第30回 奥

ルノワール、猫から見る多面体の面影

作家 多胡吉郎

 ルノワールと猫を語る時、若い頃に描いたこの絵は外せないだろう。『猫と少年』(1868~69 オルセー美術館)――。
 衝撃の1点である。少年がオールヌードで、何ともなまめかしい。ルノワールと言えば女性の裸体画で有名だが、この絵は、画家の手になる唯一の男性ヌードなのだ。
 少年の肉体が発散するエロスについては、誰しもが認めるところだ。だが見逃されてならないのは、この少年が醸し出す、甘美な哀しみのような雰囲気だ。ピカソの若い時代に、曲芸師や旅芸人を描いた絵に、この手の哀しみをたたえた若者がいたかに記憶するが、基本的には、人生は楽しい、この世は光に溢れているという現世肯定路線の大家として知られるルノワールにも、このような一面があったのかと驚かされる。
 社会の底辺で呻吟する若者。しかも裸であるのは、男娼のような性労働を強いられているのか。これほどの美しさをもった無垢な青年が、輝ける青春を無駄にし、困窮に喘ぎ、苦渋に呻吟している……。
 改めて、この画家が労働者階級の出身であったことを想起せざるを得ない。ルノワールと言うと、ブルジョワ家庭の幸福な世界を描いた画家と思われがちだが、事はそう単純ではない。敢えて現代的に解釈するなら、LGBTの苦しみを吐露したものとすることだって可能だ。いずれにしても明確なことは、哀しみがエロスと絡み合って漂い、悲哀の孤独が猫と響き合うという事実である。
 画家としての経歴の早い時点で描かれたこの作品の意図を、マネの『オランピア』(1863)と比較して語る意見がある。印象派の面々からすれば兄のような存在であったマネは、駆け出しのルノワールを見下していたらしい。その噂を耳にしたルノワールが一念発起、マネの代表作の向こうを張って仕上げた絵が『猫と少年』なのだという。
 娼館のベッドで裸身のまま横たわっていた女性は、立ち姿の裸の少年に変えられ、女性の足元にいた尾を立てる黒猫は、少年が抱きしめるやさしげな縞猫に変わった。黒人メイドまで登場させて赤裸々に社会的偽善を暴露させたマネに比べ、ルノワールの筆致は穏やかで優美、そして実は、先輩画家に比べてはるかにエロティックだ。
 だが、そういう全体の趣の違い以上に、猫を中心核にして見た場合、孤独な主人公と猫との魂の交感という部分が、マネには欠け、ルノワールには濃厚である。哀しい生き物同士、寄り添う感じに、見る側の心情も動き、ほろりとさせられる。
 近代的な社会性という点ではマネの絵が上だろうが、猫に癒される現代的心理からすると、ルノワールに軍配があがると見た。


 孤独な魂と猫との響き合いは、12年後に描かれた『猫と眠る少女』(1880 クラーク美術館)という絵にも引き継がれている。
 モデルとなったのは、アンジェールという当時18歳の少女。モンマルトルの丘にあった有名なダンスホール、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの常連で、ほとんど巷の不良少女に近い存在なのだが、ルノワールは彼女を気に入り、モデルとして使った。
 夜遊びが過ぎて、アトリエでポーズをとりながら、アンジェ―ルは寝入ってしまう。肩ははだけ、しどけないが、ルノワールはそのままに描いた。ポーズをとる最中に居眠りをしてしまうようなら、本来はモデルとして落第、追放ものであろう。
 だがルノワールは、それをゆるした。しかも、彼女の膝の上の猫がつられるように寝入ってしまった様子も面白く感じ、絵にした。歓楽の巷に生きる少女の素顔に触れ、存在の哀しみのようなものが現れた瞬間を、ルノワールは見逃さなかったのである。
 ここでも、ルノワールの目は、社会の裏側や下層に生きる人間に向けられ、共感を寄せている。かつ、共感を描くに、猫を用いている。猫には、そういう人の世の哀しみを救い取ることができる霊感が備わっているのだろうか。
 なお、このアンジェ―ル嬢は、猫と離れて、ルノワールの代表的傑作絵画にも登場している。
 『舟遊びをする人々の昼食』(1881 ワシントン・フィリップス・コレクション)――。ここでは、画面中央のテーブルの右に席をとるアンジェ―ルは、夏らしい青色に着飾り、いかにも印象派らしい光の溢れる中、コケティッシュな表情を見せる(一説によれば、中央奥のグラスを傾ける女性だとも言われる)。
 なお、画面左端、犬と戯れる女性は、後にルノワール夫人となるアリーヌ・シャリゴ嬢である。当時はお針子として働いていた。


 ルノワールの猫は、社会の陰画のような絵ばかりに登場するわけではなかった。
 1875年の作になる『猫を抱く女性』(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)――。優美なお嬢さんが、猫を抱きかかえる。やさしげな眼差しが猫に注がれるが、猫の方はどうも落ち着かない。
 おそらくは、飼い主でもなく、日頃から慣れ親しんだ人でもないのだろう。いったんは腕の中に抱きかかえられたものの、おそらく数秒後には、猫は身をよじって逃げ出そうとするに違いない。
 だた、そういう関係性のもろさを秘めつつも、この絵はやはり平穏な幸福感に満ちている。壊れ行くものの緊張感や危機感はないと言ってよい。
 ひょっとすると、この女性にとって、猫との出会い、初めての触れ合いなのかもしれない。控え目な女性が恐る恐る猫を抱く。猫はぎこちない抱きとめ方に驚き、戸惑うと、そのような光景なのではなかろうか。
 猫とすごす幸せを、ようやくにして自分も手にすることができたという安堵感のようなものが、女性の表情に萌している。頬をうっすらと紅色に染めた高揚感がそのことを物語っている。
 この絵が描かれて150年近くがたつが、昨今の日本でも、この絵の女性と同じように、かすかな不安や恥じらいと、それをはるかに上回る大きな喜びとともに、飼い猫との出会いを迎える人は多いことだろう。
 1882年の作になる『少女と猫』(個人蔵)も、幸福の瞬間のような世界が描かれるが、ここでは珍しく立ち姿の猫が登場している。
 少女、と呼ぶには若干抵抗があるほどに、女性は成熟し、舞踏会にでも行くような胸のあいた白いドレスを着こんでいる。首まわりから胸にかけて露わになった、女性の輝くような白い肌がまぶしい。時の移ろいの中、少女から大人への境に生きる女性のうたかたの輝きを、ルノワールは見事にとらえている。
 観葉植物の中に何か気になるものを見つけ(おそらくは虫)、思わず背伸びをし、立ち上がった猫の好奇心と、猫に寄せる少女の興味、愛情が重なった瞬間――。これもまた、ペットと暮らす小市民の家庭に立ち現れる日常の風景のひと齣であろう。
 もっともこの絵は、もう少し深い読み込みも可能にしている気がする。この日、初めての舞踏会に出向く若い女性は、将来の夫(愛する男)となる男性にそこで出会うことになる。立っている猫は、性的な預言者として、処女の前にしばし君臨する……。
 ルノワールの猫は、伝統的な寓意性の縛りからは免れ、市民社会の日常に息をしているものの、時に画家の意志を秘めた暗喩のような曰くありげなニュアンスをまとう。
 ただ、この絵が秘める性的なモティーフは、決して陰湿ではない。まだ見ぬ愛する男と結ばれる予感が萌したとしても、それは幸福の大きな繭の中に息をする。
 放縦な性によって身を滅ぼすことを憂え、教訓や戒めとする、そのような中世的抹香臭さは、ルノワールの絵画からは最も遠いものである。


 1886年に描かれた『授乳する母親』(個人蔵? ミュージアム・オブ・ファイン・アーツ・セント・ピータースバーグ・フロリダ)は、前年に長男ピエールを生んだ妻のアリーヌが赤ん坊に授乳する姿を描く。庭を舞台とするこの絵は、アリーヌの故郷・エソワの実家に滞在中、描かれたという。
 『舟遊びをする人々の昼食』から5年、犬と戯れていた可憐な娘は、今や一児の母となり、だいぶ恰幅がよくなっている。丸々とした赤ん坊に乳をふくませるアリーヌも豊満で、乳の出もよさそうだ。
 不思議なのはアリーヌのまとう衣装の色である。赤の上着に紺のスカート。赤と紺は、聖母を象徴するカラーに他ならない。ルノワールは、自身の妻と息子に、聖母子を重ねているらしい。アリーヌの顔の上から乳のあたりにかけて、不思議な白い光がさしているが、これも聖母子を意識してのことであろう。
 そしてもうひとつ、見逃してはならないのが、画面右下、アリーヌが腰かけた椅子の下に姿を見せる猫である。この猫の登場のさせ方、つまり本質的には主役となる人物たちと直接の関りをもたず、画面の隅にさりげなく姿を現すという手法は、かつてルネサンス絵画以降、『受胎告知』など一部の宗教画に添えられた猫の扱い方とよく似ている(詳しくは、第18回奥『泰西名画に猫を探せ!』を参照のこと)。
 ルノワールは、そういう猫にまつわる過去の寓意性を離れ、新時代のスウィート・ホームにペットとして生きる猫が家族とともにすごす日常的風景を描いたはずであった。しかし事ここに至って、そのような見方に若干の修正が求められるかのようである。
 ルネサンス以前、猫が異教のシンボルのように禍々しいイメージでとらえられてきた、そこまでの古い暗喩はもはやルノワールには無縁だ。しかし、ルノワールは猫に何がしかの意味をもたせて画面に登場させている。一見、さりげない日常風景に見えながらも、猫が登場する時、ルノワールはそこに意味をしのばせる。豊穣とか、生命力とか、猫が抱えてきたそういうイメージだ。
 ルノワールは印象派を代表する画家として名をなしたが、やがてその理念的手法に飽き足らなくなってくる。イタリア滞在もひとつの契機となって、古典回帰の道を選ぶに至る。印象派的な手法を、彼自身に最もふさわしいかたちで、伝統の上に接ぎ木させたのだった。線が明確になり、かつては正反対の立場であったはずの過去の巨匠アングルからも貪欲に学んだ。
 そういう伝統と新しさを行き来する旅路の中で、ルノワールの猫も振幅を広げ、逍遥した。だが確実なことは、猫に対し、この画家が終始、何がしかの意味を付託したことである。
 そのような目で見ると、1887年の作になる『ジュリー・マネの肖像(猫を抱く少女)』も、猫を抱いた可愛げな少女という一見単純な表層のイメージを超え、意識の深層での対峙を余儀なくされる。やはりこの絵は、スウィート・ホームの幸福な風景から飛翔し、鋭く剔抉てっけつされた独自の世界を提示しているのだ。
 実は前から気になっているのだが、ジュリーの膝に抱かれた猫が、三毛猫で、『授乳する母』に登場した猫とよく似ている。製作時期も近いので、ひょっとして、猫はルノワールが用意したものではと勘繰りたくもなってくる。
 ジュリーは母である画家のベルト・モリゾによって、幼い時から数多くの絵に描かれてきた。すくすくと育つ娘の成長を、モリゾは自身の絵筆で記録してきたのである。だがその絵の中に、犬と一緒のものはあっても、猫と一緒に描かれたもの見当たらない。
 もしこの猫がモリゾ家の猫でなかったなら、猫は日頃から少女の愛情を浴びているがゆえに警戒心もなくくつろぐのではなく、何かしら、少女のもつ天性の素質によって共鳴し、まるで魔法にかけられたように、瞬時にして親しみ、懇ろになってしまったことになる。
 少女ながら、この絵のジュリーはファム・ファタル的な絶対性を有していることは前にも述べたが、この作品を描き終えた後、ルノワールは、二度と猫の絵に手を染めなくなる。猫と少女は、もはや置換が不可能なほどに充実を極めてしまったのである。
 猫を描かなくなったのは、偶然なのだろうか。それとも、猫とともに封印せざるを得ない何かがあったのだろうか――。今となっては、謎である。
 その大家然とした存在感と、ボリューム感一杯の肉体美、そしてあまりにも膨大な作品数から、ルノワールは、どこか既にわかった気になってしまって、その実、詳しく見ることを敬遠してしまうような奇妙な存在になっている。
 しかし、猫を描いた絵画作品を追うだけでも、ルノワールは多彩にして未知なる多面体を描く。新鮮な驚きに満ちたルノワール像が開かれる。
 究極の猫絵でもある『ジュリー・マネの肖像(猫を抱く少女)』――。聖母子の少女版のような厳かかつ絶対的な趣が支配するこの絵は、日常の幸福な風景から異化した非日常の美であるのかもしれない。日常が非日常に転化し昇華して行く、その橋渡しになるものが、他でもない猫だったのである。

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