第9回 表

クラナッハ。貧乳のヴィーナスが放つ至高のエロス

作家 多胡吉郎

 

 人間復興を奉じてイタリアにルネサンスが発祥して以来、多くの裸身の女性たちがキャンバスに登場することになったが、中世絵画における宗教の重しからの解放感からか、それらの裸婦像はまずもってボリューム主義を基本とする。豊麗にして艶冶、ふくよかに咲き開いた大輪の花。とりわけルーベンスやブーシェ、近代に入ってもルノアールなど、いかにも肉づきがよく、ゴージャス・ボディが過ぎてはち切れんばかりのふくらみよう、遠慮なしに言えば贅肉のたるみ加減に、ただただ圧倒されてしまう場合もある。
 そうした脈々と続く西洋絵画の裸婦像の系譜からすると、いささか違う道筋に咲いたとんでもない美の名花が存在する。北方ルネサンスの巨星、ルーカス・クラナッハ(父)の描く裸婦像だ。
 一見して明らかなように、クラナッハの美神は一様にひょろりとしてスリムで、背は高いが肉づきに恵まれず、はっきり言って貧乳、胴半ばは病的なまでにくびれて、成熟から遠い痩せぎすな女体を晒す。だがそれでいて、12頭身はあろうかという白く細い肢体が放つエロスは、妖しくも強烈な輝きに薫り立つ。
 その裸婦像に最も多いのは、ヴィーナスとクピド(キューピッド)を描いた絵だ。中には、「蜂蜜泥棒のクピド」と言って、食いしん坊のクピドが蜂蜜を盗み、蜂に刺されたバージョンのものもいくつかあり、このタイプならベルギー王立美術館のものを至宝と感じる。
 瀟洒な赤い帽子をかぶり、斜めに首をかしげた女の立ち姿、表情が実によい。背景にうっすらと木が描きこまれているが、多くは黒に沈んで、ヴィーナスの白い裸身を妖しく浮き立たせる。痩身長躯の肢体のなりも、内側から発光するような艶めく肌の輝きも、夢幻を見るように美しい。月光を浴びて静かに輝く氷雪のような玲瓏たるエロスの美、なるほど、豊満なばかりがエロティックなわけではないのである。
 澁澤龍彦の遺作となった『裸婦の中の裸婦』でも、クラナッハは真打ちの扱いで登場する。澁澤の曰く、「(ルーベンスやレンブラント、イタリア・ルネサンスの裸婦像のように)色彩の交響のなかに裸体を解き放つのではなく、線と形体のなかに裸体を冷たく凝固させる。われわれの視線に撫でまわされるための、一個の陶器のごときオブジェと化せしめる」――。
 「陶器のごときオブジェ」――。クラナッハの裸婦像を見事に捉えた至言であろう。蝋細工、蝋人形のようだとも言えようか。要は、切れば赤い血の噴き出るような現実味から遊離しているのだ。根も茎も葉もない、花だけが闇に浮くように咲いている。痩身長躯も、決してただのガリガリのノッポではない。よく見れば、微妙な膨らみやらくびれやら、パーツによって肉が加減され、その統一感が現実を超えた幻想めいて、極めて個性的なのだ。
 私の目には、この肢体はどこか両性具有的であるかのように映る。女と男という性別だけではない。少女か成熟した女なのか、さらには善と悪、清らかさと淫らさ、聖母的やさしさと人をたぶらかす妖婦的なまがまがしさなど、相反する要素を絶妙のバランスでともに抱えていると感じられる。対となるものをひとつ身に抱えて、独自の壺中の天をなしているようなのだ。ヴィーナスは、その壺中に鳴る神秘の音楽を耳にしているのではなかろうか。
 ゴッホなどと違い、起伏に富んだドラマティックな人生の逸話も伝わらず、クラナッハという画家の人間的なイメージについて、私たちはほとんど知らない。宗教改革のマルティン・ルターの知己であったというが、それがどう妖艶な裸婦像に結びつくのか、ほとんど謎に等しい。いったいどんな男が、一方では宗教者と親交を重ね、もう一方では、他の誰にも追随できない、毒を含んだような官能美の極致に薫る裸身のヴィーナスを描き続けたのか……。
 ヒントになると思しき事実がある。一連のヴィーナス像は、1530年前後、60歳が近づく頃に集中的に描かれている。肉体的な(男性機能を含めた)衰えを否応なく感じ、深まる孤独の中、死がそう遠いところにあるわけではないことを悟る年まわりになって、息はすれども血は通わずというか、この生死の境をまたぐような裸のヴィーナスが生まれるのだ。
 同じように、60歳の頃から、死への憧れと慄きを深めながら、官能の輝きを求めてこの世ならぬ女性美を描いた作家がいた。川端康成――。『眠れる美女』を頂点とする晩年の作品に横溢する、冷たく発光するエロスの凄みに結晶した妖しき華が、クラナッハのヴィーナス像とこだまし合うと思うのは、私だけであろうか。

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