、ファッションに身を包ませるなど、格別に飾らせる。たとえヌードを描く場合でも、わずかに身にまとうショールであるとか、身を横たえる寝台や周辺に、手の込んだものを配する。
 だがハマスホイの場合、そういう普通の流儀からは、徹底して外れている。イーダは、きまって地味な黒い服に身を包む。場所はコペンハーゲンの自宅の部屋、家事の合間のような日常的な時間が切り取られる。
 しかも、これが決定的というか、イーダは多くの場合、後ろ姿で描かれ、表情が見えることはない。まるで調度品の一部になってしまったかのように、室内空間のなか、黒服の後ろ姿の身を静かに置いている。
 そういう系統の作品の代表作となる1点、『室内、ストランゲーゼ30番地』(1908)を見よう。
 『美路歴程』第34回の誌上掲載分(表)でとりあげた『室内――開いた扉、ストランゲーゼ30番地』(1905)の絵と、同じ部屋であり、ほぼ同一のアングルである。
 イーダの登場しない『開いた扉』の絵に比べ、椅子であるとか、ライティングテーブルであるとか、家具が幾分増えている。テーブルの上には本が乗り、壁には小さな絵もかかっている。とはいえ、全体としては簡素を極める。あれもこれもと、調度品を並べたてず、抑制的な態度に終始する。
 そこに、イーダの生身の肉体が置かれる。その存在感は、決定的に大きい。後ろ姿である分、むしろ存在感は増すのかもしれない。見る者の胸に、いろいろな疑問が湧いてくるからだ。
 イーダはそこで何をしているのだろう。うつむき加減の頭の角度と、見えない手先からは、読書するか、編み物でもしているように見えるが、普通なら、右手のテーブルに向いて腰かけ、事に及ぶであろう。だがイーダは、部屋の奥にもまた部屋が覗くという、この絵のもつ垂直方向のベクトルに沿って腰かけている。完璧な位置と向きである。
 一見すると、その絵に特徴的な緩さ、隙のある空間性から、ハマスホイの構図の緻密さが見落とされがちであるかに思えるが、実のところ、この画家の構図は神経が行き届き、全くの無駄がない。


 イーダの登場する絵のうち、構成の緻密さが顕著な作品として、『四枚の銅版画のある室内』(1905)がある。
 この絵では、4枚の絵と、テーブルに椅子、そしてテーブルに載るポットや皿などの陶磁器、そういうオブジェの組み立てによる構成の計算の上に、イーダがその横に配されている。
 「イーダ、ほらここに立って」と画家は妻をその位置に案内し、キャンバスに戻ってからも、「もう少し左、いや右」などと細かく指示を出したことであろう。
 この絵のイーダは、特に何かの作業中であるようには見えない。そこに身を添えることを目的として、後ろ姿のオブジェのように立っている。
 だが、生身の肉体をもつ女性が登場することで、物言わぬはずのオブジェは、女性との関連性を主張し始める。とりわけ陶器は、明らかにこの女主人によって使われてきたものだ。
 生活のなかで、これらの陶器が入手され、使用されてきた思い出のシーンのひとつひとつが、アラジンの魔法のランプではないが、今にも陶器の肌から気が立ちのぼって、ひとり語りを始めそうな気配だ。
 壁も床も、例によって緩く隙がある。床に市松模様のタイルが拡がるわけでもない。
 だがそれでいて、4枚の絵から陶磁器の並ぶテーブル、その下の椅子、横のイーダに至るまでの、黄金のトライアングル型に配置した構図は緊密で、オブジェの数もそれなりに多く、密度が高い。
 ハマスホイの絵画は、「静寂の詩人」と形容される。それはいかにもその通りなのであるが、静寂のなかに不思議な饒舌、雄弁が秘められている。具体的な物語のストーリーとはならずとも、饒舌の気配、記憶の痕跡が、生きている。
 この、ベースとなる沈黙に饒舌が奇妙に交錯するところが、ハマスホイの最大の個性なのではないだろうか。
 『室内――開いた扉、ストランゲーゼ30番地』の絵も、誰もいないがらんとしたアパートの室内は、全体としての静寂のなか、いくつもの開いた扉だけがやけに饒舌だった。そこに秘められた記憶がひとりでに語り出すような気配が濃厚だった。
 沈黙が覆う氷のように静まり返った世界に、熾火がなおもちろちろと燃えている。或いは、火は消えているのだが、先ほどまで盛んに火をたかれていたそのぬくみや火照りが、いまだに残り、漂っている。記憶の残照のなまなましさは、時に不思議なエロスさえ醸し出す。
 そういう、二面性をハマスホイは抱えている。画面は静寂で無言だが、記憶のなかの言葉は豊穣で、しかも、ここが肝心な点だが、その豊穣の記憶を画家は妻イーダと共有しているかに見える。
 ハマスホイの絵画芸術において、画家と妻イーダは共同制作者の立場にある。演出家と女優がともに舞台を作りあげて行く、その感覚でもある。もう少しえげつなく言えば、共犯者ですらある。顔も見せず、後ろ姿だけをさらして、魔法使いのように見る者の心を惹きつけ、さまざまな思いに揺らせてしまうのだ。
 イーダが登場するのは、きまって室内である。公園や海辺でポーズをとり、などということは、ありえない。基本的には舞台は自宅に限られる。
 なので、次の絵も、注釈を添えなければ、やはりコペンハーゲンの自宅でのイーダを描いたものと勘違いされてしまうことだろう。『室内』(1898)――。実はこの絵は、ハマスホイが1897年10月から翌年5月までロンドンに滞在した折に、現地で描かれたものなのである。
 この時、ハマスホイがロンドンを訪ねた目的のひとつは、アメリカ生まれで、ロンドンで活躍する画家のホイッスラーに会って自作の絵画を見てもらいたかったからだったが、手を尽くしたものの、結局、その夢はかなわなかった。
 ロンドンで描いた『室内』は、簡素な、殺風景なくらいの部屋である。旅先の仮住まいだからでもあろうが、この点、母国の自宅を描く時とさして違わない。全体に霧がかかったようなソフトフォーカスの仕上げのなかで、白いテーブルクロスの折り目のくっきりした線が妙に鮮やかで、そこにロンドン滞在中の緊張やら不安やらが象徴的に表れているような気がする。
 イーダは例によって後ろ姿だが、ロンドン滞在中の記憶、その折の思いを、ハマスホイと共有している。この妻が一緒にいてくれるお蔭で、挫折しないでいられるという面もあったかもしれない。異郷にあっても、イーダと一緒ならば、そこは絵のタイトルにあるような『室内』なのである。
 この絵が描かれる時、既にハマスホイはロンドンでの様々な記憶を妻と共有し、思いを交わし合っていたことだろう。そして、この絵が完成した後には、絵を見ながら、さらにロンドンでの思い出を夫婦そろって話し合い、思いを共有したことだろう。
 夫婦そろって旅人であった。だが、どこにいても、イーダが一緒であれば、馴染みの構図がおのずと生み出される。異郷にあって、イーダのいる室内こそは、ハマスホイにとっての永遠のホームなのである。


 室内画で知られるハマスホイだが、アウトドアを描いた風景画もある。これがまた一風変わっていて、いかにもハマスホイらしい。
 『農場の家屋、レスネス』(1900)――。ハマスホイは、夏になると毎年のように都会を離れ、自然の豊かな郊外に滞在した。世紀の変わり目、1900年の夏に訪ねたシェラン島西部のレスネスにある農家を描いたのが、この絵である。
 白夜で知られる北欧の夏は、天からストレートに直射光が降りてくる感じで、南国とはまた違った意味で、過剰な光に溢れる。
 この作品でも、夏のまぶしい陽射しが、白い漆喰壁に黒い茅葺き屋根を戴く2棟の農家とその庭に降りそそぐ。白と黒の際立つコントラストは、誰に目にも明らかで、一見すると、溢れる陽光がすべてを沈黙に塗り込めた、無音の世界が現出したかのように見える。
 それはそれで、乾ききった無言の白昼夢を見るような不思議さを醸し出す。夢の中に現れた昔の光景を見るような気分がする。
 だがよく見ると、正面の煙突のある棟の建物の窓は、多様な画像を映し出していて、いかにも饒舌なのである。白い空にまぎれてよく見ないと気がつかないが、煙突も盛んに煙(蒸気)を吐き出している。建物の内側では、人々が熱心に何かに取り組んでいるに違いない。
 農作業か家事か、あるいはパーティーでも行われているのか、そのディテールは問題ではない。ここでも、ストーリーは語られない。気配こそが重要なのだ。濃密な気配が、絶対的沈黙の内側にひそんでいる。そのシュールさが、絵の前に立つ者を釘づけにする。
 外形だけを見ると、すべてが動きを止め、もぬけの殻のように見える。牛や豚などの家畜を始め、地を這う虫けらに至るまで、命あるものの鼓動は、溢れかえる陽光に封じ込められ、いっさい聞こえてこないかのようだ。だが、内側からは命あるものたちのざわめきや動きの気配が、にじみ出てくるのだ。
 沈黙の奥にひそむ饒舌の気配――。風化した記憶の底に、なおも鮮やかさを失わずにひそむ1点の生命の輝き――。室内画を描く時のハマスホイと、何ら違いはないのである。
 夏の農家は白い光に覆われていたが、冬の街を描いた『ロンドン、モンタギュー・ストリート』(1905~6)は、すべてが灰色に塗り込められている。
 1897年秋から翌年春までの滞在を手始めに、ハマスホイは少なくとも6回はイギリスを訪ねたという。多くは、ハマスホイの絵を愛したイギリス人のピアニスト、レオナード・ボーウィックとの縁に引かれてのことだった。
 ボーウィックの尽力によって、ハマスホイの作品はイギリスで広まった。ヨーロッパの辺境に生きた画家たちにはパリを志向する者が多かったが、この点、パリ以上にロンドンに馴染んだハマスホイの独自性が際立っている。
 1905年の晩秋から3カ月ほどをロンドンに暮らしたハマスホイは、仮住まいの窓から見える景色を絵にした。
 モンタギュー・ストリートは、大英博物館のある界隈で、決して人通りの絶えたうらぶれた街ではない。それでありながら、ハマスホイは、通りを行き交う馬車や通行人など、動きのあるものをすべて絵のなかから消してしまった。
 抜け殻のような街である。今風に言うなら、ロックダウンされた街のようだ。
 当時のロンドンは霧のロンドンとも呼ばれ、秋から冬にかけては特に、濃霧が街を覆い、灰色のなかに街並みを沈めることが多かった。それは当然、色の選択などに影響を与えたはずだが、しかし、人々の往来や交通を消し去ってしまう、街を風化させるような描き方は、ハマスホイ独自の感性である。
 建物には多くの窓がある。窓の内側では人々の営みがあり、外側からはうかがい知れぬ世界が広がってもいるのだろう。だが、デンマークの田舎の農家の絵に比べると、外観の沈黙の内側から醸し出される人の気配は、博物館街であるからか、それほど濃厚ではない。
 その不足分を補うかのように、通りの両側に、冬のさなかにも葉を落としきらず、裸木のようでいながら緑をためている木々を添えている。街そのものが博物化したような沈黙のなか、生命はなおも息づき、その気を伝えてくるのだ。
 さらに言えば、ハマスホイの描く、遠い記憶の夢の跡のような風景に張りつくようにして、私は、画家とイーダが共にする思いがこだましているように思えてならない。何処まで行っても、この人の絵は、イーダとの共同、共犯関係の産物であるように感じられてならないのだ。
 ふたりが冬のロンドンの印象を語り合いながら、窓辺に立っている、その対話の記憶が、絵の中からいくらでも言葉を紡ぎ出し、流れ出てきそうだ。
 ハマスホイの絵画が宿す、風化されたなかにかすかに残る熾火は、画家にとって生と死の循環の核をなし、遥かな母胎回帰の願望を秘めつつ、より身近には、イーダの肌のぬくもりに抱きとめられる、永遠の生命の息づきなのではないだろうか――。


 ハマスホイ最晩年の成熟をうかがわせる1点を見よう。
 『カード・テーブルと鉢植えのある室内、ブレズゲーゼ25番地』(1910~11)――。コペンハーゲン市内の自宅の室内。おなじみの空間構成である。
 もっとも、鉢植えが中心に置かれることは珍しい。そこには、イーダの面影がよぎる。花を飾ったのは、彼女だったであろう。その姿が描きこまれずとも、この絵にはイーダの存在が息づいている。
 構成的な配置には無駄がなく、緊張感を保ちつつも、ぬくもりがある。静けさのなかに人の気配が漂う。愛の気配が薫る。瞬間を切り取った絵に、妻と暮らした20年ほどの歳月がにじむ。
 イーダの姿がそこに描かれているかどうかは、もはや問題ではない。影法師のように、イーダは絵とともにいる。画家本人の横に立って、目の前の光景について、キャンバスに定着しつつある風景について、語り合っているのだろう。
 絵は、相変わらず静けさと饒舌とを抱えながら、両者を対立する概念とはせず、融合する和の世界を描く。
 何気ない世界がはらむ貴さ。平凡な日常が湛える豊かさ。生きることの、共に日々を重ねることの確かさ……。
 それらはどこか、はかなげな危うさをも内包しているかに見える。今は穏やかに部屋に差し込む陽射しが、太陽が傾き地平線のかなたに沈むとともに退き、形あるものはやがて闇に溶け、落ちて行く……。
 ハマスホイは第1次世界大戦中の1916年、52年の生涯を閉じる。最後の作品となったのが、『室内、ストランゲーゼ25番地』(1915)という作品だ。
 絶筆がイーダを描いたものであるのは、いかにもハマスホイらしい。ただ、珍しくも、後ろ姿ではない。イーダの前のテーブルの反対側には、空の椅子が置かれている。テーブルの上のカップはイーダ用のひとつだけで、茶を共にする人はいない。
 ハマスホイは1914年から喉頭癌を患っていた。1915年には病状が悪化、描くことのできた作品はこの絵だけであった。翌年の2月に世を去っている。この絵は、自身の最期を予期して描かれたのだろう。空の席は本来自分が腰かけるべき席であった。
 珍しく顔をこちら側に向けたイーダは、俯き、目も閉じ加減で、その表情は定かにはわからない。瞑想しているようでもあり、哀しみに沈むようにも見える。確かなことは、ハマスホイという画家の画業が、ごく若い日々の作を除けば、イーダに始まり、イーダに終わるということである。
 ハマスホイとイーダの間に子供はなかった。常に夫婦一緒で、旅先にもハマスホイは必ず妻を伴った。2人の絆は、夫唱婦随というような言葉ではとても表しきれない、固く、かつナイーブなものだった。
 ハマスホイの作品は、死後20年ほどするとすっかり過去の作品とされ、世の中の関心を失った。夫の作品が、しかもその多くに自分の姿が登場する作品が、忘却の彼方に埋もれて行くのを、イーダはどうすることもできなかった。
 イーダは、ハマスホイ没後33年間を生き、1949年に没している。
 ハマスホイ復活の機運が芽生えたのは1980年代に入ってからだが、今、世界中で湧き起こるハマスホイ・ブームを知ったなら、画家とその妻は、いったい何を思い、何と言うだろうか……。


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