第24回 表

廃墟の画家、ユベール・ロベール
古代と革命、ギロチンを免れた男の2つの時間

作家 多胡吉郎

 

 アテネのパンテオンを始めとする、ギリシャの古代遺跡をまわったことがある。2千年を超す時を経たいにしえの神殿が、抜けるような青空のもと白々と輝き、歴史の証人よろしく、静かに、厳かに佇んでいた。人間の叡智の栄光と、その営みのはかなさを漂わせつつ、悠久の時に寂びた廃墟の美は、京都や奈良とはまた違ったスケールで迫り、豊かな詩情で胸を満たした。
 ギリシャ・ローマの古代遺跡は、風景画の伝統の中で確たる地位を保ってきた。とりわけ18世紀フランスで活躍したユベール・ロベール(1733〜1808)は、廃墟のある風景ばかりを描いて、「廃墟の画家」と呼ばれた。当時、ポンペイやヘレクラネウムなどの遺跡が発掘され、古代ブームが起きていたのである。イタリアに遊学し、数々の廃墟と出会ったロベールは、ポンペイにも足を延ばしている。
 パリに戻ったロベールは、廃墟の風景画によって人気を博し、フランス宮廷との関わりを濃くして行く。国王の庭園デザイナーに指名され、王室絵画コレクションの管理者ともなり、ルーブル宮の改造や美術館計画にも従事した。マリー・アントワネットを王妃に迎えたルイ16世の時代、華美を極めた宮廷文化の一画で、廃墟の詩情を画布にとらえた画家が活躍していたというのも、ジグソーパズルでも見るようで興味深い。
 ただ、「廃墟」という言葉については注意を要する。これはフランス語の「ruines」、英語でいう「ruins」からの日本語訳なのだが、「遺跡」もまた同じ言葉からの訳語である。「廃墟」と聞くと、我々はすぐ「諸行無常」や「盛者必衰」など、仏教的な儚さ、虚しさなどを想起するが、本来はそうしたネガティブな観想だけでなく、時の移ろいを経て残存する荘厳さや永遠性といったポジティブ・イメージをも包括している。かのヒトラーが廃墟の絵を好んだというのも、深層心理に滅亡願望が潜んでいたやもしれず、一応は千年王国を目ざしたプラスの意志が言わしめたのである。
 面白いのは、ロベールの廃墟の絵が抱える2つの時間である。ひとつは、昔日の栄華の面影を残す廃墟がまとう悠久の時だ。もうひとつは、絵が描かれた当時、廃墟で憩い、労働する人々が生きる日常の時間である。この2つの時間はかなり意識されたものらしく、彼の廃墟の絵には決まって現実を生きる人間たちが小さく描きこまれている。
 ロベールが生きた18世紀後半のフランスは、やがて天地がひっくり返るほどの激動の現実を背負い込む。バスティーユ牢獄襲撃に端を発した革命である。ルイ16世夫妻を始め、多くの王党派の貴族たちがギロチン台に送られた。宮廷とつながりの深かったロベールも逮捕され、死刑判決を受ける。だが処刑当日、手違いが生じて、代わりに他人がギロチンにかけられ、辛うじてロベールは断頭台の露と消える運命を免れた。革命政権がそのまま続けば再び死刑執行となったろうが、恐怖政治をしいたロベスピエールが失脚、ロベールは釈放された。
 間一髪で処刑を免れて以後、ロベールはなお13年を生きる。宮廷の手を離れた新生ルーブル美術館の設立委員のひとりに任じられ、改造計画に尽力した(新生ルーブルは1801年に開館)。
 1796年、ロベールはまだ整備中であった美術館をテーマに2点の絵画を発表した。1点は『グランド・ギャラリーの改造計画』と名づけられ、進行中のルーブル美術館の完成予想図的な作品であった。ユニークなのは別の1点、『廃墟となったグランド・ギャラリーの想像図』のほうだ。廃墟の画家の本領発揮というか、自分が関わる新美術館の完成を前に、彼の目は遥か未来の廃墟を透視してしまうのだ。
 傑作が溢れていたグランド・ギャラリーが朽ち果て、荒れ放題に荒れている。壁を埋めていた名画ももはやない。画面右手下方に、ミケランジェロの彫刻『瀕死の奴隷』(現在もルーブル美術館にあり!)が見受けられるが、破損し、放置されている。
 しかし、目を凝らすがよい。画面中央に、廃墟となった現実を無視するように、そしてすべてを朽ちらせる時間にあらが うかのように、唯一残った彫像(ギリシャ彫刻の『ベルヴェ デーレのアポロン』)の前で、無心にスケッチをする画家がいる。ロベールの心の奥深くを覗くようではないか!
 政治の嵐が吹き荒れ、革命によって死の淵にまで追い込まれたロベール。現実の時間は沸き立ち、おびただしい破壊と犠牲を強いた。だが古代への憧憬を軸に、悠久の時を貫く永遠の芸術を奉じるロベールの信念は、揺るぎはしなかった。「廃墟の画家」という肩書が呼ぶ感傷的なイメージとは裏腹に、ロベールはたくましく、したたかで、ずっとカッコいい男だったのである。

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