恥ずかしい告白から始めよう。私にはその人の描くその手の絵が、ひどく苦手だった。
長い間、よさがわからなかった。セザンヌの描く静物画。林檎や白い布など、特徴ある作品を目にすれば、すぐにもセザンヌだと知れる。それでいて、その絵は心に響かなかった。長い不幸の果てに一念発起をし、このひと夏をセザンヌの1枚の静物画とともにすごした。
『ザクロと洋梨のあるショウガ壺』(フィリップス・コレクション 1893)――。昨秋に東京の三菱1号館美術館で開かれたフィリップス・コレクション展で買い求めた美術カレンダーに載る写真ではあったが、トイレの壁に張りつけ、連日連夜、大小の用のたびに目をその絵に釘付けにし、徹底して見ることにこだわったのである。
セザンヌの静物画といえば主役は果実。その代表格は林檎だが、ここではザクロと洋梨が主役をつとめる。ところどころ折り曲げられた白いテーブルクロスもセザンヌ静物画の常連。皿や壺、壜など、無機質な陶器やガラスの器が配されるのも常道。棚の上に積み上げた本があるが、これは普段は登場しないこの作品の個性的な顔になる。総じて遠近法は曖昧化され、奥行きをぎゅっと凝縮したような感がある。その分、それぞれの物の存在が
明確になり、互いに緊張を
――と、観察の結果、そこまでは理解が及んだ。関連の本にも目を通し、「デフォルマシオン」、「レアリザシオン(感覚の実現)」など、セザンヌの静物画に対し語られてきた概念も知った。ただ頭では理解しても、セザンヌが真に近づいてくるリアリティは感じられず、隔靴掻痒の思いから離れられなかった。
事態を革命的に変えたのは、練馬区立美術館で開かれていた坂本繁二郎展だった。牛や馬の絵を見に行ったつもりが、多くの静物画を目にすることになった。坂本の静物画は静けさに満ちている。野菜や果物から箱、壜にいたるまで、物は静謐の中にひっそりと息をし、穏やかで、人のぬくもりにも似た温かさを感じさせる。
坂本の静物画に胸を満たされ、帰宅してセザンヌの静物画に向き合った途端、目に慣れた筈の絵が全く新たに見えてきた。模糊としていたものがさっと霧が払われ、鮮やかにその真価が迫ってきたのである。セザンヌの静物画には、静けさは無縁だ。ぬくもりのような情緒が絡む隙もない。あくまでも物は客観的、絶対的なオブジェであり、物を見つめる画家の精神は強靭そのものである。
物は悉く皆、声高に主張する。「中央のザクロの実がこの絵の主役だ。赤く輝く丸いボディが熟れて一部が黒ずんだ、そのリアリティを見てほしい。傾いた皿の上で滑らずに留まる微妙なバランス感覚こそ
壺の左横の黒い影は猫のよう。本の右横には、あなたを見つめる目が潜んでいる。ミステリアスなこの魅力を感じられぬようなら、あなたの目は節穴ね」……。ひとつひとつのオブジェから発せられる言葉が、様々に聴こえ、こだまする。
各者各様の主張を引き取りつつ、手綱を締めて君臨するセザンヌという画家はまさに鉄人である。それぞれの物の声が主張を高め、互いの緊張を極めつつ、爆発寸前、これ以上はないという頂点に達した瞬間を、セザンヌは描く。
セザンヌは、「見る、描く」という行為の惰性を嫌い、排している。慣れきった視覚習慣をいったんは崩し、全く独自に対象との関係を構築し直している。おそらくそれは、写真が発明されたことで、画家にとって「見る、描く」という基本哲学が根本から問い直された結果だったろう。
静物画は彼にとって「見る、描く」の関係性を鍛えあげる作業だった。日々の修業であり、ライフワークでもあった。科学者がラボラトリーで実験を続けるように、高僧がなお日々の座禅を組むように、彼は果物や白い布のオブジェを、物を変え、位置を変え、光の具合を確かめつつ、そのコンポジションの際限なき変奏を描き続けたのである。絵が売れるかどうかなどという次元で描いていないことはもちろん、いっさいの妥協もなしに……。
そこまで悟った瞬間、思わず涙が流れていた。