壁を越えるものに惹かれる。絵画と音楽が交差する作品とあれば、おのずと注目が高まる。例えば、大のお気に入りのフェルメールのなかでも、ヴァージナル(チェンバロの前身となる鍵盤楽器)が描きこまれていると、絵への興味は倍加する。そして、今回とりあげる作品は、まさに音楽と美術が交わり、楽器が登場する近代絵画の代表作ともいえるものだ。ルノワールの「ピアノを弾く少女たち」――。
画家にとって、出世作ともなった記念碑的作品でもある。1892年、詩人マラルメらの尽力によって、「ピアノを弾く少女たち」が国に買い上げられることになった。ルノワールは色彩やディテールの描きこみが少しずつ異なる6バージョンを準備し、そこから美術長官によって選ばれた1点がリュクサンブール美術館に収められた。今ではオルセー美術館が所蔵する。
ルノワールにとっても、印象派全体としても、作品が国に買われることは初めてであったという。この時に選ばれなかった他のバージョンのうち2点は、オランジュリー美術館とメトロポリタン美術館で見ることができる。
オルセー所蔵のものは、2016年の春から夏、東京の国立新美術館で開かれたルノワール展にも出品された。美術と音楽が交差した傑作であると同時に、いかにもルノワールらしい、代表作のひとつとなっている。
国が買い上げた事情には、ピアノを弾く少女という内容が、フランス国が所蔵するにふさわしいとの判断が働いたからでもあったろう。フランスではこの時代、家庭でのピアノ学習が盛んで、それなりの経済力を有する市民であれば、一家に1台といった具合で普及が進んだ。ピアノのある風景は、国民的家庭の理想像として、その幸福の象徴として、国のお墨付きを得たのだった。
音楽ファン、楽器マニアならば、金の燭台が突き出た特殊なピアノに目が行くことだろう。フランスのピアノメーカー、プレイエル社のアップライト・ピアノ。プレイエルのピアノといえば、ショパンが愛用したことで知られ、彼のパリのアパルトマンには、同社のグランドピアノとアップライトが1台ずつ置かれていた。マジョルカ島で「雨だれ」前奏曲を作曲したのも、プレイエルのアップライト・ピアノでであった。
だが、敢えて言おう。この絵からは、音楽はほぼ聴こえてこない! ピアノを弾く少女とその横に立つ少女の視線はともに楽譜に注がれてはいるが、その手から紡ぎ出される音は、せいぜい音符を拾っているレベルで、流麗な音楽など溢れようもない。ショパンの記憶など、粉砕されてしまっている。「猫ふんじゃった」だって、聴こえてくるかどうか、怪しいものだ。
後退を余儀なくされた音楽に代わって、この絵を支配している音は、少女たちの屈託のない会話と笑い声だ。「ねえ、今度の新任の先生、なかなかハンサムじゃなくって? まだ独身だそうよ」、「もうすぐ叔母さんのところに赤ちゃんが生まれるの。お祝いは何がいいかしら? 3人目だもの、ネタがつきちゃって……」、「チョコレートムースなら、××の店が最高よ。ああ、考えただけで、よだれが出ちゃうわ!」――そんな会話が後から後へと続き、そのたびに弾んだ笑い声が部屋を満たす。ピアノの音のほうは、その合間を縫うように、ぽつんぽつんと鳴るだけだ。
窓から差し込む明るい光を受けて輝く少女らの黄金色の髪、柔らかい肌や衣裳、カーテンやら周囲の家具、それらが少女たちの声をやさしく包んで、何気ないながらも、人生における確かな幸福の瞬間(とき)を祝福する。数年後には、もはや繰り返すことの不可能な、愛しくも純な輝き――、ここではピアノは音楽を奏でる楽器というより、周辺の家具と並ぶ調度品として幸福色に塗られている。
絵画における楽器は、中世以来、寓意を秘めてきた。異性を慕い、思い焦がれる情念――。楽器がふたつ、意味ありげに並んでいれば、それは男女の睦み事を暗示している。無論、キリスト教の倫理や道徳が厳として存在するので、ハッピーモードで描かれるとは限らない。絵画による放縦への戒め、教訓として、楽器が登場させられた場合も多い。
だが、このルノアールのピアノには、そういう寓意や教訓の辛気臭さは微塵ほどもない。少女たちの笑い声によって、見事に吹き飛ばされている。音楽は神秘ですらない。楽器はダイニングテーブルや衣裳箪笥などと同じく、ひたすら日常の具としてそこにある。或いはこうも言えよう、ルノワールにとっては、笑い興じている少女こそが神なのだ、と……。
元来、印象派は、古い絵の流儀を打ち砕く、革命的なアーティスト集団であった。ルノアールに関しては、そういう過激な反逆ぶりが強調されることが少ないが、ピアノと少女を描いたこの絵において、いかんなく本来の革命性を発揮している。