第27回 表

日本を愛し、日本との戦争で死んだ男
戦争画家・ヴェレシチャーギン

作家 多胡吉郎

 初めてこの絵を見た時、ベトナム戦争に反対するアーティストの作品ではないかと感じた。だがその後、頭蓋骨の積まれた山の背景が熱帯雨林のジャングルでなく、砂漠のような乾燥した荒蕪地であることに気づいて、9・11後のアフガニスタン紛争や、その後のイラク戦争を背景に描かれた作品であるように思い直した。
 いずれにしろ、20世紀後半から現代にかけての反戦平和のアートと勘違いしてしまったのである。実際には、今から150年近くも前に描かれた絵であったにもかかわらず、だ。
 それほどに、この絵の抱えたメッセージ性は強烈で、現代的である。描いたのは、ロシア人画家のヴァシリー・ヴェレシチャーギン(1842〜1904)。絵のタイトルは『戦争の結末』といい、副題風に「過去、現在、そして未来のすべての征服者たちに捧ぐ」とある。このワサビのきかせ方も、かなりの激辛だ。
 ヴェレシチャーギンは、ロシア軍による中央アジア・トルキスタンへの遠征に従軍し、その体験をもとに『トルキスタン・シリーズ』と呼ばれる一連の作品を描いたが、その中で最も反戦的な作品がこの絵になる。従軍体験から3年ほど後、1871年に描かれた。
 昨秋、シリアの武装勢力に捕らわれていた日本人戦場カメラマンが解放され、その行動について、かまびすしい議論が巻き起こった。自己責任をめぐる論をここで蒸し返すつもりはないが、人間のある種の本能として、危険な戦地に身をさらし、そこから何かを伝えたいという意欲は、カメラが報道の具となる以前から存在したものらしい。
 権力者側の要請で戦争画を描かせるのとは別に、見たい知りたい描きたいという個人の願いが、危険な戦地へと向かわせる。ヴェレシチャーギンは、そのような戦争ジャーナリストの先駆者的存在でもあった。
 ノブゴロド州チェレポヴェツの富農の家に生まれ、ペテルブルクの海軍学校に進み、いったんは士官になるが、やめて帝国芸術院(美術アカデミー)に再入学。優秀な学生だったが、そこも3年でやめ、パリに留学。画家になるまでにも紆余曲折を経たが、その後もひとつ所に落ち着くことはなかった。戦争画家と呼ぶ以前に、天性の放浪の画家なのである。
 正統アカデミズムから外れた画家たちには、ロシアの大地に根ざした民衆の暮らしの中から絵を描き、各地で展覧会を開いたレーピンらの「移動派」がいたが、彼らともまた一線を画する。あくまでも一匹狼。遥かな辺境の地を訪ねては、異境の人々や風俗、自然を盛んに描いた。時にその旅はロシアを離れ、ヒマラヤやチベット、インドにまで及び、大変な行動力を誇ったが、そういう旅の軸に、戦地訪問があったのである。
 1877年には露土戦争にも従軍、この時には、軍人だった弟が戦死、自身も負傷した。それほどの危険と隣り合わせでありながら、戦場への旅をやめようとしない理由を、彼自身は次のように語っている。
 「私は常に太陽を愛し、陽光を描きたいと願ってきた。はしなくも戦闘を目にし、それについての考えを語り終えたなら、私は喜んで再び陽光に身を捧げるだろう。だが戦争への怒りが、私を追いたて続けるのだ」――。
 怒りが行動の画家の原動力だとするが、異境の風俗に触れて描いた名もない庶民の穏やかな姿も、まぎれもないヴェレシチャーギンの魅力ではある。
 1903年、日本を訪れたヴェレシチャーギンは豊かな伝統文化と静かなたたずまいが気に入り、神社仏閣や女性、僧侶、農民などを描き、帰国して展覧会を開いた。だが風雲急を告げ、日本との間に戦争が始まってしまった。
 ヴェレシチャーギンは従軍画家として極東に向かい、名将マカロフ提督率いる戦艦ペトロパブロフスクに乗船した。1904年4月13日、ペトロパブロフスクは日本軍の仕掛けた機雷に触れ、旅順港にて爆沈、提督や将兵500人とともにヴェレシチャーギンも戦死した。日本を愛した画家は、皮肉にも、日本との戦争によって亡くなったのである。
 興味深いのは、ヴェレシチャーギンの死を悼む声が日本でもあがったことだ。幸徳秋水は自身の主催する『平民新聞』でヴェレシチャーギンを追悼し、彼自身の文章に加えて、『大菩薩峠』で知られる作家・中里介山の追悼文を載せた。
 「戦争の悲惨、愚劣を教えんとして、而して戦争の犠牲となる。芸術家としての彼は其天職に殉じたる絶高の人格なり」――。
 北方領土の返還をめぐり、日露関係が動こうとしている。負の歴史を乗り越え、ヴェレシチャーギンの本格的回顧展を、日本とロシア両国で是非にも開いてもらいたいものだ。

▲ 第27回「奥」を読む