第11回 奥

自画像という多面鏡

作家 多胡吉郎

 自画像という絵画ジャンルは、他人の肖像を描くよりも、よほど後になって生まれた。しかるべき質の鏡が開発される前には、おのれの姿をまじまじと見つめることは不可能であったし、さらに、自己を凝視する精神というものが、ルターの宗教改革が神と自己が直接に向き合う道を開いたことで生まれ、その結果として、多くの自画像が描かれるようになるのである。
 そのことを如実に物語るのが、自画像の創始者と言われるデューラー(1471~1528)である。それ以前、画家が作品の中で集団の中に自分の姿を登場させるようなことはあっても(例えばボッティチェリの「東方三博士の礼拝」)、自分ひとりの姿を独立して描くということはなかった。
 そのデューラーには、いくつかの自画像がある。最も早くは1484年、13歳の時のもので、油絵ではないがデッサン力は実にしっかりとしている。続いて1493年、1498年と続く。
 1493年の自画像は、夫の忠誠を象徴するというアザミを手にしていることから、一般には婚約した妻への贈り物と言われている。もっとも、アザミにはキリストの受難を表す意味もあるようで、画面に描かれた文字、「我が身に起こることは、天の思し召し」を見ると、後の1500年の自画像につながるキリストとの一体感が窺われもする。
 1498年の自画像はイタリア風の華やかな衣装と装身具をまとう。デューラーはドイツ・ニュルンベルクの人だが、ルネサンス最盛期のイタリアで画家としての修業を積んだ。故国ドイツではイタリアに比べ画家に対する人々の意識が低く、職人としてしか見なさない風潮があり、デューラーはそういう社会の非成熟に対し、めいっぱいイタリア風に装うことで抗っている。俺は芸術家だぞという自負、自己主張が聞こえてきそうだ。
 そして、決定的な自画像にたどり着く。いわゆる「1500年の自画像」――。デューラーが自画像の画家として真に確立したのは、この絵をもってしてであろう。それまでの彼のどの自画像とも違って、自分自身の姿を真正面からとらえている。長い髪、伸びた髭など、その姿は一見して明らかな通り、キリストに見まがう。敢えて、受難の聖者におのれを重ねているのだ。深い眼差しを中心とした表情の迫真力はもとより、どこをとっても、突き抜けた感がある。
 この時、画家は28歳であった。栄光にしろ苦衷にしろ、既に世の中を知るに十分な年齢ではあるが、それでいてなお若者らしいたぎる血は衰えていない。それ以前の自画像からもデューラーが画家の処遇を巡って社会との軋轢(あつれき)を抱えていたことは間違いないが、ここに至って、不満をかこつ次元から大きく踏み出し、自分の生きるべき道を進む意思を固め、宣言したのだろう。
 悲壮の覚悟といってよい。力強くありながら、どこまでも澄んでいる。画面の余白に書かれた文章に曰く、「ニュルンベルクのアルブレヒト・デューラー。私自身、自らを変わらぬ色をもって描く」――。不退転の決意なのである。実際、これ以降、デューラーは2度と自画像に手を染めていない。
 自画像には、おのれの精神のありようや矜恃を描くことで、気概を示し、生き方を宣言する意図をもつ場合がある。自画像の創始者たるデューラーが打ち立てた金字塔のようなこの作品には、色褪せぬ不滅の覚悟が月日を超えて脈打っている。


 少し場所が飛ぶ。2014年の秋、古代史関係のリサーチで韓国の国立光州博物館を訪ねた時のこと、偶然にも朝鮮王朝時代後期の画家、尹斗緒(ユン・ドゥソ 1668~1715))の特別展が開かれていた。殆ど予備知識のないまま駆け足で回ったのだが、その中の1点、自画像の前で動けなくなってしまった。
 不覚にも、日本を含め、東洋には西洋のような個人としての自己を見つめた自画像は存在しなかったと思い込んでいた。神のありよう、そして神との距離や対峙の仕方がおよそ異なるせいではないかと推量していた。
 だが、それまでの浅はかな「常識」を粉砕するように、その朝鮮士大夫の自画像は圧倒的な力強さで迫ってきた。その衝撃たるや、これまで韓国で目にしたあらゆる絵画のうち随一であったといっても過言ではない。
 射抜くような眼光を放つ切れ長の目。陰影を刻む深い皺。耳の下から顎までを覆う細い毛と髭。両の眉から鼻梁を経て口唇の脇へと流れる張り詰めた気……。すべてが、赤裸々におのれを凝視した圧巻のリアリズムとして押し寄せる。しかも、上半身の像なのだが、衣服の部分が退色し、まるで『サロメ』のヨハネのように、首だけが突き出た恰好であるのが、ちょっと恐ろしささえ感じさせる。
 尹斗緒は全羅道海南(チョルラド・ヘナム)の人で、文人画家として知られた。地域を代表する名家の当主であったというが、書芸に秀で、人物画や動植物の絵などをよく描いた。また、天文地理、数学、兵法にも通じ、実学的な素養もあったという。
 自画像は横20.5センチ、縦38.5センチ。それほど大きなものではない。17世紀末に描かれたとされる。尹斗緒の自画像はこの1点が知られるばかりだが、まさしくこの1点の自画像によって、彼の名は朝鮮史を超え、世界の絵画史に刻まれたというべきである。日本ではまだ殆ど知られていないが、今後、世界で注目されてゆくことだろう。
 それにしても、眼光を核として放たれるこの強烈な力の正体は何であろう。尹斗緒はどのような気持から、朝鮮の絵画伝統からかけ離れたこのような自画像を描いたのか?
 当時この絵を見た尹斗緒の友人、李夏坤(イ・ハゴン)という画人が、「外貌からは道士か剣客のようにも見えなくもないが、真実を重んじ謙譲に満ちた風貌は、篤行する君子だとしても恥ずかしくない」という趣旨のことを書き残している。あくまでも儒学的な文脈で、理想の士大夫像をものしたと解釈したわけだが、道士か剣客のようだとした外貌の異様な迫力については、認めざるを得なかった。
 確かにこの自画像には、力の籠った気骨、気概が感じられる。だが、決して単純なものではなさそうだ。不如意や憤怒、慨嘆など、多くの負の感情を抱えながら、にもかかわらず、日に日を重ねてゆくといった虚無感すら漂う気がする。何にもまして肝心な点は、ここにははっきりとひとりの男が、虚飾を廃して描かれていることだ。私の眼には、儒教という殻をも剥いだ生身の人間が見えるばかりである。
 ある意味、正面から捉えたこの自画像は、デューラーの「1500年の自画像」の革命性に匹敵する。300年以上の時を突き抜け、近代を先取りしている。個というものが、厳かに息をしている。そして、自画像というものの本質に西洋も東洋もないことを、教えてくれている。


 話を西洋に戻そう。
 自画像をよくした画家のうち、古典の巨匠としてはレンブラントが第一人者に違いないが、近代の入り口にあって自画像にこだわった画家といえばゴッホであることは、衆目の一致するところだろう。
 ともにオランダの画家である点は興味深いが、宗教画よりも風俗画、人物画の伝統をはぐくんだお国柄が自画像の花咲く土壌を提供したと言えようか。
 レンブラントが長い人生の折々に自画像を描いたのに対し、ゴッホの自画像はその殆どが晩年の3年半に集中している。それでも、37年の短い生涯に40点を超える自画像を残しているのだから、自画像へのこだわりは並大抵ではない。
 以前、ゴッホとジャポニスムについて書いた折にも少しだけ触れたことがあるが、ゴッホの自画像の中で私がまず注目したいのは、1888年9月、アルルで描かれた「ボンズ(坊主)としての自画像」だ。パリの暮らしを引き払い、南仏アルルに移って半年後の作品になるが、ゴーギャンとの共同生活に入るに当たって、挨拶として献呈された絵でもある。ゴーギャンもまた、自画像を描いてゴッホに捧げている。
 従ってこの絵は、「僕という人間は、こういう人間なんだ。芸術家としてかくあらんと欲しているんだ」という、メッセージに裏打ちされた自画像ということになる。日本の坊主に擬せられたのは、ロティの小説『お菊さん』を読んだ影響であることはもちろんだが、それ以上に、ゴッホ自身の魂が欲する精神的求道性の現れである。要は、芸術以外はすべてを捨てて、ひたすら絵画を極めたいとする悲壮な覚悟なのだ。
 注目すべきは、色である。背景は緑で塗り込められ、自身の顔や服にも緑が映り込んでいる。ゴッホが生きた時代、既に写真が発明されていた。弟テオへの手紙で、「自画像は写真ではない。もっと深いものがなければならない」とゴッホは述べているが、写真的写実性を乗り越えるひとつの手立てが、色彩であったことは間違いない。
 1890年1月に描かれた、「包帯を巻きパイプをくわえた自画像」では、赤茶色が顕著だ。前年12月末にゴーギャンとの共同生活が破綻、ゴッホは片耳を切り落とし、精神病院に入院した。赤茶色は、耳を切り落とした際の血の色がイメージされたものだろうか。
 もっとも、同じ月に描かれ、バックに浮世絵がかけられた「耳に包帯をした自画像」では、再び緑色が画面を支配している。彼の信じる「日本」が絡むと、緑色が登場するのだろうか。だとしたら、おそらくは「自然」のイメージと重なっていたはずだ。
 1889年9月の自画像では、青が支配する。背景は無象だが、めらめらと波立ち、渦を巻いている。自身の心理、人間存在の深いところまでをも、色彩で表現しようとしている。渦巻くさまは、誰もが「星月夜」との類似性を思うことだろう。どちらも、サン・レミの精神病院に入院中、描かれたものだ。
 ゴッホの自画像の多くは、人に贈るものだったと言われる。そこには当然、自身の理想、こうありたい、あらねばならないという願望が入り込んでくる。
 ゴッホは真剣な人だった。理想の追求において、過剰の人だった。そのゴッホにとって、自画像とは覚悟を刷新し、おのれの道に邁進することに他ならなかった。馬車の御者が馬に鞭をふるって前に進めさせるように、自らに鞭打つのである。知らず知らずのうちに、自画像がゴッホを追い込こむことになったのではなかろうか。
 レンブラントは、折々に自己と向き合い、自画像を描くことで、心を落ち着かせた。だが、ゴッホにとっては逆である。自画像によって、なおいっそうゴッホは駆り立てられ、尻に火がついたように、生き急ぐ結果となってしまった。
 晩年になるほど、ゴッホの絵からは悲痛な叫びが聞こえてくる。自画像を描けば描くほど、自らに課した理想の純化と絶望という負のスパイラルに、アクセルがかかってしまった。37年の生涯が自死という形で終わるのも、晩年に集中して描かれたおびただしい自画像が導いた悲劇のように思えてならない。


 レンブラントで始めた自画像の考察の締めは、再びレンブラントにご登場願おう。
 私は先に、レンブラントの自画像は「戻って行く世界」であるとした。私生活の波乱や輝かしい画業の合間に、常に立ち戻って行く世界であり、自己を見つめ、心の高ぶりを抑える鏡であったと述べた。
 レンブラントの自画像から受ける印象と、宗教画や歴史画など、堂々たる大作から受ける印象は、やはり随分と違う。例えば「ベルシャザールの酒宴」も「ダナエ」も私の好きな絵画だが、そのドラマティックな構成、光の演出の見事さに唸らされはするものの、その感動の質は、基本的に心を高ぶらせるものであって、彼の自画像を覗く時のような静かに寄せ満ちてくるものとはおのずと異なる。
 集団肖像画の代表作「夜警」にしても、圧倒的な力感や物語の一景を見るような構成力を前に脱帽し、またオランダ黄金期の市民社会の矜恃に触れ胸を熱くもするが、彼らに注がれたレンブラントの眼差しは、おのれ自身の内面の深いところまで省察した自画像のものとは違う。やはりレンブラントは、一方では他の追随を許さぬドラマティックなスペクタクル性が真骨頂であった巨匠なのだ。
 ところが、最晩年のある宗教画に於いては、レンブラントのふたつの眼差しは見事に統合し、自画像と宗教画の境界を超えた作品に昇華している。エルミタージュ美術館にある「放蕩息子の帰還」がそれだ。
 テーマ自体は新約聖書のルカ福音書からとられた普遍的なものだが、放蕩生活の果てに帰宅した息子を迎える老父と、許しを請うて父の前に跪く息子の姿が、自画像を描く筆致に限りなく近い。
 跪く放蕩息子は後ろ姿で描かれ、顔つきなどはよくわからず、「のっぺらぼう」のように、虚ろな印象を与える。頭も禿頭なのではなかろうか。私はゴッホの自画像の「ボンズ(坊主)」に似ていると思った。
 すべてを喪失した虚ろなる者、それでいて、なおも生きることを選んだ者……。それは、若き日以来、放恣を尽くして真実を得ることがなかった、レンブラントの自己の姿であったことだろう。
 では、その放蕩息子を迎えた老父は、誰なのか? 興味深いことに、寛容を示し、無限の愛で抱擁するこの老父もまた、レンブラント自身の心の反映に違いないのである。
 人生の月日を重ね、すべてを許すことができる境地――。実際の年齢から言っても、老レンブラントが到達した心映えは、放蕩息子の老父と近かったはずである。
 父子ともに、おのれの自画像が重ねられている。敢えて言うなら、若き日の自分と老いてからの自分が融合し、ひとつの輪を描くように調和のハーモニーを奏でている。
 聖書に依拠した歴史物語の場面を描く宗教画でありながら、ここでは自画像が多面性を発揮し、複合的な高次の世界を構成している。そして、大いなる慰謝を醸し出す。
 生涯にわたって宗教画の傑作を描き、一方では自画像を描き続けたレンブラントの到達点が、間違いなくこの絵に結晶しているのだ。

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