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第28回 表

時空を超えた心の巣。コローの描く森

作家 多胡吉郎

 その人の絵を目当てに、美術館を訪ねたことがない。それでいながら、世界のどの美術館を訪ねようと、気がつけば、その人の絵を探している。そこに行けばフェルメールがあるとか、ダ・ヴィンチに出会えるとか、美術館を訪ねるメインの期待のなかに、この人は入ってこない。しかし、美術館を代表する傑作を堪能し、様々な作品の中を逍遥するうちに、この人の森の絵がどこにあるか、気になってくるのだ。あたかも美術館の中で不思議な帰巣本能にとらわれたごとくに……。
 風景画の巨匠として知られるジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796〜1875)。どこにいても、この人の森の絵に出会うと落ち着く。初めて見る絵画でも、「コローさん、また会ったね」というような懐かしさを覚える。
 色彩も地味目で、描かれた風景は目を見張る絶景でもない。そういう派手さからは無縁でいながら、遥かな遠い日の記憶に夢で出会うような、やわらかな郷愁に満ちている。「〇〇の思い出」というタイトルが多いのは象徴的だ。コローの絵は画布に綴る思い出の抒情詩なのである。
 コローは19世紀の訪れを前に、パリの織物商の家に生まれた。20代半ばにして画家を志すが、初めて師事したミシャロンも、その後に師事したベルタンも、新古典主義の風景画家だった。ミシャロンは「自然を丹念に研究せよ」と諭したというが、自然志向は画家としてスタートした時点からコローの身についていた。
 3度にわたってイタリアに長期滞在し、そこでも風景への眼差しを磨いた。またフランス中を旅して、写生してまわった。夏の間は外で写生を続け、冬になるとアトリエに籠って絵を仕上げるのが彼のスタイルだった。しばしばバルビゾンに滞在し、フォンテンブローの森を描いたので、バルビゾン派に数えられることもある。
 画家として遅めのスタートをきったコローは、周囲を圧する天才肌の人ではなかった。けれん味のない地味な作風は、しばしば色が「薄く」、「平凡でへたくそ」と悪口を言われた。
 評価が変わるのは、1845年、詩人にして美術評論家のボードレールがコローを擁護し、「新しき風景画」と評してからである。曰く、「コローはカラリスト(色彩主義者)というよりハーモニスト(調和主義者)であり、ペダンティズム( 衒学げんがく性)を免れたシンプルな色使いのゆえにこそ、魅力的なのである」――。
 その風景画が、真にコローらしくなってくるのは、1850年以降で、銀灰色の靄がかった森や湖を詩情豊かに描く独特のスタイルが確立された。静謐の中に、生気がある。呼吸をするような森の息づかいが聞こえてくる。コローは「夜明けの詩人」とも呼ばれた。
 1864年に描かれた『モルトフォンテーヌの思い出』は、そうしたコローの風景画の代表作。モルトフォンテーヌは北部フランスのオワーズ県にある村で、コローは1850年代にしばしば訪れて写生を重ねた。画家68歳の時のこの作品は、実際の風景に接してだいぶたってから描かれた絵であった。
 イタリアの古典絵画にあるような理想化された風景ではない。単純に目の前にひろがる景色でもない。実体験としての森の記憶を、大地の息づかいや森の草木の息吹、淡くたなびく霧や靄、しっとりと空気が肌にまとわる感じや、光の印象、心模様など、幾層にも積み重なった記憶の淵から、一点の森の風景を紡ぎ出している。
 興味深いのは、全く同じ場所から描いた別の絵があることだ。1865年から70年の間に描かれたと思しき『モルトフォンテーヌの舟人』は、花や宿木を摘む家族の代わりに舟と漁夫を置いたような絵だが、湖面に靄はあれ、対岸の風景はよりはっきりし、いささか写実っぽい。実は、モルトフォンテーヌの風景ではないものの、画面の右側に大きな木を配し、その枝が左に向けて張り出し、中央奥には湖面が広がり、左手には小さな木があるという構図の絵は、コローにはいくつもある。死の年まで、この特徴的な構図は続く。
 一説によれば、日本の浮世絵からインスピレーションを得た構図だという。だとしたら、ジャポニスムの走りということになる。日本の着物を着た女性を画面に登場させたり、調度品として日本の屏風が登場したりするようなことはないが、そういう表面的なジャポニスムを超えたもっと深いところで、自然に対する日本的感性を吸収したのかもしれない。
 コローは洋の東西を超えた。人種や民族を超え、人間にとって存在の淵源となるような自然をとらえたのだ。よくコローは印象派への橋渡しをしたと言われるが、事の本質は19世紀に収まる話ではなく、時空を超えて、現代の私たちにまで伝わり響く。
 コローの森の絵は心の巣なのだ。すべての人にとっての。今までも、これからも……。