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第27回 奥

バーチャル美術館
ヴァシリー・ヴェレシチャーギン回顧展

作家 多胡吉郎

年某月、東京の美術館で話題の展覧会が開かれる。東京での展覧会終了後は、札幌や大阪など、地方都市でも巡回展が予定されている。展覧会の案内やチラシには、代表作の、頭蓋骨が山と積まれた絵画――『戦争の結末』が躍る。
 日露平和条約締結を記念する特別展、『ヴェレシチャーギン大回顧展』――。ロシア駐日大使や外務大臣など、国を代表する政治家たちの祝辞が入り口に並ぶ。
 ヴァシリー・ヴェレシチャーギン(1842~1904)の生涯と画業を俯瞰する展覧会は、日本では初めてのこと。戦争画家という社会性に加え、日本との浅からぬ因縁もあって、マスコミの注目度も高い。
 展示作品は100点を超える。モスクワのトレチャコフ美術館、サンクト・ペテルブルクのロシア美術館が所蔵する作品が中心となる。ロシア本国でも、これだけの作品が揃う回顧展は珍しい。展示作品はテーマ別に4つに分けられ、画家の全貌に多角的に迫ることができるよう構成されている。
 早速、会場の中へと足を踏み入れよう。まず初めの展示のテーマとなるのは「戦争画家としてのヴェレシチャーギン」――。展示スペースは最大、展示作品も最多で、この画家の表の顔を、拡大鏡で覗く趣になっている。
「あのような画家は、今の時代、ロシアはもとより外国においても、見当たらない」――。
 同時代の画家で美術評論家でもあったクラムスコイの言葉が添えられているが、他に類を見ないヴェレシチャーギンならでは世界を屹立させたものが、この戦争画家としての顔であった。
 ここでの最大の目玉は、言うまでもなく、展覧会のメイン・イメージにもなった『戦争の結末』だ。1871年の作になる。
 ヴェレシチャーギンの代名詞のようにもなった作品が、画家としての比較的早い時期に描かれているのである。「戦争画家」はヴェレシチャーギンにとって、画家としての出発点であり、帰結点でもあった。1904年、画家は日露戦争に従軍して亡くなっているのだ。
 それにしても、1871年といえば、日本では明治3年から4年にあたり(まだ旧暦を使用中で両年にまたがる)、廃藩置県が断行された年で、廃刀令すらまだ5年先のことになる。それを考えれば、ヴェレシチャーギンの先駆性は殆ど奇跡のようにすら思えてくる。
 『戦争の結末』は『トルキスタン・シリーズ』と呼ばれる作品群に含まれる。1868年、ロシア軍のトルキスタン遠征に従軍し、その体験から生まれたシリーズだが、そのなかの1点、『致命傷』(1873)という絵も、戦争の真実を伝えるドキュメンタリータッチの作品だ。
 この絵を見て、咄嗟に思うのは、ロバート・キャパの有名な写真、『崩れ落ちる兵士』である。1936年のスペイン内戦、人民戦線側の兵士がファシスト軍の放った銃で撃ち抜かれる瞬間を撮影したもので、戦場写真の古典かつ代表作として、つとに世に知られている(もっとも今では実写であるかどうか、そしてキャパ自身の撮影によるものかどうか、その信憑性が大いに疑われているのだが……)。
 敵の銃弾を受けてのけぞる兵士の決定的瞬間をとらえた衝撃度はキャパの写真のほうが明らかに上だが、兵士が戦場にて被弾した一瞬をヴィジュアルに記録するという意識は、どちらも変わらない。瞬間を記録するカメラというツールが一般化していない時代、このような意識をもちえたヴェレシチャーギンという人は、世界史的に見ても時代に先駆けた孤高のパイオニアである。
 戦争の悲惨さを伝えるこうした作品は、当然ながら、軍関係者からの強い批判を呼んだ。ロシア軍を侮辱するものであると、傲然たる非難が沸き起こったのである。
 とりわけ轟々たる非難の対象となったのが『忘れられし者』という絵画だった。戦場に斃れ、大地に横たわったまま、たったひとり残され、見捨てられた兵士の遺体――。頭蓋骨の山とは反対に、一兵士の運命に焦点を絞ったことで、悲劇が強調されている。
 軍の非難の言い分は、ロシア軍は戦場に斃れた兵士を見捨てたりしないというものだった。皇帝までもが自分の作品に負の感情を共有していると知ったヴェレシチャーギンは悩み、結局、問題の絵画を自らの手で焼却してしまう。『忘れられし者』ら3点が処分されたと伝わる。
 ヴェレシチャーギン展の会場では、残されたスケッチから『忘れられし者』を復元したものが、参考資料として展示されている。
 荒涼とした大地に横たわるひとりのロシア兵士の遺体。彼を助けようとする者も、遺骸を運ぼうとする者も、誰もいない。周囲には死をかぎつけたカラスが寄り集まるばかり。吹きすさぶ風の唸りが、哭声こくせいのように悄然と響きわたる。
 今となってはスケッチから偲ぶしかない『忘れられし者』だが、軍部の非難とは裏腹に、確かな感動を人々に与えたのも事実だった。
 例えば、この絵を、1874年のサンクト・ペテルブルクの展覧会で見たムソルグスキーは衝撃を受け、同名の歌曲を作曲している。歌詞を依頼した詩人のクトゥーゾフ(有名な将軍とは別人)もまた、ヴェレシチャーギンの絵に感動したひとりだった。
 異郷の戦地にひとり斃れ、置き去りにされた男。その遺体をカラスが容赦なくついばむ。男の故郷では妻が赤子に乳を与えながら、夫の帰りを待っている。帰還した暁には、お祝いにピローグを焼こうと語り、赤子をあやす若い母。彼女の願いもむなしく男は遠い地の戦争で死去し、忘れ去られた……。
 ヴェレシチャーギンの絵に出会うことがなかったならば、生まれようもなかった歌曲だった。回顧展の会場では、ロシアのバス歌手が朗々と歌う哀しみの歌が流されている。
 トルキスタンに続き、ヴェレシチャーギンにとって大きな戦場体験となったのは、1877年から78年にかけての露土戦争(ロシア=トルコ戦争)であった。
 この戦争で、彼は太腿を負傷し、一時は壊疽えそのために死線をさまようことになる。また兵士として参戦していた弟のセルゲイは激戦のなかで戦死する。こういう我が身を苛むような悲惨な体験から、再び、代表作となる重要な戦争画が生まれることになった。
 『戦争捕虜の道』(1878~79)は、雪原を縫って続く長い道のところどころに、いくつもの死体が無残に放置された図である。死体は半ば雪に埋まり、半ば露わになって、野晒しのままになっている。死体をついばむカラスの群れが、白い雪に黒の点をなし、不気味さを奏でる。
 タイトルにもある通り、彼らはロシア軍に捕らえられたトルコの戦争捕虜たちであったが、ロシア軍キャンプへと行進させられる途中、寒さのために次々と倒れ、遺棄されたのである。ロシア軍に従軍しながらも、ヴェレシチャーギンの眼は、戦争捕虜の末路を見逃さなかったのだ。
 『敗戦のレクイエム』(1878~79)も、露土戦争から生まれた作品である。戦死者たちが眠る荒涼たる原野を前に、司祭が祈りを捧げている。
 死者たちを呑み込んだ白く乾いた大地。墓標の代わりとでも言うように、枯れ草が無言で枝を風に揺らす。灰色の空を覆う雲の隙間からは、ところどころに淡い光が降りてくる。若き命を戦場に散らした兵士たちに、ロシア正教会の司祭の祈祷は届くのであろうか……。曰く言いようのないむなしさが、絵全体から立ちのぼってくる。
 露土戦争を描いた一連の絵画(『バルカン・シリーズ』と呼ばれる)が、サンクト・ペテルブルクで展覧会にかけられると、20万人もの人々が訪れたが、案の定、軍の上層部からは非難が沸き起こった。トルコ兵への同情心に満ち、敵軍を称賛し、ロシア軍を貶めるものであるとされたのである。
 だが、『トルキスタン・シリーズ』の時と違い、ヴェレシチャーギンは動じなかった。非難の声に対して、画家はきっぱりと答えている。
「これが、戦争の赤裸々な真実だ」――。

ヴェレシチャーギン回顧展は、最大のスペースを取った戦争画のコーナーをまわり終えると、がらりと様相をたがえる次の展示室に移る。
 この第2展示室は、「辺境の人々と自然」と銘打たれている。遠目からぱっと見ても、異国風俗の土俗的な人々の姿と町や村のたたずまい、そして山の風景などが目立つ。
 ヴェレシチャーギンが1867年から68年、ロシア軍に従軍してトルキスタンを訪れたことは既に述べた。そこでの戦争体験が、『戦争の結末』のようなメッセージ性の高い作品を生み出した。
 興味深いことに、ヴェレシチャーギンは1869年にも、トルキスタンなど中央アジアを再訪している。今回は従軍ではない。戦時ではないトルキスタンを訪れ、そこで目にする異国風俗を絵にするためであった。
 『鷹を手にするキルギスの狩人』(1871)という、堂々たる老鷹匠を描いた作品が目を引く。精悍な顔つき、押し出しの強さ、鷹と人との一体感など、威厳に満ちた老狩人の姿を、共感とともに描き出している。エキゾティックな袴風の衣裳の描写も見事だ。
 この作品もいわゆる『トルキスタン・シリーズ』の1点になるが、描かれたのは『戦争の結末』と同じ1871年である。
 戦争画家としての表の顔をもつ一方で、異国の風俗や人への素朴な関心や共感が、ヴェレシチャーギンの胸にたぎっていた。ロシア一辺倒に傾かず、白人至上主義や西欧崇拝とも異なる、世界的かつ複眼的視野がなければ、このような絵は生まれようもなかったろう。
 共感は人や風俗のみにあるのではなかった。自然の神秘にも、憧憬に満ちた眼差しは向けられた。人里離れた奥地の山に足を踏み入れ、戦場の絵とは対極にあるような、静謐で荘厳な風景を、彼は描きもしたのである。
 『アラタウ山にて』(1869~70)――。この作品は、2018年秋から東京のBunkamuraで開かれた『国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア』展で来日したが、ヴェレシチャーギンとしてはこの1点のみの出品となっていたため、これがかの『戦争の結末』で知られる画家の作品であるとは、ほとんど誰も気づきはしなかった。
 アラタウは、中央アジアのカザフスタン、キルギス、ウズベキスタンにまたがる山脈で、ヴェレシチャーギンの絵も、山また山がつらなる深山を背景に、一頭の鹿がたたずむ様子を描いている。
 見事な角をもつ孤高の鹿――。鹿の立つ嶺には色とりどりの野生の花が咲き、天空の高みには神の使いのように鷲が舞う。穢れを知らない手つかずの大自然のなか、生き物たちの命がひそやかにこだまし合う。おびただしい死の堆積を描く戦争画とは対極に成立する世界である。
 1874年から2年をかけて、ヴェレシチャーギンは単身、インド、チベット、ヒマラヤへと旅をした。この大冒険からも、いくつもの絵が生まれている。
 『ボンベイのバニヤ(貿易商)』(1874~76)は、頭に赤いターバンを載せた現地の男を描く。商人とはいえ、西欧流のビジネスマンからは程遠い、土くさい男の表情が印象的だ。
 ヴェレシチャーギンは、ターバンを載せた男の絵を多く描いた。中央アジアでも、インド周辺でも、オリエント風俗の象徴とでも言うように、画面にはターバンの男たちが登場した。
 時代のモードとしてのオリエンタリズムも、無論あるだろう。だが、ロマン主義の画家たち、例えば、ハーレムの女性をしばしば描いたアングルやドラクロワの作品とは、いささか趣が異なる。
 西洋画家たちがオリエント世界に向き合う時、その対極としての堅牢なる西洋文明を、常に内側に抱えていた。キリスト教を基礎にする西洋との対立意識は、珍しいオリエント風俗を描くにあたって、しばしばエロティシズムの方向に傾斜した。ハーレムが格好の素材となったのはそのためである。
 だが、ヴェレシチャーギンには、およそそういうエロス的作品がない。女性もめったに登場しない。そもそも、非西洋とする対立概念が希薄なのである。農奴制を基盤に成り立つ帝政ロシアは、自身も半分はオリエントに足を突っ込んだままだったからであろうか。
 いまひとつ言えば、ヴェレシチャーギンの絵は、記録という意識が強い。物書きで言えば、フィクションよりはノンフィクションを得意とする作家。フィルムの時代に生まれていれば、ドキュメンタリー作家になったかもしれない。
 異国風俗にロマンティシズムを刺激され、西洋絵画史にエキゾティックなひとこまを付加するというより、異境の人々とその暮らし、そして自然を描き、伝えたいとする気持ちが、ヴェレシチャーギンの驚異的な旅と創作の原動力となったのである。
 『夕景のヒマラヤ』(1875)も、そのような意識から生まれている。神の手の創造物としか言いようのない、超越的な風景――。絶景の荘厳さには、キリスト教も非キリスト教もない。地球という星が生んだ奇跡の風景として、黙然とそこにたたずみ、聳えるだけなのである。
 異境、辺境の風俗や自然を描いたヴェレシチャーギンの絵は、戦争という熾烈な劇の幕間に奏される間奏曲のようなものであったかもしれない。しかしながら、戦争画を主流としつつ、戦いとは無縁の風俗、自然を描いた絵もまた、ヴェレシチャーギンの画魂を支えるまぎれもない片翼であったのである。

 の展示室に移ると、また新たな世界が開ける。遠目にも、半月型の帽子をかぶったフランス風の軍服姿が目立つ。第3のコーナー・タイトルは、「1812年、祖国防衛戦争とナポレオン」と付けられている。
 戦争画家としてのヴェレシチャーギンは、自身も現場に立つ現在進行形の戦争だけでなく、過去の戦争にも目を向けた。とりわけ、1887年から1901年にかけて、20点以上の「1812年 祖国防衛戦争」の絵画を制作し、自身の画業のひとつの柱としたのみならず、近代の歴史画にユニークな一ページを捧げたことは注目に値する。
 ナポレオン率いるフランス軍がロシアに侵攻し、当初は破竹の勢いで進軍、首都モスクワも陥落するが、やがて冬将軍が訪れ、ロシア側の粘り強い抵抗もあって、ついには敗退してゆく。ロシア人であれば、この偉大なる祖国防衛戦争に魂をうち震わせ、犠牲をはねのけての勝利に感涙するのが常道であるかもしれない。
 事実、その制作意図を語って、ヴェレシチャーギンは、「1812年の戦争におけるロシア人の偉大なる愛国心と無私の精神、そして敵と戦う英雄主義」を表現したかったとした。
 だが、事はそう単純でない。愛国主義を標榜する割には、祖国のために勇敢に戦ったロシア人よりも、侵略者であるフランス軍の側から描いた作品が多いのである。ナポレオンとフランス占領軍が画面に登場する絵画は実に14点にのぼる。ロシア側を描いたものも、ロシア皇帝はおろか、クトゥーゾフ将軍のような救国の英雄を描いていない。登場するのは、名もなきロシア人ばかりなのだ。
 驚くのは、何よりも敵将であるナポレオンを描いた作品が多いことだ。一見すると、まるでナポレオンその人に魅せられてしまったかのようにさえ思える。フランスの画家のダヴィッドやグロが、同時代人のナポレオンを讃える絵を描き続けたのを別とすれば、時代も国も違う画家のなかで、これほど執拗にナポレオンを描いた者は皆無であろう。
 とはいえ、つぶさにその絵を見てゆくと、ヴェレシチャーギンならではの視点が見えてくる。ヴェレシチャーギンの絵の中のナポレオンは中年太りの小男で、フランス画家の手になる不世出の英雄といった輝けるイメージからは遠い。しかも、どの場面においても、その表情は物憂げであり、時に虚ろですらある。
 自由と平等を旗頭に周辺国の封建制を打破しようとする「解放者」でないことはもちろん、天才的な戦略によって勝利を導く栄光の覇者でもなければ、情け容赦なく武力で他国を征服する憎々しげな猛将でもない。
 俗に『ナポレオン・シリーズ』と呼ばれる一連の絵画は、『ボロディノの丘のナポレオン』(1897)と『ボロディノの戦いの終わり』(1899~1900)の2作品をもって始まる。
 『ボロディノの丘のナポレオン』は、今から攻め落とさんとするモスクワの町を、崖の上に置いた椅子に腰かけて眺めるナポレオンを中心に描く。多くのお付きの将校たちが背後に立ち並ぶが、いずれも華やかに着飾ってはいても、どこかまとまりがない。何人もが望遠鏡で戦況を確かめているが各自各様であり、後列に下がれば、勝手なおしゃべりに興じる者たちもいる。
 皇帝の号令一下、全軍が一丸となり、水も漏らさぬ団結束力で進軍するとはとても言い難い。何の目的による侵攻であるのか、その大元がぐらついているかのようだ。軍幹部らの放縦の前に、ナポレオンは誇大妄想にとらわれた孤独な独裁者にしか見えない。
 もう1点の『ボロディノの戦いの終わり』は、ボロディノの激戦を描いた地獄図である。勝利の雄たけびをあげる兵士がいる一方で、多くの死体が横たわり重なり合う。両軍合わせて8万近くもの兵士が戦死したのだ。ヴェレシチャーギンの絵筆は、これが戦場の現実だと言わんばかりの徹底したリアリズムに貫かれ、戦争の虚しさを描き出す。
 ヴェレシチャーギンは、情熱の対象となるものをもつと、全精力を傾けてのめり込むタイプだったが、ナポレオン軍との攻防については戦史を徹底研究、本まで出すほどだった。トルストイの『戦争と平和』を読んだことが、半世紀以上も前の戦争に向かわせるきっかけになったという。
 さて、20世紀の初頭、ヴェレシチャーギンの『ナポレオン・シリーズ』を現地ロシアで見て、感心したひとりの日本人がいる。
 『不如帰ほととぎす』『自然と人生』などの作品で知られる作家、徳富蘆花――。1906年、日露戦争の終了直後にパレスチナからロシアへと旅をし、『順礼紀行』を綴った。ロシアでの旅の主目的は敬愛してやまないトルストイを訪ねることだったが、『順礼紀行』では、ロシアで鑑賞したさまざまな絵画についても述べている。
 ヴェレシチャーギンについては、サンクト・ペテルブルクで主に『ナポレオン・シリーズ』を、モスクワで『トルキスタン・シリーズ』を見たとある。それらの作品中、蘆花が最も深い印象を受けたのは、『ナポレオン・シリーズ』のなかの『モスクワを前に ~ロシア貴族代表団を待ちつつ~』であった。
 対ロシア戦の緒戦に勝利したフランス軍は、いよいよモスクワを占領する。モスクワの西南にある丘(「雀が丘」と呼ばれる)の上に立ち、ナポレオンは町を眺める。モスクワ川と、その先に広がるロシアの古都の輝き。クレムリンの黄金の塔……。
 ナポレオンは、征服者に慈悲を乞い願うロシア貴族の代表団を待つ。だが、使者は来ない。ロシア側はモスクワを捨て退却、町はもぬけの殻だった。交渉すべきロシア貴族すらもいなかった。
 「ただ余が記憶に残れるは、奈翁ナポレオンが雀が丘に立って莫斯科モスクワを下し見る絵なり。兵士は小さく帽をささげて歓呼するに、奈翁ナポレオンは大きく手をうしろにして黙然と丘に立ち、莫斯科モスクワ夢の如く下に隠見いんけんす。蓬々はらはらたるもの奈翁ナポレオンの腰をかすむ。砲煙か、焚火たきびの煙か、雨煙か分明ならず。余は此の一幅に「かちかなしみ」を示されぬ」――。
 この絵に「勝利の哀しみ」を感じたとする蘆花は、ヴェレシチャーギンの意図を正確に見抜いていたと言うべきだろう。
 実をいうと、蘆花はロシアで実見した絵画のうち、例えばレーピンほどにはヴェレシチャーギンを評価していない。代表作の『戦争の結末』についても、「一将功成いっしょうこうなりて万骨ばんこつ枯るる髑髏しゃれこうべの山は、浅露せんろに過ぎ……(中略)あまりセンセーショナルなるの難あるべし」と、なかなかに手厳しい。ショッキングなメッセージ性について、蘆花は表現として直接的に過ぎ、芸術としての深みが不足するように感じたものらしい。
 その蘆花をして感心せしめたのが、『ナポレオン・シリーズ』の『モスクワを前に ~ロシア貴族代表団を待ちつつ~』だったのである。
 絵を鑑賞したのみならず、実際に雀が丘を訪ねてもいる。蘆花はかつてその場所に立ったナポレオンを思い、そしてその姿を描いたヴェレシチャーギンの絵に思いを馳せる。
 「莫斯科モスクワは夢の如く隠見す。奈翁ナポレオン此処ここに立ちしより百年過ぎぬ。雄図一決ゆうといっけつ何の残る所ぞ。此世このよの国を追う者は皆如斯かくのごとしただくうつかむ。ヱレシチャギン(註 オリジナル本では「ヱ」に濁点を付す)を思い出でて、悵然ちょうぜんたたずむ折から、ほとり近き茶亭にマンダリンの女が弾くツィガン(ジプシー)の曲物哀しく、はらわたを断たむとす」――。
 古戦場になおも残る悲哀――。戦争に勝者などない。ヴェレシチャーギンの信念は、トルストイを介して、蘆花の思いに重なっている。

 後の展示室は、最晩年に訪ねた日本関係の絵でまとめられている。コーナー・タイトルは、「日本への愛、日本との戦争での死」とある。
 1903年、ヴェレシチャーギンは日本を訪れた。世界を旅する彼の冒険心は、ついに極東の果てまで到達したことになる。2か月ほどの滞在の間に、東京、京都、日光などを訪ね、10点近い絵画を製作したが、それらの絵は30年を超すヴェレシチャーギンの画業の最終章となった。
 日本での絵は、人々を描いたものと、風景――というよりは、神社仏閣を描いたものに大別される。人物画としては、かつて中央アジアやインドでそうだったように、まずは異国風俗のなかの男性の肖像を描いている。年輪とともに哲学的な思惟を熟したかに見える老僧を描いた『日本の僧侶』(1904)、尺八を吹く虚無僧の全身像をとらえた『日本の物乞い』(1904 原題ママ)などがある。
 中央アジアやインドの時と異なるのは、女性を描いた絵がメジャーになったことだ。『日本シリーズ』と呼ばれるこれら一連の日本を描いた作品において、ヴェレシチャーギンの描く人物は、初めて「男女平等」となった。
 大きな鉢に植えられた菊の花をめでる女性を描く『日本人』(1903)は、着物姿も艶やかで、花と女性、ふすまや扁額など室内の装飾に至るまで、絵全体に華やかな色使いが目立つ。この女性が芸者など色街の女なのか、一般家庭の婦人なのか、正確には判然としないが、楚々としたたたずまいのなかに静かなロマンティシズムが漂う作品となっている。
 風景画――神社仏閣を描いた絵では、日光で描いた作品が中心をなす。『日光の寺の入り口』(1904頃)のように、建物だけを描いたものもあるが、『日光にある神道の寺』(1904頃 原題ママ)では、神主や参詣の客など人物をまじえて描いたものもある。
 一説によれば、ヴェレシチャーギンが日光を訪ねたのは、皇帝ニコライ2世から、日光東照宮を描くようとの密命を受けたからだともいわれる。
 まだ皇太子だった1891年、ニコライは日本を訪問し、長崎から、鹿児島、神戸、京都と旅を続けたが、大津で暴漢に襲われ、旅を中断せざるをえなかった。あるいは日光東照宮を見たいという思いを、当時からずっと抱えていて、ヴェレシチャーギンへの絵画制作委託となったものだったろうか。
 日光ではヴェレシチャーギンは地元の人々の協力を得、ホームステイをし、日光在住の洋画家・五百城文哉いおきぶんさいとも交流を重ねたという。日光訪問の目的はともかく、その滞在においてヴェレシチャーギンは、日本人の暮らしの奥深くにまで立ち入り、人々との密なる触れ合いを楽しんだのである。
 ヴェレシチャーギンは日本に魅せられた。ロシアとも西洋とも異なる文明の洗練された姿を目の当たりにして、それまでに訪ねた辺境の国々とは違った魅力を感じたのだろう。エキゾティズムやロマンティシズムを満たしてくれるだけでなく、混沌や騒乱とは無縁で、平和な暮らしが営まれていることに、賛嘆したものでもあったろう。
 ヴェレシチャーギンはロシアに戻り、日本を舞台にした作品を展覧会にかけた。フランスを中心とする中央ヨーロッパの美術界では、既にジャポニスムの旋風が吹いて久しかったが、この点、ロシアは明らかに奥手だった。ヴェレシチャーギンの『日本シリーズ』は、ロシアにおけるジャポニスムに新たなページを開くものだった。
 国際情勢の変化がなければ、いずれ再び日本を訪れ、遥かに多くの作品を描いたことだろう。かつてヒマラヤやアラタウの山々を描いた人が、日本では、富士山はもとより、何ら雄大な自然も神秘の風景も描いていないのだ。
 若い頃から世界の辺境を訪ね、複眼的思考を鍛えてきた人ならではの、ユニークな日本像が結実したかもしれないのである。あるいはまた、「戦争画家」から「戦争」が外れ、純粋な「画家」へと芸術上の新たな飛躍があったかもしれないのだ。
 だが、その機会は永遠に失われてしまった。ヴェレシチャーギンが日本を訪れたのは1903年の秋だったが、翌1904年の2月には、日本とロシアとの間に戦争が勃発してしまう。
 日露戦争が始まると、ヴェレシチャーギンは極東に向かった。旅順艦隊の司令長官マカロフ提督から招かれ、旗艦のペトロパブロフスク号に乗船、再び戦争画家として従軍した。
 極東の戦場に向かうに際し、ヴェレシチャーギンは次のように語っている。
「平和の概念を広めるのに、力強い言葉で行う人たちがいる。平和を守るのに、宗教、経済、その他、様々な議論によってする人たちもいる。私は同じことを、色を使って説くのだ」――。
 開戦から2か月後の4月13日、旅順港にてペトロパブロフスク号は日本軍がしかけた機雷に触れて爆破、マカロフ提督や500人にのぼる水兵たちが海の藻屑と消えた。ヴェレシチャーギンも運命を共にした。機雷に触れてより沈没まで2分たらずであった。
 遺体は海に沈んだまま、見つからなかった。ペトロパブロフスク号乗船後に描いた最後の作――マカロフ提督の幕僚会議を描いたスケッチが、波間に漂っていたという。
ヴェレシチャーギンの死に対し、日本でも追悼の声があがった。作家の中里介山は『嗚呼ヴェレシチャギン』(原題ママ)という追悼文を『平民新聞』に寄せた。
 「広瀬中佐の戦死、マカロフ提督の溺死、各々其国の主戦論者をして賛美せしめよ、吾人平和主義者はここに満腔の悲痛を以て平和画家ヴェレスチャギンの死を弔せずんばあらず。……(中略)戦争の悲惨、愚劣を教えんとして、而して戦争の犠牲となる。芸術家としての彼は其天職に殉じたる絶高の人格なり――。
 『平民新聞』の主催者は幸徳秋水だが、彼もまた追悼文を自紙に載せた。
 「常に戦争の惨禍を描き人類平和の理想を実現せしむるに尽力せしヴェレスチャギン氏が、旅順に於てマカロフ氏とともに溺死せしは吾人の哀悼に堪える所……(中略)大に戦争の非を論じ、戦争起るに及んで再び旅順に来り遂に戦争の犠牲となれるなれき」――。
別の日の紙面でも再び筆をとって曰く、
 「実にトルストイが文章を以てせし説教を、丹青(*註 絵の具)を以てなしたりき、彼はトルストイと共に露国の人なるも、或意味に於て世界の人なりき」――。
 秋水はここではトルストイに重ねながら、ヴェレシチャーギンの国際性を確認している。今で言うグローバルな生き方に敬意を表している。
 比肩すべき存在とてない孤高の戦争画家が、ロシア一国の利益を超え、人類共通の平和主義を志していたことは、広く認知されていた。死の3年前、ヴェレシチャーギンが第1回ノーベル平和賞にノミネートされたことは、その現われであったろう。
 展示室の最後、すべての絵を見終わった後に、作家ツルゲーネフがヴェレシチャーギンを評した言葉が、パネル化され飾られている。
 露土戦争を描いたヴェレシチャーギンの『バルカン・シリーズ』を見た上での感想なのだが、愛国人士からの批判も強かったその世界を、擁護する発言になっている。のみならず、ヴェレシチャーギンという画家の本質をとらえた至言ともなっている。
 自身も長くパリに暮らし、その地で客死したツルゲーネフには、ヴェレシチャーギンの国を超えた生き方と思想が共感できたのだろう。
「この画家の才能の特質は、自然と人間における格別にして典型的な真実の、絶え間なき追及である。彼はそれを偉大なる忠実さと力強さによって遂行し、時にはいささかどきつくもあるが、常に誠実かつ堂々と行うのである。……彼の描く戦争の場面は、あらゆる狂信的な愛国主義を免れている。ヴェレシチャーギンはロシアの軍隊を『詩』化しようとする。その栄光を語るとともに、戦争のすべての面を見せようとする。悲劇的で、醜く、恐ろしく、そして特に心理的な側面や、彼が不断の関心をそそぐ主題についての諸々を、見せようとするのだ」――。