テキストだけを読む スマートフォン、タブレット版を読む

第32回 奥

マネと音楽 ~格差と階層を超えて~

作家 多胡吉郎

会派の画家であったマネは、ずいぶん貧しい人たちを描いたが、彼自身は上流家庭の人だった。その家には、常に音楽が溢れていた。夫人がピアノをよくし、サロン・コンサートを催すほどの腕前だったからである。
 『ピアノを弾くマネ夫人』(1867~68 オルセー美術館蔵)という絵については、「ピアノのある風景」という回で触れたことがあるので、ここでは繰り返さないが、この作品のみならず、マネがたびたび音楽に関係するテーマで絵を描き、音楽が画業を貫く柱の一つのように見えるのは興味深い。しかも、社会派らしく、音楽にまとわりつく階層や階級、格差といった光と影についても、きちんとわきまえていた。
 マネと音楽ということで、まず思い出されるのは、『テュイルリー公園の音楽』(1862 ナショナル・ギャラリー、ロンドン)という作品である。マネがパリのシティライフを描いた最初の大作であると言われ、優に百人を超すであろう人々が緑陰にひしめき合う。
 一見して山高帽の紳士たちが多いので、上流の人々の集いだと知れるが、当時、セーヌ河畔のテュイルリー公園で週に2回開かれていたという野外コンサートを目当てに集まった人たちなのである。
 近代的なリアリズムがとらえた集団描写という点で、クールベの『画家のアトリエ』(1855 オルセー美術館)からの影響があるとも言われる。また、20年ほど後に描かれたルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』(1881 ワシントン・フィリップス・コレクション)につながるのも一見して明らかで、印象派の先駆者としての役割も見てとれる。
 不思議なのは、この絵の邦訳のタイトルだ。普通、『テュイルリー公演の音楽会』と訳されることが多いが、フランス語での原題は「La musique aux Tuileries」である。英語にすれば、「Music in the Tuileries」となり、これはつまり、マネにとって、この絵の主語は「音楽会(Concert)」ではなく「音楽(Music)」であったことを意味する。この点に注目した解説に接したことがないのは残念だが、実は単なるタイトルの和訳問題にとどまらない、絵の本質にかかわる重要なことのように感じる。
 「音楽会」とするには、この絵には、演奏者が不在である。楽団は一人も登場しないし、楽器も描かれていない。徹底して、音楽を聴く側、演奏を聴きに集まった人々の姿を描いている。しかも聴衆を正面から捉えている点、あたかも楽団のいるステージ、音楽を演奏する側の目線で描かれたかのように思える。
 主語を「音楽」にして、絵を見てみるがよい。音楽は今、ステージから放たれ、木々の間を縫い、人々を撫で掠めながら、公園に流れて行く。音楽はその場に集まった人々をおしなべて包み込むが、人間の方は、必ずしも音楽に集中していない。それどころか、そっぽを向く者や立ち話をしている者など、それぞれが勝手気ままな挙措に及ぶ。
 人々の集まった目的は、実は世間的な事情や社交によるのであって、音楽は添え物、雰囲気をよくするBGM程度でしかないのではないか――。
 マネの写実主義は、この絵に自身を始め、知人や家族を登場させた。画面左端、ステッキの男の背後で半身が見えるのがマネ自身の姿だという。画面中央の少し右には弟のウジェーヌ(印象派の女流画家・モリゾの夫だ!)が、その奥には眼鏡をかけ髭を生やした作曲家オッフェンバックがいる。オペレッタ『天国と地獄』などで当てた人気作曲家で、日本ではテレビの時代になって、「カステラ1番、電話は2番」と歌詞のついた文明堂のコマーシャルでそのメロディーが親しまれた。前面に腰かけた青い帽子の女性2人のうち若い方がオッフェンバック夫人だという。詩人兼美術評論家のボードレールも描きこまれているとのことだ。
 それは、いい。だが、そういうアプローチだけで見、語っていたなら、この絵の本質は、掌にすくった水が指の間から漏れこぼれてしまうように、とらえられない気がする。
 音楽を演ずる側、生産する側は完全なるオフである。音楽を聴く側、消費する側だけがオンで描かれ、さまざまな思惑や心情を抱えながら、人々が交わり、都市の華やぎに一景を添え、パリを生きている。
 先に『フォリー=ベルジュールのバー』を語って、マネの仕掛ける舞台設定の巧みさについて述べたが、この『テュイルリー公園の音楽』においても、オンとオフを敢えて分離させたマネの劇場的な設定の意匠に、感心せざるをえない。
 マネは、そういう特殊な舞台空間を得て、音楽が抱える社会的実相を、可視的に描いてみせたのだ。
 タイトルが音楽会でなく「音楽」になっており、かつ演奏者を敢えて外した描き方には、「ここのどこに音楽があるというんだい?」という、マネの反語が込められているような気がする。

『テュイルリー公園の音楽』と同時期に描かれた、音楽がらみの絵がある。『老音楽師』(1862 ワシントン・ナショナル・ギャラリー)――。
 都市ブルジョア層にとっての音楽の場の最前線がテュイルリー公園での野外演奏会であったなら、こちらは底辺に生きる貧しき人々にとっての「音楽のある風景」である。一見、とんでもない田舎での情景のように見えるが、一説によれば、再開発によって取り壊され、荒地と化したサンラザール駅裏の貧民街が舞台だという。
 それならば、パリという都市に織り込まれた「音楽のある風景」を、最上層と最下層、両極から描いたことになる。そのように見てこそ、社会への眼差しを磨いたマネの真意に近づけるのかもしれない。 
 絵の登場人物には、実際に当時生きていた人物を当て込んだり、既存の絵画のイメージから切り取って利用したりするなど、実はかなりのコピペ的プロセスを経て構成されている。
 一例をあげれば、老音楽師はジプシー・バンドの長、ジャン・ラグレーヌがモデルだとされ(ただし、ラグレーヌはオルガン弾きであった!)、左手の白い服を着た少年は、ロココの画家・ヴァトーの絵『ピエロ』からイメージを借りたと言われる。山高帽をかぶった男に至っては、3年前に描いた自作の『アブサンを飲む男』(1859 ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館)と全く同じである。
 そういう各所からイメージを引っ張ってきたからであろうか、登場人物はそれぞれ孤立して、ばらばらな印象を受ける。音楽を求めて老音楽師のもとに集まっては来たが、音楽への感興によって一体感や連帯感を覚えるといった趣はこの絵にはない。
 老音楽師の足元の祝儀箱は空のようだ。貧民ばかりで、祝儀を与える金がないのであろう。老音楽師も、それならばと、演奏を控えている。 この社会から遺棄されたような底辺の場でも、経済原理、銭の論理が幅をきかすしかないのだろうか。
 よく見ると、老音楽師は弓をとってヴァイオリンを弾き鳴らしてこそいないが、左手は弦を押さえ、右手の指はピチカートのように弦をつまびいている。さて、これから何を演奏しようかと、スタンバイ中なのだろうか。
 ひとたび音楽が奏でられれば、その恩恵に浴する度合いは、富裕層に比べて、彼らの方が、より大きいのだろう。音楽によって慰謝され、生きる力を得る、そのマジックパワーは、貧しい人々により強く働くことを、マネは熟知していた。
 しかし、ここでは音楽は細々と、ピチカートでしか奏でられていない。これもまた、マネが見据えた冷厳なる音楽の社会学であったろうか――。

 ネと音楽を語る時、この要素は外せない。スペイン――。
 スペイン趣味ということで言うなら、既に『老音楽師』においても、正面の2人の男の子の描き方など、ムリリョなどスペイン画家の画風との近似を感じさせた。
 既存の絵画伝統としても、マネは明らかにイタリア古典主義よりも、スペイン絵画に学ぶべきものを見た。1865年には実際にスペインにまで足を運び、プラド美術館の前身にあたる王立美術館でゴヤやベラスケスの作品を堪能した。とりわけベラスケスへの傾倒ぶりは著しかった。
 音楽に関しても、マネはスペインに魅せられた。
 もっとも、これは彼ひとりの嗜好にとどまらず、時代の抱えた流行のモードでもあった。ナポレオン3世の妻がスペイン出身ということもあって、パリはスペイン趣味に湧いたのである。
 1862年の8月にマドリッドの王立劇場の舞踊団がパリを訪れ、3か月にわたる公演を繰り広げると、マネは早速劇場に足を運び、のみならず、ダンサーたちをアトリエに呼び、ポーズをとらせた。こうして完成されたのが、『スペイン舞踊』(1862 フィリップス・コレクション)である。
 音楽があり、踊りがある。左右にギターが鳴り、カスタネットで拍子がとられ、フラメンコが踊られる。スポットライトを浴びたステージでは、衣装の彩りも鮮やかで、華やかな世界が現出される。奥は闇に鎮まり、踊り手たちは浮かび上がって見える。
 だが、スペインを代表する王立のフラメンコ舞踊団が披露する華麗な演舞にしては、その印象は、どこか物悲しいのである。
 本来、スペインのものであれば、音楽も踊りも、さぞや情熱的であろうに、闇の中に浮くこの舞踊団からは、そういう胸を震わすような賑やかさが聞こえてこない。踊り手などの人物は、どこかしら、宿命を背負い、運命に呑み込まれた「木偶でく」めいて見える。
 彼らは来る日も来る日も、ステージに立ち、観客を喜ばせるべく、故国の舞踊を披露する。パリは異国趣味に溢れた彼らの音楽と舞踊を、たやすく消費し、都市の欲望の腹に収める。
 マネはそういう彼らを、最大限愛おしみつつ絵にしている。旅から旅へと渡り歩き、公演を続ける、旅芸人の一座の悲哀が、絵からはにじみ出ている。

 して最後にもう1点、マネの手になる音楽の絵として、究極の座に位置する作品を見よう。『笛を吹く少年』(1866 オルセー美術館)――。誰もが1度は複製画なりで目にしているであろう、イコン的な超有名絵画だ。
 横笛のファイフという楽器を吹く少年が身にまとうのは、フランス近衛軍鼓笛隊のユニフォームだという。しかし、予備知識なしに見る者の目には、どこかスペイン絵画風な印象を受けることだろう。
 前年にスペインを訪ね、ベラスケスをたっぷりと鑑賞し、吸収してきただけに、その影響は濃いものがある。敢えて背景を描かず、主人公の表情をメランコリー豊かに、印象的に浮かびあがらせるようなところは、その顕れに違いない。また、黒い線で縁どりをしているところなど、日本の浮世絵からの影響も明らかである。
 だが、そういう技術論を超えて、この絵が訴えかけてくるものは、切ないまでに強く、稠密だ。見る者の心を鷲づかみにする何かを、この絵は間違いなく備えている。
 まだあどけなさを残す少年は、純で、ひたむきで、マッチョな男くささはつゆほどもなく、私利私欲のような汚れた意志も一切持ち合わせず、ただひたすらに、音楽を聴く人々に向け笛を吹く。その無垢で一途なさまは、神々しくさえあって、神像を見るような気にさせられる。
 ある意味でこの絵は、『テュイルリー公園の音楽』に描かれた、花の都の緑陰に憩い、野外演奏を楽しみに集まる人々の姿と対をなしている。
 都市の歓楽として音楽を消費する富裕の人々と、そうした人々を前に、一心不乱に笛を吹き続ける無垢な少年と――。こういう対比のなかでとらえてこそ、マネの真意はより立体的に、構造的に見えてくるのだろう。
 さて、ここからは、極私的な感想、突拍子もない妄想のような比較論となる。
 数年前のことになるが、奈良でこの絵を痛烈に思う体験をした。とある仏像の前に立った時、何かに似ていると、既視感がにわかに込みあげてきたのがきっかけだった。
 何に似ているのか、記憶の底を探すうちに、このマネの『笛を吹く少年』に行き着いた。どこがどう似ているのかは、その時にはうまく言葉にできなかったが、両者は何がしかの同じ響きを奏で、共鳴していることは確かなことのように感じた……。
 その仏像とは、興福寺で見た阿修羅像であった。
 阿修羅像は「三面六臂さんめんろっぴ」といって、3つの顔と6本の腕をもつ。写真で見ると、多面体の異形ぶりが否応なく目に飛び込んでくるが、不思議なことに、実際に像の前にたたずみ肉眼でじかに眺めると、少しも異形である気がしない。
 私が像の前に立った時、とりわけ中央正面のメインの姿に、『笛を吹く少年』に通じる何かを痛切に感じた。
 ともにすらりとして、どことなく両性具有的なしなやかさをたたえている。そうした外見の形状が感じさせる近似性も、勿論ある。だが、それを超えて、両者が響き合いを深めるのは、それぞれが抱える深い精神性によるものである。
 仏像のなかには、運慶快慶の仁王像など、いかにも強面こわもてのものがあり、怒りのすさまじさに圧倒され身の縮む思いがすることがある。この阿修羅像も、いかにも苦悩に満ちていて、それは衆生の煩悩の苦しみをすべて我が身に引き取るようにして懊悩を重ねるからであろうが、意外にも、息を像と合わせるようにしてその前に立つと、胸をふさぐ重い苦しみだけでなく、全身に溢れるひたむきさから、やわらかな肌身に触れるような慰藉を受けることになる。仏心のあたたかみが、こちらの心にも沁みてくる。
 最近の科学研究によれば、AI(人工知能)を使って仏像における表情の研究をしたところ、阿修羅像は他の仏像に比べて人間的な表情が豊かで、中央の像では、顔の右側では悲しみの表情の数値が高く、左側では喜びの数値が高くなるとの分析結果が出たという。阿修羅像が極めて人間的な感情に満ち、悲喜こもごもの表情をたたえている証である。
 マネの『笛を吹く少年』に戻ろう。
 少年は、音楽を奏で続ける。ひたすらに、いつまでも、終わりなき定めを背負って、一心に笛を吹く。笛の音は、これまでも、今も、これからも、ずっと流れ続けることだろう。
 阿修羅像がひたすら懊悩の辛苦を重ねた果てに、救いの光に迎えられるかのように、マネの少年もまた、笛を吹き続け、吹き尽くした果てに、自身の喜びに他人や社会の幸福を重ねた、光ある世界に達することになるのだろうか……。
 もちろん、極楽のようなものは決して可視的ではない。最後まで、パラダイスなど存在しないのかもしれない。ただ、闇の果ての何がしかの光を信じて、少年は笛を吹く。夢を謳うように、笛を吹く。
 その意味で、少年は天使である。街(都市)に降り立った聖人である。
 阿修羅像は、言うまでもなく仏教から出た。マネは一見、宗教には無縁のように見えながら、社会主義的な理想を秘めつつ、街の無垢なる魂に寄り添い、共感を祈りへと昇華させた。オランピアの娼婦がマネにとって聖女だった如くに、笛吹の少年もまた、画家にとっては天使であり、聖人であったのである。
 社会派の画家マネが、格差や階層を鋭く見つめつつ、笛吹きの少年を天使にまで持ちあげえたのは、この人が四角四面の主義者であるより、生身の人間に惹かれ、音楽に馴染んでいたからだと思われてならない。格差や階層に誰よりも敏感であったマネは、音楽によって、社会的対立の構造を超え、仏の慈愛にも通ずる聖なる光に達したのである。