第25回 奥

ボナパルト、ああボナパルト、ボナパルト! 
ナポレオンを描いた画家たち、それぞれの運命

作家 多胡吉郎

 「余の辞書に不可能という文字はない」――。あまりにも有名なこの言葉を、実際には言ったとか言わなかったとか、ともかくも、英雄主義を自身のモットーとして、ナポレオンが可能な限りに事にあたり、いつも忙しくしていたことは間違いない。
 ショートスリーパーとしても知られ、1日の睡眠時間は3時間ほどだったという。そういう超多忙な人であれば、肖像画のモデルとして画家の前でじっとしている時間などあるはずもなく、また当人の気質からしても、そういうことを嫌ったらしい。
 画家の立場からすれば実に「やりにくい」相手に違いないのだが、それにしては、ナポレオンを描いた絵画作品は多い。古今東西の指導者のうち、ナポレオンこそは、芸術のもつプロパガンダ性に知悉していた最も早い人物であった。全国の官庁に、自身の彫像を立たせたり、肖像画を飾らせたりした。よって、多くの芸術家が必要となった。
 ナポレオンのもとに集まった画家のうち、筆頭お抱え絵師がダヴィッドであることは先に述べた。面白いことに、両者の出会いは、ナポレオンの方から既に著名画家であったダヴィッドのアトリエを訪ねたのだという。1797年のことで、ダヴィッドは『ボナパルト将軍』という絵画に着手するが、ナポレオンはモデルをつとめることに耐えきれず、顔だけは何とか完成したものの、肩から下はスケッチのままで放置された(後日、それでもこの絵はルーブル美術館に飾られ、1960年代に100フラン紙幣にナポレオンの肖像が使われた際には参考にされたという)。
 ダヴィッドがナポレオンを描いた作品中、屈指の大作は、1804年に執り行われた戴冠式を描いた『ナポレオン1世の戴冠式と皇后ジョゼフィーヌの戴冠』(1805~1807)であった。作品の完成後、1808年には、ダヴィッドはナポレオンから「帝国における騎士ダヴィッド」という爵位を授けられている。
 ダヴィッドの手になる単身像としては、1812年に描かれた『書斎のナポレオン』がある。一見して中年太りに感じるが、既に英雄も50代、アルプス越えで勝利をつかんだ若き日の颯爽とした姿からは遠い。
 軍服は着ているものの(近衛連隊長の制服だという)、帯剣しておらず(剣は椅子の上に置いてある)、政務の合間のような雰囲気を見せる。左腕のカフスボタンのひとつが外れたままであるなど、寝る間も惜しんで仕事をし続ける姿が強調されているようだ。国を率いる仕事人間のイメージを狙ったものだったろうが、そこには端無くも、蓄積疲労や忍び寄る年波といったものも映し出されている。
 実はこの時、ナポレオンはロシア戦線の渦中にあった。極寒の地への遠征で多くの兵を失ったこの戦いを境に、英雄は栄光の座から滑落し始める。1814年に失脚、エルバ島に流され、翌年、エルバ島を脱出して再び権力の座につくが、百日天下に終わって、セントヘレナ島に幽閉の身となり、そこで没した。
 後世の人間として、2年後に彼を襲う運命を知っているからか、この絵には、晩年のナポレオンに迫りつつある影が、どことなく漂う気がしてならない。新古典主義で知られたダヴィッドの筆が、リアリズムの正鵠の中に、英雄の孤独と凋落をとらえてしまったということであろうか。
 ダヴィッドのナポレオンの絵に、プロパガンダ的性格がまつわることは否定しようもないが、政治的広報の具に留まらない画家の真実が込められていることも、偽りのない事実なのである。


 1804年に行われた戴冠式でのナポレオンの晴れ姿を描いたのはダヴィッドばかりではなかった。
 ダヴィッドの弟子のフランソワ・ジェラール(1770~1837)も、戴冠式に臨んだ正装の立ち姿をものしている。『戴冠式の正装の皇帝ナポレオン』(1805)――。
 ジェラールは1770年、フランス人の父とイタリア人の母の間に生まれ、幼少期をローマに過ごした。12歳でフランスに移った後、本格的に美術の道を目指し、16歳の時にダヴィッドの門を叩く。社会的に認められるようになるのは、1800年代に入って以降、師に倣ってナポレオンの絵を描くようになってからであった。
 『戴冠式の正装の皇帝ナポレオン』の絵では、平民出身の皇帝はゴージャスにまとい、頭に黄金の月桂冠を戴き、胸には自身の制定したレジヨン・ドヌール勲章をつけている。右手に握られた杖は、「王の杖」と呼ばれ、歴代の王たちも手にしたもの。今や世の中が変わって、新たな天下人がフランスを治める旨を宣言している。後ろの椅子の上には、「正義の手」を付けた杖や黄金の宝寿などが見え、そういう威厳や正統性を高める小道具もきっちりと配した上で、ジェラールは新時代の統治者を荘厳かつ華麗な雰囲気のなかに描いている。
 ジェラールの肖像画の巧みさは当時から知られ、こと肖像画に限っては師のダヴィッドより上だとの評判さえたつほどだった。
 このことを裏づける興味深いエピソードがある。当時の社交界の名花にレカミエ夫人という女性がいた。15歳にして30歳近くも年上の富裕な銀行家と結婚、文化人や政界著名人の集まるサロンの花形として知られた。ナポレオンの妻となったジョセフィーヌとも一時は交友関係を結び、ナポレオン当人もかなり熱をあげたと言われる。
 この美貌の女性の肖像を、皇帝はお抱え筆頭画家のダヴィッドに命じて描かせる。その代価としてレカミエ夫人を愛人にしようとしたとも伝わる。だが、夫人はダヴィッドの絵がなかなか仕上がらないことに業を煮やし、代わりにジェラールに白羽の矢を立て、新たな肖像画を描かせる。
 一説によれば、画家交代の真の原因はダヴィッドの遅筆ではなく、絵そのものが気に入らなかったからだとも言われる。またナポレオンのよからぬくわだては、夫人から一蹴された。結局未完のままに終わったダヴィッドの『レカミエ夫人の肖像』はルーブル美術館に伝わるが、今ではダヴィッドの描いた肖像画の傑作と評されている。
 さて、ジェラールの『レカミエ夫人の肖像』のほうは、1805年に描かれたが、舞台装置、夫人の衣装ともに、古代ローマの雰囲気のなかにまとめあげている。ダヴィッドの夫人は長椅子に半身を横たえる姿だったが、ジェラールの夫人は椅子に腰かけ、身をよじるようにして、こちらへと微笑みの視線を向ける。清楚であると同時にコケティッシュな印象も強い。社交界中の男たちを夢中にさせてやまなかったという美貌が、白いシュミーズ・ドレスや背景の布の赤さに映えて輝いている。
 ダヴィッドやジェラールなど、ナポレオン時代の画風は新古典主義が主流で、古代ローマは憧憬の対象だった。ナポレオン自体が、ローマの執政官に自己を擬しているところもあって、革命前の絶対王制とは違う社会規範や風俗の向かう先として、ローマの共和制が浮上したのだった。
 ジェラールの絵のなかのレカミエ夫人も、共和制の申し子にふさわしい美神として描かれたが、皮肉なことに、夫人本人はナポレオンの皇帝就任に反対し、やがて反ナポレオン派人士との親交を親密にして、1811年にはパリを追放されてしまう。
 ジェラールが描いたナポレオン絵画のうち、歴史画風の趣をもつ大作に、『アウステルリッツの戦いでのナポレオン』(1815)がある。皇帝就任からちょうど1年後、1805年12月に行われたアウステルリッツの戦いで、ナポレオンはロシア・オーストリアの連合軍を持ち前の天才的な作戦によって撃破、勝利をつかむ。
 ジェラールの絵は、ナポレオンを中心に戦場の様子を描くが、馬上の皇帝はいたって静かで、英雄的なそぶりを見せるでもなく、それ以上に、画面手前の死者たちの存在が気になってしまう。同じく白馬に跨るナポレオンを描きながら、『ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト』をものしたダヴィッドとの差は明らかである。
 ナポレオン失脚後も、ジェラールはしたたかに王政復古下のフランスで生きる。1819年には、ルイ18世から男爵の地位を授かっている。
 世渡り上手、変わり身の早さを指摘することもできようが、おそらくはそれ以上に、気質的にジェラールという人は穏やかで、政治に熱い血をたぎらすタイプではなかったのだろう。そういう、師のダヴィッドとは異なるジェラールならではの絵柄、人柄は、ナポレオンを描いた作品の中にも、おのずと現れている。


 戴冠式のナポレオンを、もうひとり、著名な画家が描いている。ドミニク・アングル(1780~1867)の『玉座のナポレオン』(1806)――。
 フランス南西部のムントーバン近郊に生まれたアングルは、17歳でパリに出、ダヴィッド門下に学んだ。ローマ賞を受賞後、1806年にローマに留学、そのまま18年もの間、イタリアに留まった。1824年、44歳でパリに戻った時には、既にナポレオンは3年前に世を去っていた。
 若き日にアングルがナポレオンの絵を描いたのは、無論、ダヴィッドの弟子であったからだが(1804年には『第一統領ナポレオン・ボナパルト』という肖像画も残している)、立法院からの発注を受けて描いた『玉座のナポレオン』は、ローマへ旅立つ直前の作品で、パリへの置き土産となった絵でもあった。
 戴冠式に臨むナポレオンの装いは基本的にジェラールの絵と同じだが、ジェラールが立像を描いたのに対し、アングルは座像を描いている。特徴的なのは、正面から見据えた堂々たる居ずまいである。日本人である私の目からは、ちょっと不動明王や仁王像の彫刻すらも連想させる。
 1806年のサロンに出品された際には、この正面性が大いに問題になった。15世紀中頃にフランドルの画家ヤン・ファン・エイクが描いたイエス像(『ヘントの祭壇画』の中心画像)との相似が指摘され、スタイルの古さをなじられたのである。アングルがパリを去って長くローマに留まることになったのも、この時の酷評が原因だったとも言われる。
 性懲りもなくというか、アングルは、この正面性を特徴とする絵を、後々にも描いている。例えば、イタリアに移って5年後の作になる『ジュピターとテティス』(1811)において、神々の王たるジュピター(ギリシャ神話におけるゼウス)を、堂々の正面性のなかに鎮座させている。「玉座のナポレオン」と相似形をなすスタイルだ。
 こうなると、アングルにとってナポレオンを描くとは何だったか、見えてくるものがある。新皇帝誕生にあたって依頼を受けた作品を描くのに、アングルは古典のなかにふさわしいスタイルを見つけた。400年近くもの歳月を遡って、彼は超越的な存在を描くにふさわしい、神々しくも力強い表現を発見したのである。
 アングルにとっては、そういう神性表現との出会いの契機がナポレオンの肖像画制作によってもたらされたのであって、彼自身が皇帝となった男の神性に酔っているわけではなかった。この点、ナポレオンに終生心酔してやまなかったダヴィッドとは大いに異なっていた。
 推測の駒をさらに一歩進めれば、かつてナポレオンを描いた時に用いた正面性のスタイルによってジュピターを描くことで、正面性を一個人から解放し、ナポレオンの記憶から脱却しようとしたのかもしれない。
 ダヴィッドに比べ、アングルは32歳も若い。
 新古典主義という物差しで見れば、ダヴィッドからアングルへとバトンが受け渡されたことにはなるが、フランス革命からナポレオン時代へと駆け抜けた時の潮流にまさに掉さすかたちで生きたダヴィッドと、ポスト・ナポレオン時代に人生の円熟期を生きたアングルとでは、当然ながら、ナポレオンとその時代に対する埋めがたい温度差を抱えていたのである。


 最後にもうひとり、徹底してナポレオンを描き、ナポレオンから抜けられなくなってしまったかに見える画家について述べよう。
 アントワーヌ・ジャン=グロ(1771~1835)――。もともとダヴィッドの門下生であったが、フランス革命の挫折とともにイタリアに赴き、ミラノで当時イタリア遠征軍の総司令官だったナポレオンと出会ったことが、その後の運命を決定づけることになった。
 1796年に、『アルコレ橋のボナパルト』を描いたのを皮切りに、グロはナポレオンのお抱え絵師として、英雄に奉じる多くの作品を残した。アルコレ橋は北イタリアのヴェローナ近郊にあり、オーストリアとの戦争で重要な拠点となった所で、ナポレオンは困難の果てにここを奪取することに成功した。絵画は無論、かなりの理想化を経たものには違いないが、危険を省みずに軍を指揮する若き軍人の溌剌とした輝ける姿を描いている。
 グロに特徴的だったのは、戦場の現場でのナポレオンを描いたことである。『アレコレ橋のボナパルト』では、スポットライトをナポレオンひとりに絞って描いていたが、やがて、対象を個人から群衆へと拡げ、戦地や戦場の空間を丸ごととらえようとする画風へと発展した。
 グロにはその名を世に知らしめた「ナポレオン3部作」と呼ばれる作品群がある。
 3部作のうちのひとつ、『ジャファ(ヤッファ)のペスト患者を訪れるナポレオン』(1804)は、中東の戦地で伝染病に罹患した兵士らを病院に見舞い、あたかもキリストのように病人に接するナポレオンを描いたもので、宗教画がナポレオンに接ぎ木されたような雰囲気をもつ。
 感染を恐れず患者に声をかけ手を差し伸べる聖者然とした英雄の姿は、多分にプロパガンダ的演出が濃厚だが(実際には伝染病に罹患した兵士を足手まといになるとして毒殺したとの説まである)、見る人々には間違いなく感銘を与えたことだろう。グロの筆は、場所柄ゆえの異国趣味も含みつつ、この劇的な場の雰囲気を余すところなく伝えている。遠景の丘の上に翻る三色旗(フランス国旗)が、事の意味、その政治性を明確に表している。
 続く『アブキールの戦意』(1806)では、直接にナポレオンは登場しないものの、オスマン・トルコ軍に対するフランス軍の戦勝を描き、プロイセン・ロシア連合軍との戦いを描いた『アイラウの戦い』(1808)では、雪に覆われた戦場での凄惨ともいえる苦難の様子を徹底して描いている。
 このアイラウの戦いはフランス軍が勝利を収めたとはいえ、猛吹雪と酷寒のゆえに犠牲も多かった。グロの絵は戦闘の翌日の光景を描いたとされるが、激戦の跡を確かめ、将兵たちを閲兵するナポレオンは顔面蒼白で、疲労の色が濃い。なおも威厳には満ちているが、かつてアルコレ橋で勇名をはせた若き指揮官とは、およそ異なる姿を見せている。
 グロはそのような困難と犠牲を一身に背負って祖国フランスに尽くすナポレオンに魅せられているのだろう。こうした戦争画によって、グロは自身の画家としての才能を最大限に発揮し、輝かせることができた。底の浅いプロパガンダとは違うところに、グロのナポレオン絵画は結実していた。
 だが、ナポレオン失脚後のグロの道は険しかった。ダヴィッドの一番弟子として、フランスを追放された師から受け継いだアトリエを守り、400人近い弟子たちを率いて行くことは彼には負担だった。
 壮年から老年へと移るなかで、彼自身の才能も衰えて行く。年齢的な問題もあったろうが、何よりも王政復古となり体制が変わったことで、グロの画業は挫折せざるをえなかったのだろう。戦争画家にとって、体制の転換は致命傷を呼ぶものだった。
 ナポレオンを失ってみて、グロは自分がいかに画家として幸福な出会いに恵まれていたか、改めて痛感したはずである。不世出の英雄に従って、中東から東欧まで、各地の戦線に舞台を求め、生と死の究極の姿を、存分に、ドラマティックに描ききることができたのである。
 新古典主義の形式を守りつつも、時にロマン主義の先駆けとなる作風すら見せたグロ。だが、ナポレオンの失脚と死は、グロから栄光と輝きを奪ってしまった。
 1835年、絶望の果てに、グロはセーヌ河に身を投げて死ぬ。ナポレオンが没して10年後のことであった。
 小説『赤と黒』で知られる作家スタンダール(1783~1842)は、自由主義者でありつつ、熱心なナポレオン崇拝者だった。「ナポレオンは私が尊敬する唯一の人物だ」と公言して憚らず、しかも、ナポレオン失脚後、王政復古時代になっても、変わらぬ敬慕を語ってやまなかった。
 独裁者が自己宣伝のために画家たちを強制動員し、画家たちが意に染まぬながらも協力の絵筆をとったという図式ならば、いっそ話は簡単である。しかし、ナポレオンという強烈な寵児が放つオーラは、少なからぬアーティストたちを真に魅了してやまなかった。
 時代の熱気が潮の退くように冷めるとともに、絵筆を違うところに向け得た者たちは幸いであった。だが、時の熱そのものに染められてしまった者は、ついぞその呪縛から逃れることができなかった。
 権力者と芸術家たちの奇妙な蜜月のうち、ナポレオンと彼の絵を描いた画家たちの場合ほどに、濃厚かつ豊潤、残酷にして魅力的であった例を私は知らない。
 革命を成就させた国、フランス。絵画芸術の王国、フランス。その両者にまたがる独特の境地に華麗な花を咲かせた一群のナポレオン絵画――。不世出の英雄ボナパルトは、画家たちの人生の浮き沈みをも巻き込みながら、時を超えた永遠の主役として、画面のなかに輝き続けるのである。

▲ 第25回「表」を読む