タイトル

第36回 表

魂のエクスタシー 〜ルドン、『目を閉じて』〜

作家 多胡吉郎

 コロナで美術館に行けなかった数カ月の間、この騒ぎが収まったら、どの絵画作品を見たいかと考えた。パリのルーブルを始め、ウィーンの美術史美術館、ロンドンのナショナル・ギャラリーなど、世界を代表する美術館を再訪し、思う存分美術を堪能したいという気持ちは、憂鬱に沈みがちな心をもちあげてくれる気がした。
 しかし、今何を見たいかという希望は、やはりコロナの影響を受ける。多くの人命が喪われ、なおも終息の目途は立たず、地球上のあちこちで非寛容の瞋恚しんいが噴き出している現状に、否応なく心の傷を深めてしまっている。好きな画家のお気に入りの絵に再会したいと願う単純な気持ちからは、どうしても外れてくる。
 そして定まったのが、この作品。私の選んだポスト・コロナの1点は、オディロン・ルドン(1840~1916)の『目を閉じて』であった。
 セーヌ河畔のオルセー美術館を初めて訪れ、ルドンの展示室に足を踏み入れた時の衝撃は、今なお忘れがたい。きら星のように輝く印象派の名作に接して手ごたえを覚えた後に、その部屋に入ると、全く違った宇宙が開け、しばらくは方向感覚を失ったような戸惑いに立ちすくんだ。目が次第に慣れてくるにつれ、バッハのコラールでも聴くような静かな熱さが心にひろがってきた。
 自然界に溢れる光と色彩をどう画布に移すか、何よりもそのことに腐心した印象派の画家たちの作品に対し、ルドンはあくまでも人間存在の内面から輝く光にこだわった。外に向けて意識が開かれた絵と、ひたすら内側に向かって沈潜し意味を問い続けた絵。時代としては前者の全盛なのだが、世の流行りには目もくれず、ルドンは独自の道を極め、孤高の境地を切り開いた。
 オルセーのルドン展示室では、誰もが何がしかの哲学や思想を感じるであろう。絵が湛える深い精神性に魂を揺さぶられもするだろう。日本人なら、『仏陀』という絵に驚かされもしよう。東西の差を止揚し、キリスト教を超え仏教とも融和しようとする姿勢は明らかで、特定の宗教を超越した宗教性は、ルドンが終生希求してやまないものだった。
 『目を閉じて』もオルセーが所蔵するルドン作品のひとつ。画家50歳、1890年の作である。一見して穏やかで、瞑想的な雰囲気に満ちている。水の広がりの彼方に、目を閉じた女性の胸像が浮く。女性と書いたが実はかなりユニセックス的で、イエス・キリストのようでもある。
 目を閉じているのは、もとより単なる眠りとは違うが、生きているのか死んでいるのか、生死の境が崩れて、行き来自由になったようなところがある。死者の苦しみ哀しみを、生者が共感をもってその胸に引き取り、互いの魂の間にこだまを交わしながら、祈りに昇華させている。
 前半生、ルドンは孤独だった。1880年、40歳で結婚。1886年には長男ジャンが誕生し、喜んだのも束の間、半年後には赤ん坊が死んでしまう。1889年になって次男のアリが生まれ、その幸福のなか、『目を閉じて』が描かれたという。長男の死を受けとめつつ、次男誕生の喜びを噛みしめたのだろう。
 ルドンは目に独特のこだわりがあった。画業に手を染めて最初の20年間、敢えて色を用いずモノクロの暗いトーンのなかに怪奇幻想を紡ぎ続けた。ゲゲゲの鬼太郎もびっくりというような一つ目のイメージを繰り返し描きもした。世の偽りを見据えるように、白黒の眼球は宙に浮き、豁然かつぜんと開かれた。その画家が、淡い色彩のなかに「目を閉じた」絵を描いたのである。
 闇を突き詰めた先にようやく見つけた色のある世界。まだ色は薄く淡く、キャンバス地も露わなほどだが、手前の水の広がりには確信的な強い光が射している。静謐のなか、祈りが熟し、熱を帯びてくる。啓示を待つような、ルドン特有の魂のエクスタシーがじわじわと胸に迫る。
 実は日本にも、ルドンの「故郷」がある。岐阜県立美術館――。所蔵絵画のうち、西洋美術は意識的にルドンを軸に集められ、ルドン関連作品は250点を超える。『目を閉じて』というタイトルの、別バージョンの油彩画もある。1900年代に入って描かれた絵なので、オリジナルのものに比べ格段に色彩に富んでいる。
 私の選んだポスト・コロナの1点の別バージョンがこの日本にあるのだ。東西の垣根を超えようとした人だったので、画家本人も喜んでいるであろう。パリに飛ぶ前に、まずは岐阜を訪ねるかと、秘かに想を練っている。