第29回 表

ボナール、愛の私小説 〜反復され聖化される記憶〜

作家 多胡吉郎

 その名もずばり、タイトルは『男と女』である。クロード・ルルーシュに同名の映画があったが、甘美な愛のロマンティシズムに比べれば、この絵はかなりほろ苦い。ポスト印象派の画家、ピエール・ボナール(1867〜1947)が1900年に描いた作品だ。
 寝室の裸の男女の間を割って、折りたたまれた屏風(衝立)が立ちはだかる。愛の営みをかわして、なおも埋めがたい溝を抱える男と女――。愛の断絶、愛の孤独を象徴するかのように、屏風は無雑作、無愛想に、でんと屹立する。2018年秋、東京の国立新美術館で開かれたボナール展で私は初めてこの絵に接し、脳天をかち割られるようなショックに、しばらくは動けなくなってしまった。
 美術展の解説では、男女の心理的溝を象徴することを認めつつも、「事」の前か後かは明言を避けていたが、私は事後説をとる。男は既に立ち上がってベッドを離れ、服をとり次の行動へと移りつつある。女はまだベッドに留まって、男に比べれば「余韻」を残しているが、それでも「事」が果てたと知って、早速に愛猫たちが近寄ってきて、じゃれ始める。男とは別の愛の対象との交渉が始まっている。
 絵にはモデルがいた。男はボナール自身、女はパートナーのマルトである。慎重に「妻」という表現を避けた。この時点で2人は結婚していなかったが、1893年の出会い以来、同棲を重ねていた。初めて互いを知った時、ボナールは26歳、マルトは24歳だったという。
 興味深いのは、2人が出会った際、彼女はマリア・ブルサンという本名を隠し、マルト・ド・メレニーと名乗ったことである。ボナールはその名を信じ、そのまま事実婚へとなだれこむ。ボナールがマルトの本名を知るのは、出会いから32年後、正規に結婚することになって、役所に婚姻届を出した時だったという。
 ボナールにとって、その名が何であろうと、年齢や出身も含め、ひょっとして戸籍上は誰かの妻であってさえ、どうでもよかったのかもしれない。それほどに、マルトはボナールにとって宿命的な女性だった。生涯をともに暮らし、絵にも頻繁に登場して、決定的な役割を果たした。マルトを描いた油絵は380点にものぼるという。すべてが、愛の私小説とも呼ぶべき私的宇宙を構成している。
 余人を以ては代えがたい琴瑟きんしつ相和す仲であっても、そこは男と女、時には微妙な心の行き違いも生じる。マルトが偽名を使ったのは、どこか訳ありっぽいが、昔の男のことが「事」の最中にふと頭をよぎることもあったであろう。過去に苛まれ、愛に臆病になっているところがあったかもしれない(映画『男と女』のテーマがまさにそれだった!)。
 ただこの絵は、そのような事があって、噴きあがる感情のままにすぐにも筆にしたような絵ではない。ここに至るには、何度となく胸の中に記憶が反芻され、反復を繰り返した挙句、絵になっている。でなければ、あのようにふてぶてしく、何かの意を呈したように屏風が中央に立てられるわけがない。タイミングを見計らったように猫が登場するのも、実際の微妙な時のずれを超えて、モザイクを重ねるように同じ画面に現出したように思える。
 ボナールは記憶を反復する人だった。胸に刻まれた記憶を、いったんは解体しながら、反芻し再構築する、そのような心の持ち主だった。記憶はその過程で磨かれ、珠のような真実の瞬間になった。ボナールの絵はそこに結晶した。最もプライベートな空間での日常的な事象をとりあげつつ、ボナールの絵がどこか神々しい永遠の命に輝くのは、そうした記憶の反復と聖化を受けてオーラが射すからである。
 この絵を描く時、負の感情に押し流されるがままぷいとベッドを離れてしまったことを、ボナールは後悔していたのかもしれない。記憶を反芻するたびに、男は自分の至らなさを悔い、傷ついた女を愛しく感じたのだろう。
 絵の中の男は、暗くすさんださまを隠せない。それに比べ、ベッドの上の女は、淋しさを抱えつつも、光の中に座して、ひどく無垢である。肉体は大人でも、童女のようだ。猫が無邪気にまとわりつくのも似つかわしい。記憶が反芻を重ねるごとに、女は浄められ、どこか聖女化してゆく。
 長い生涯、ボナールはマルトを描き続けた。入浴や化粧室のマルトを描いたものが圧倒的に多い。食卓のマルトもある。ペットの猫や犬と一緒のものもある。それらの絵の中のマルトは、いつも若々しい。
 今日という日は永遠に再びは訪れない。そのことをわきまえつつ、だがボナールの絵画は、「時の宿命」を超えようとする。記憶を反芻して珠と紡ぐボナールの絵は、すべからくお浄めを受けた永遠の愛の聖画なのである。

▲ 第29回「奥」を読む