タイトル

第25回 表

ジャック=ルイ・ダヴィッド
ナポレオンを描いた画家の栄光と無残

作家 多胡吉郎

 美術に関心のない人でも、この絵は目にした記憶があることだろう。前足をあげ峻険な山道に挑みかかる白馬に颯爽と跨り、力強く号令を発する若き将軍。その人の名は、ナポレオン・ボナパルト。フランス革命による混乱を収拾し、自由、平等、博愛の理想を掲げてヨーロッパ中を疾駆、戦いに明け暮れた不世出の英雄だ。
 「ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」と題されたこの絵を描いたのは、新古典主義の画家、ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748〜1825)――。軍事的天分を遺憾なく発揮したアルプス越えの奇襲が行われたのは1800年、ダヴィッドが山路を行く馬上のナポレオンを描いたのは1801年から5年にかけてで、同一の作品が5点も製作された。作品のもつプロパガンダ的性格が、複製を必要にしたのである。
 同じ頃、ナポレオンのために交響曲を作曲するひとりの音楽家がいた。ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン。解放の旗手としてナポレオンを敬慕したベートーヴェンは、新しい交響曲を英雄に捧げようと作曲を進めた。だが1804年、ナポレオンの皇帝就任の報に接して激怒。今に伝わる浄書総譜は、「ボナパルトと題す」のタイトルを消し「シンフォニア・エロイカ」と改題、「ある英雄の思い出のために」と書き足されている。
 ベートーヴェンと違い、皇帝となったナポレオンに対し、ダヴィッドの熱は醒めなかった。新皇帝の首席画家に任命され、1804年12月にナポレオンが戴冠すると、その様子を「ナポレオン1世の戴冠式と皇后ジョゼフィーヌの戴冠」(1805〜1807)にまとめた。縦6・3メートル、横9・3メートルにもおよぶ大作で、描きこまれた人物は200人にものぼる。
 ただ、この絵はなかなかにトリッキーで、物故者や現場には不在だった人(皇帝就任に反対したナポレオンの母など)も登場し、皇帝戴冠を揃って祝福している。歴史的事実を離れ、脚色された絵画なのだ。そもそも、皇帝の戴冠式をテーマとしつつ、実際には戴冠を終えたナポレオンが皇后となるジョセフィーヌに冠を授けるさまを描いており、同席したローマ法王を差し置き、ナポレオンこそが天下の王者であると宣言したに等しい。仕上がりを見たナポレオンがたいそう喜んだというのも頷ける。
 ダヴィッドは熱い血潮の持ち主だった。フランス革命に際してはバスティーユ牢獄襲撃に参加、国民議会の議員となり、ルイ16世の死刑判決に賛成票を投じた。革命政権の指導者として恐怖政治を敷いたロベスピエールと親しく、彼が失脚すると、一時期ダヴィッドも投獄されている。
 やがてフランス革命が終息し、その理念や精神の新たな体現者としてナポレオンが登場するや、ダヴィッドは急接近。権力志向というより、その熱い血が、不世出の英雄に惚れ込んでしまったらしい。ナポレオンの筆頭お抱え絵師として、ダヴィッドは多忙を極めた。その硬質で明確な写実主義と、古典的歴史画にナポレオンの所業を重ねて壮麗に描く手法は、時代の要請にいかにも適していた。
 だが、やがてこの時代の寵児はしっぺ返しを食らうように失墜する。ナポレオンがヨーロッパ連合軍に破れ、皇帝の座から追放され島流しとなるに伴い、ダヴィッドは1816年、ベルギーのブリュッセルに亡命した。王政復古によって国王となったルイ18世はダヴィッドに帰国の道を開き、宮廷画家の地位を与えようと申し入れたが、ダヴィッドは拒否したという。
 1821年、ナポレオンは流刑先のセントヘレナ島で没したが、ダヴィッドの人生から英雄の影が消え去ることはなかった。アメリカの実業家からの依頼を受け、1822年には「ナポレオン1世の戴冠式と皇后ジョゼフィーヌの戴冠」の複製画を製作する。ナポレオンの栄光を背負いオリジナルの絵を描いてより、15年を超す歳月が流れている。時代も自身の境遇も変わってしまったが、ダヴィッドはどのような気持ちで絵筆をとっていたのだろうか……。
 1825年の暮れ、ダヴィッドはブリュッセルで77 年の生涯を閉じた。だがその遺骸は、フランスに戻ることが許されなかった。ルイ16世の死刑判決に賛成票を投じた過去がなおも問責されたのである。心臓だけが、遺体を離れ、故国に戻ることになった。
 革命期のフランスに風雲児として登場し、疾風怒濤のように時代を駆け抜けたナポレオン。その男を描いたダヴィッドもまた、激動期を苛烈に生きざるをえなかった。権力者と画家との蜜月が放つ華麗さと無残とを伝えつつ、ダヴィッドの絵と生は、光と影に彩られた濃密な軌跡を描いている。