第23回 奥

聖母マリアの乳房を探せ!

作家 多胡吉郎

 聖書が伝える聖母マリアは、処女のまま懐胎し、イエスを産んだとされる。
しゅを産み育てた、聖なる母である。ひとりの女性を超越している。女であることを封印されていると言ってもよい。白粉を塗ったり口紅をつけたりは勿論、肌を露出するなど、性的なイメージを醸し出すものはすべてご法度となる。
 だがここに難しい問題が介入する。何といっても母なのである。セックスなしに産んだ子であっても、乳はあげねばならない。当たり前だが、授乳は乳房を赤子に含ませることで成立する。
 赤子を胸に抱き、乳を与える母の姿には、慈愛と安らぎが満ち、誰しもが聖母的なイメージを抱く。だがその乳房という器官は、一面においてはエロスの対象、男にとっては性的な魅力を感じてならない、燃えたぎる情念の泉のような存在である。
 聖書は旧約から新約に至るまで、基本的には男性原理に貫かれている。その偏りを補うように、聖母マリアがまさに乳を授けるかのように女性原理を注入している。
 母として慕われるということは、本来、女性として愛されることの延長上にある。母としてのみ許されて女であることを否定された聖母マリアとは、かなりの無理くりというか、狭いところを綱渡りするようにして存在する。
 逆に言えば、画家としては腕の見せどころでもあったろう。幼子イエスを抱く母はまだ充分にうら若い女性なのである。無論、美しくなければならない。しかし、性が匂いたつようではまずい。隘路ゆえに、多くの画家たちが挑んだ。美的には隘路ではあっても、教会が君臨する社会にあって、聖母の絵はメジャー中のメジャー、そこで名をあげねば画家として身を立てられないという事情もあった。
 だがもうひとつ、聖母像には秘められた画家の意欲、野心がほの見える気がする。母と女性との間を微妙にまたぎつつ、時に禁忌に触れかねない細心にして大胆な企てがちらつく。その象徴となるのが、聖母マリアの乳房だ。
 母としても、乳房は赤子を育てる命の糧。ましてこの場合、幼子はイエス・キリストである。主の聖性の源は聖母マリアの乳房にある。だが同時に、乳房はあまりにも美しいのである。麗しく、身もとろけるまでに愛しいのである。官能の美の極みがここに息づくのだ。
 「授乳の聖母。Madonna lactans」というジャンルがある。試しにアルファベットのままネット検索にかけてみるがよい。たちどころに、胸に抱えた幼子イエスに乳を与える多くの聖母が現れることだろう。
 その中にあって、比較的早い時期に描かれ、私のお気に入りでもあるヤン・ファン・エイクの作品から見て行こう。1436年の作と言われる「ルッカの聖母子」である。
 一見して、美しい聖母子像である。まだいくぶん中世的な趣を残しつつ、慎みと気品に溢れている。聖母は幼子にふくませる右の乳房をあらわにしているが、乳首は見えそうで見えない。ちょうど乳を吸う幼子イエスの口で隠されている。
 装飾性に溢れた空間は、大聖堂の奥まったところにある小さな礼拝堂を思わせる。絵自体が祭壇のようでもある。灯りとりの窓から差し込む柔らかな光が素晴らしい。2世紀あまり後のフェルメールを先取りした感すらある。水を張った金属盆や窓辺に置かれた2個の果実など、隠喩として置かれた小道具は多いはずだが、イコノロジー的な解析を超えて、自然と迫りくる美しさがある。
 礼拝堂を思わせる一方で、ひょっとするとどこかの家の化粧室で、人目を避けて授乳しているのではと感じさせる雰囲気もある。インティマシーの由来はどこかと疑問を深めていたが、聖母のモデルが画家の妻、マルフリートだと知って、なるほどと感じた。妻が授乳する姿に、画家は無垢なるものを感じ、聖母に重ねたのであろう。
 聖母は聖性を残しつつも、ぐっと人間に近づいている。北方ルネサンスが生んだ名品である。


 ルネサンスとは人間復興であった。キリスト教的なドグマからの人間解放を精神とした。聖母マリアもルネサンス以降は人間らしさが加わり、血も涙もある生身の女性、母の物語として描かれた。
 聖母子像において、人間として見直しが行われたのは、母であるマリアだけでなかった。幼子イエスも、ただ無表情に乳を含むばかりでなく、活き活きとした赤ん坊らしい表情や仕草を与えられることになった。動きが生まれたのである。
 コレッジョの「授乳の聖母」(1524年頃)はそうした動きをとらえた傑作である。幼子イエスは、ただ無表情に聖母の膝に抱かれ、じっと顔を母の胸に埋めるだけの存在ではない。元気のよい男の子であり、愛くるしい赤ん坊そのものである。
 それまでは母乳を吸っていたのだろうが、幼子は隣の天使が抱える果物籠に興味を引かれ、手を伸ばす。その瞬間、幼子の顔は母の胸を離れ、マリアの乳房があらわになる。聖母の表情は、あくまでも穏やかである。幼子イエスとの関係も、ほのぼのとして微笑ましい。
 17世紀の宗教家ジョヴァンニ・ドメニコ・オットネルリが書いた『絵画と彫刻に関する考察』という書物では、コレッジョのこの絵が、「宗教的画題が世俗絵画とは異なるよきモデル」として称揚された。乳房をあらわにしたとはいえ、絵のもつ聖なる雰囲気は、宗教画の模範的姿として、教会サイドからもお墨付きを得たかたちとなったのである。
 それから約200年の後、バロック後期のオランダの画家、アードリアン・ファン・デル・ヴェルフが描いた「聖家族」(1714)を見てみよう。
 さくらんぼの実がなる枝を幼子イエスの頭上にかざして、あやすヨゼフ。すっかり関心を奪われ、実の一部を手にもぎとる幼子。母マリアはそれまで含ませていた乳房をそのままにしたまま、慈愛の眼差しで我が子を見つめる。
 穏やかな幸福感の漂う中、父と母、子の姿はどこまでも身近で、聖性はすっかり濾過されている。右の乳房をすべてさらけ出したマリアは、我が子愛しさに微笑む若き母であって、ことさらに聖母である必要などない。そこには、可憐で美しく、品のよい官能性すらも漂う。
 ヴェルフは神話世界を画題に裸体画を多く描いた人で、ここでも、マリアのはだけた胸と乳房の美しさは輝くばかりである。聖家族を描きつつ、聖母は女性としてもこよなく充実し、健やかにしてつつましいエロスを発散してやまないのだ。


 ところで、イタリア絵画の「授乳の聖母」について原題を調べると、「La Madonna del Latte(ラ・マドンナ・デル・ラテ)」とされている場合が多い。日本語でも「授乳」と「乳」があるので当然ではあるのだが、あの「カフェ・ラテ」にある「ラテ」と同じなのだ。「ラテ」=「乳」、すなわち「ミルク」――!
 聖母マリアのもつ聖性のうち、この「ラテ」に着目した絵画がある。マリアの乳房からほとばしり出る白い乳を画面に描き出した絵画である。
 アロンゾ・カーノの作品、「聖ベルナルドゥスと聖母」(1657~60)は、2018年、国立西洋美術館や兵庫県立美術館を巡回した「プラド美術館展」で展示された作品だが、ある意味、訪れた人々の目を最も驚嘆させた1点であった。
 聖像を仰ぐ僧の口に向かって、マリア像の胸から、あたかもビーム光線か何かのように、乳が注がれる(率直な、そして品のない喩えで言えば、小便小僧のおしっこのようでもある!)。絵の巧拙、美であるか否か、そういうことを超えて、目にした瞬間、「えっこれ何? こんなのありなの?」という疑問が衝撃とともに脳天を貫く。
 聖ベルナルドゥスについては少し説明が必要だろう。12世紀フランスの神学者で、シトー派を改革、自身が開いた修道院の名から、「クレルヴォーのベルナルドゥス」とも呼ばれる。また、聖母マリアに対する熱狂的な信仰でも知られている。
 有名な逸話が残されている。聖ベルナルドゥスが聖母マリアの彫像を前に拝跪し、母である御印をお示し下さいと祈りを捧げたところ、彫像から乳が流れ来て、彼の口元に注がれたという。あるいは、聖母マリアへの祈りを凝らし、その姿を幻視していると、実際に眼前に聖母が現れ、聖ベルナルドゥスの口を乳で濡らしたという。要は、イエスを育てた聖なる「ラテ」(乳)が、奇跡によって、敬虔な僧の口にも与えられたというのである。
 キリスト教はもともと、男性原理の濃い宗教であった。マリア信仰は、主イエスへの信仰と同時の起源をもつものではなく、だいぶ遅れてから公民権を得るようになった。キリスト教史にあって、聖母マリア信仰をひろめることに尽くしたのが聖ベルナルドゥスで、民間信仰のようなレベルを超え、きちんとしたキリスト教の公儀においても、聖母マリアの乳があたかもキリストの血に匹敵するかのような聖性をもって考えられるようになったのである。
 アロンゾ・カーノはベラスケスと同時代のスペイン画家だが、聖ベルナルドゥスの「ラテ物語」は、とりわけスペインでは人気があったらしい。カトリック伝統の最も濃い部分が凝縮しているのだろう。みどりごイエスを抱くマリアの乳房から白い筋を描いて放射される「ラテ」を通して、聖母から聖人へと「聖性」が注入され、両者の聖なる絆を強く結ぶのだ。
 スペインに生まれ、17世紀のポルトガルで活躍した女流画家、ジョセファ・ド・オビドス(ジョセファ・ドビドス。またはジョセファ・ド・アヤラ・エ・カブレア。ジョセファ・ド・アヤラ・ドビドスとも)にも、聖母の「ラテ物語」を描いた絵がある。
 私の知る限り、「聖ベルナルドゥスへの授乳」という絵が2作品あり、どちらも1670年頃に描かれた。これは勿論、カーノと同じく、聖人伝説に依拠したかたちだが、彫像ではない生身の聖母が、右乳を手で揉み、乳をほとばしらせる。白い乳は聖ベルナルドゥスの口元に真っ直ぐに飛んで行く。
 オビドスはその作品の殆どが宗教画であり、ポルトガルのバロック絵画画家として、また珍しい女流画家として、近年とみに評価が高まっている。このオビドスが1664年に描いた「聖家族」でも、聖母は乳飛ばしの秘儀を演じている。
 ヨセフが差し出した十字架に手をかけ、そちらを向く幼子イエス。無論、将来の磔刑による殉教を暗示しているのだが、その様子を目にした聖母マリアは、それまで子に含ませていたままに、右の乳房にそっと左手を添え、乳首から白い乳を放出させる。
 この聖なる「ラテ」は、聖ベルナルドゥス伝説をすっかり離れ、純粋に聖母の属性として存在している。しかも、我が子の将来の受難を予見して絞り出されたことからすると、ここでの聖母の乳は、母の愛と哀しみの象徴であるのかもしれない。
 「嘆きの聖母」「悲しみの聖母」は、宗教美術においてメインテーマのひとつであり、悲痛にくれた聖母はしばしば涙を浮かべ流している。また、特に「マドンナ・デッレ・ラクリメ(涙の聖母)」と言えば、絵画や彫刻の聖母像が流した涙の奇跡として神聖化され、熱く語られ続けている。
 だが「聖母の乳」にも、それと同じく、象徴化された意味合いがあるのではないだろうか。とりわけ、このオビドスの「聖家族」に描かれた聖母の乳は、愛と悲しみを表す象徴的メタファーとしての色合いが濃い。
 そこにはおそらく、オビドスの女性ならではの視点と意識が反映されているのであろう。


 禁忌に挑むかのように、聖母の乳房が官能性を最大限に発揮した絵がある。時代的には少し戻って、15世紀のフランスで活躍したジャン・フーケの描いた「ムランの聖母子」(1450年頃)がそれである。
 フーケはイタリアに学んで、初期ルネサンスをフランスにもたらした画家と言われるが、この「ムランの聖母」は、そういう美術史学的な知識を突きぬけてしまっている。私は初めてこの絵を知った時、現代作家の絵ではないかと誤解してしまったが、それほどに、突然変異的に現れた謎の絵なのである。
 聖母は現代のトップデザイナーの仕立てではないかと見まがうようなシャープな服を着て、左の乳房をすべて露出させている。幼子イエスは、その乳房に無関心のように座して、その前まで母の乳を吸っていたようには感じられない。授乳の聖母という伝統の枠は、この革命的絵画にあっては粉砕されているに等しい。
 特筆すべきは、マリアの発散するエロスのオーラだ。磁器のような光沢を放つ白い肌。まるまるとして張りのある豊かな乳房が、目を釘付けにする。普通、授乳の聖母といえば、ほのぼのとしてやさしさに満ちた慈愛のトーンになるものだが、ここでは玲瓏という言葉が合うほどに、並の母子像を離れて、独自の威厳に屹立しているのだ。
 実はこのマリア像には、モデルがいたという。シャルル7世の愛人で、絶世の美女といわれたアニェス・ソレルだ。それまで男性しか身につけなかったダイヤモンドの宝石を初めて身につけた女性であると言われ、また王妃から王の愛妾としての存在を認められたフランス初の公式寵妃であるとも言われる。また、「勝負服」よろしく胸をはだけた衣装を身にまとい(当時の流行でもあったらしい)、王を喜ばせたという。
 シャルル7世との間に3人の子をもうけたが、4人目の子の出産を控えて流産し、亡くなった。27歳であった。毒殺の可能性が高いとも言われる。美貌を武器に手にした権勢に対し、妬み反発する者も多かったのだろう。
 フーケの絵に戻ろう。王家の愛妾が聖母に比せられたのである。フランスのようなカトリック国においても、王を虜にした最高の女性が聖母と讃えられる構図が出現したことになる。
 天上の権威は地上の権威と結びついた。そしてその時、聖母は、平素は秘めているエロスを大胆にも発揮、妖しいまでの美に発光したのである。その美の中心核に、輝くばかりの乳房があったのだ。
 聖母マリアとは何であるのか――。
 男性原理の極端な見方からすれば「借り腹」であるマリアが、やがて女性原理を担うかたちで聖壇に加わり、聖母としての位置を占めるに至った。
 甘美や親しみと愛、そしてキリスト教世界が抱え込んだ矛盾や欺瞞までをも含みつつ、多岐にわたる伏流水の中で聖母像は揺れる。
 その揺らぎの芯に、幼子イエスを抱えた若き母の胸のふくらみがある。聖母マリアの乳房が示唆するところは意味深長、どこまでも豊穣である。

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