私の心は、なおもロンドンのナショナル・ギャラリーのフェルメールの部屋に留まっている。「ヴァージナルの前に立つ女」と「ヴァージナルの前に坐る女」の2点の絵が、ずっと目の前にある。
ピアノの前身のようなヴァージナルという楽器を弾いていた女が、来訪者に気づき、こちらを向く。顔を向けた相手は誰なのか――。当然ながら、男であろう。女の想い人に違いない。もだしがたく胸に抱えた想いを鍵盤にぶつけながら、女は男を待っていたのだろう。それが今、ようやくにして男が現れ、女はまじまじと男に顔を向ける……。
逢瀬の時が訪れた。「立つ女」の絵では、空の椅子が置かれている。「坐る女」では弦楽器が置かれている。ともに相手が占めるべきものだ。うちとけた愛の語らい、官能の二重奏が始まるのだろうか。
だが、男を迎えたふたりの女の心理は微妙に違うようだ。状況的にも「立つ女」は昼であり、「坐る女」は夜だ。「立つ女」はどこか自立的であり、毅然としている。「坐る女」はちょっとのぼせたような表情を浮かべ、今にもとろけそうな駘蕩とした陶然の中に息をひそめる。待たされ、じらされた時間経過の過程で、想いが充分に熟れている。敢て言えば、「立つ女」は演奏の手を止めたように見えるが、「坐る女」の音楽は鳴り続けている気がする。妙な言い方になるが、たとえ手をとめたとしても……、だ。
ひょっとすると、「立つ女」が顔を向けたのは、想い人とは違う第3者なのかもしれない。男は女に言い寄るつもりだが、女はおそらくは遠国にいる愛する男への操をたてる覚悟なのではないか。背後の壁にかけられたカードを掲げる天使像の絵は愛する者はただひとりという隠喩であるらしいので、なおさらそのような印象がたつ。いや、そもそも女は来訪者に気づいてこちらを向いたわけではなく、想い人の来訪を期するあまり、実際にはない姿を幻視するようにこちらを向いたのかもしれない……。
このように想像の翼をひろげていけば、きりがない。こうかああかと、物語は際限なくふくらんでゆく。それは決して私が夢見がちであるとか、妄想狂であるとかいうことではない。フェルメールの絵が、そのように描かれているのだ。
物語という言葉を私は使った。いかにも、フェルメールの絵はふくよかな物語を内包している。物語を時間と置き換えてもよい。言うまでもなく絵は動かない。瞬間を切り取った動かぬ画面の中に、フェルメールは時間の流れや空間のひろがりをひそませる。鋭く切り取られた瞬間の中に内包されたこのひろがり、ふくらみが、物語ということなのだ。
オランダ絵画、特に風俗画の中には、ヤン・ヨーステンなど、画面上の登場人物に吹き出しでセリフを張りつけたくなるような愉快な出来の絵も多い。小市民的な家族団欒の風景であったり、その筋の女性を訪ねた男性客の鼻を伸ばした姿や、男女の間に介在するやり手婆の金欲しげな様子であったりするが、時に微笑ましく、時にえげつなくもあるそうした人物点描は、いかにも生活の一場面の写し=スケッチである気がする。
その手の絵とフェルメールには格段の差がある。どれほど物語の気配が濃厚でも、フェルメールの絵にはセリフの吹き出しは似合わない。セリフなど、つけられない。セリフがつくような、インスタントな場面設定をしていない。その時間的なひろがりを言葉に起こそうとすれば、ゆうに短編小説の一篇にはなろうかという、そういう謎めいた物語を秘めているのだ。
私はロンドンのナショナル・ギャラリーに通いつめる中で、フェルメールのこのような本質を思い知った。その上で、さらに何度か通ううちに、はたと気づいたことがあった。
瞬間から紡ぎ出されるこの物語のふくらみは、江戸の浮世絵師、鈴木春信に似ているのではないか――。
フェルメールの絵を光の魔術として賞賛する立場からだけなら、この連想は意味をなさない。だが、一瞬に刻んだ時間の深さ、そこに秘められた物語のふくよかさを思えば、私の目には両者は明らかな共通性を有する。
春信の代表作のひとつ、「雪中相合傘」を見よう。ひとつ傘の下で寄り添う男女。男の着物は黒で女は白、その対比が実に鮮やかだ。後ろには降り続く雪。しんしんと降る雪に埋もれ隠れるように、しかししっかりと息づくふたりだけの愛の世界……。
誰が見てもひと目で傑作とわかる。構図も色合いも、見事というしかない。無論、摺り技術の革新性を指摘することも可能だが、ここではそのような視点はひとまず置く。フェルメールを光の魔術師という観点でのみ語ることを避けるのと同意だ。
注目すべきは、瞬間にこめられた時間のひろがりだ。相合傘の男女がしんと静まり返った雪の日にどのような事情で歩み行くのか、ふたりに交わされる会話はどのようなものなのか等々、物語性はいかにも濃厚でありながら、吹き出しのセリフなどでは納まりきらない奥行がある。単なる若い男女の親密さなどという次元を超えた、秘め事のような恋模様がある。秘めるべき事情を雪が覆いつつ、ふたりの愛はせつなくも美しく輝き、見る者の胸をキュンとしめつける。
続く